光の翼に包まれていた、ミカエルは。純白の、光輝そのものの兄の翼に。仄かに誇らしさが浮かんだ。この兄の弟である、彼の傍らに立つは己だと。
 同じほど、ためらいをも感じた。躊躇と思うはミカエルのみ。アシュマールが知ればそれを嫉妬と呼んだことだろう。
「兄上……」
 呼べば応える眼差しに、射抜かれそうになった。ミカエルですら。わずかに仰け反った喉をルシフェルが甘く撫でる。
「問うがいい、弟よ」
 声音に含まれた毒は甘く甘く包まれてミカエルには届かない。ルシフェルはそれを楽しんでいた。
「兄上は、なぜ」
「そればかりを問う」
「問えと仰せになったは兄上」
 他の天使に聞かせることはないミカエルの声にルシフェルは静かに笑みをこぼす。
「ならば再び問うがいい」
 喉から頬に指を移せばミカエルが溜息をついた。それを己でなんと感じるか、ミカエルは。ルシフェルが知ることをミカエルが知ることはなかった。
「兄上はなぜ、あのように人間を惑わしなさいます」
「それが我が楽しみならば」
「なぜそれを楽しいと?」
「なれば問おう、愛しい弟。お前はなぜ人間を守る?」
「それが我が務めだからです、兄上」
「務め、と?」
 ルシフェルは笑った。光が射すよう笑った。すべての世界がいまこの瞬間に生まれ出たかのような笑みにミカエルは息を飲んで見惚れるばかり。
「務めとは何故に?」
「私は……、私は……」
 光の中、ミカエルはもがいていた。兄であるそれから逃れようと。否、いっそう深みにはまろうと。いずれにせよ同じこと。ルシフェルは弟の唇を指先で撫でた。
「兄上、こうお考えになったことはありませんか。人間は何故に生まれたのかと」
「知れたこと。我らが楽しみのため」
「――私は思うのです。本当に人間を作ったのは、我らが意思であったのかと。私や兄上が、自ら考え人間を作ったのかと」
「違うと申すか」
「我らは?」
 ミカエルは兄を見てはいなかった。ルシフェルは不快に思う。わずかに眉根をよせ、自らの光を弱めた。
 弱まったことで明確となるその眩さ。瞬きをしてミカエルは兄を見つめた。
「我らが、人間を作ったように、我らもまた、何者かに作られたのだとしたら? 兄上、そうお思いになったことはありませんか」
「愚かな」
「たとえ愚かであろうとも、私は我らを作った何者かが、我らの上位者がいる、そう思えてならないのです。だからこそ、我が務めと申しました。私が人間を守るはその何者かに命ぜられたに違いないと」
 ルシフェルが笑う。声もなく音もなく。ただ密やかに。ミカエルは震えた。兄の翼に包まれ、なにを恐れることもないはずが。
「いささか人間に毒されたのではないか、ミカエルよ。我らの上位者?」
「人間に我らがいるよう、我らにもまた――」
「いればなんとする、我が弟、ミカエルよ」
 ミカエルの夕陽の煌きを宿した髪を手に取り、ルシフェルは口許に笑みをたたえる。指の間からこぼし、再びすくってはくちづけた。
「兄上……、そのようなことは」
「ならぬ、と? 誰が決めた?」
「私は、上位者がいる、そう思うのです。兄上。ですから、規律正しくありたい……。このようなこと」
 言いつつミカエルは頬を染め上げていた。うつむく眼差しに表れる羞恥。ルシフェルは笑みを刻んだまま何度となく髪にくちづけた。
「上位者。なんと呼ぼうか。神と呼ぼう」
 喉の奥でルシフェルが笑った。音のない笑みよりも際立つ闇。あまりにも強すぎる光がルシフェルから放たれた。
「神がいるか、ミカエルよ。神の目に適う己でありたいと願うか、弟よ」
「えぇ、そうです。兄上。兄上はやはりわかってくださる。私のことを――」
「私ではなく? 愛しい弟。我が目に適うより、神とやらの目に適いたいと申すか、お前は?」
 憎しみのように甘かった、ルシフェルの声は。動きを止めた弟の眼差しにルシフェルは微笑みかける。甘美この上なく。
「ならばお前は神とやらに従うがいい、この私ではなく」
「兄上、違うのです。そうではない! 兄上とともに――」
「私は何者にも屈せぬ」
 翼がはためいた。ミカエルを包み込んでいた光が刹那のうちに剥ぎ取られる。ルシフェルはいた、そこに立っていた。
 だがしかし、その闇の深さよ。深淵にまで通ずる深く濃いそれ。ルシフェルがまとう光の影。この世のはじめのように美しかった。
「……粗忽者はお前だけではないらしい」
 小さくルシフェルが笑った。彼方を見上げ、見下ろす。不快さを眉根に滲ませ遠くを見やる。そして呟く。
「神と口にしたいま、神は生まれた」
「それでは!」
「我らを生んだ上位者? その概念か。お前がそう思いたいのならば思えばよい。いずれにせよ、我らが道は別たれた」
「兄上! 違うのです。どうか……」
 すがりついてくるミカエルを抱きとめルシフェルは目を細める。満足げな口許に仄かな惨さが滲んで消えた。
「ならばミカエル」
 両手でミカエルを抱き寄せた。光に闇に抱かれた心地だった、ミカエルは。陶然と兄を見やる。見上げた眼差しには何も映らなかった。
「愛しい弟よ」
 触れられた、何かに。何に。ルシフェルの指。否、唇。髪に、喉に、頬に。それから。
「兄上、どうか……」
「やめろと? ならば道は別れたまま」
「なぜ、このような……」
「ミカエルは愛しい弟。愛しいならば、それを示すが道理。このように」
 炎だった、くちづけは。唇に触れたはず、否。触れはしなかった。それですら感じたルシフェルの。吐息が炎ならば、くちづけは。
「ほう。抗うか、ミカエルよ」
 兄の胸を押し返し、ミカエルは自らの行為に呆然とする。それすらもが娯楽とでも言いたげにルシフェルが笑っていた。
「よく考えるがいい、ミカエル。私をとるか、それとも神とやらをとるか」
 そしてルシフェルは光をまとう。強く、強く。天使の目すらも焼くほど強く。その光が薄れたときミカエルは一人だった。
「兄上……。選べません。私には、兄上と神とを選ぶなど。兄上――」
 呟きつつ、膝をついた弟をどことも知れぬ遠くより、あるいは重なるほど近くより、ルシフェルは見ていた。いかにも悦ばしげに笑いつつ。その足元に、アシュマールを置いて。
「好奇心は満たされたか」
 形ばかり膝をついたアシュマールが笑う。ルシフェルは目を細めミカエルの姿を消した。手の一振りもない。ルシフェルが思うだけで、大気の凝った鏡は消えた。
「この上なく」
 アシュマールは微笑み立ち上がる。そしてルシフェルの背後へとまわった。再び膝をつく。見上げたそこには、光の塊。
 ルシフェルの翼に手を触れてアシュマールは頬をも寄せる。涼しく甘い。
「人界の、雪とやらはあなたの羽のひとひらに違いない」
「ひどく冷たいものと聞く」
「なればこそ」
 ルシフェルが振り返った。アシュマールは動きを止め、ひたすらにルシフェルを見つめる。
「我が意に適う」
 アシュマールは崩れ落ちそうになった。覚悟の上の言葉とは言え、瞬き間に時が果てたと錯覚するほど恐怖した。
「参れ」
 ルシフェルの手が誘う。立ち上がったアシュマールはその腕の中にいた。ミカエルのように。ミカエルとは違う眼差しをして。
「麗しきルシフェル。この身にも誇りの欠片があればこそ」
 ミカエルのよう静かに、だが断固としてアシュマールはルシフェルの胸を押しやった。世界そのものを押し返すほどにも力が要った。あまりにも、惜しすぎて。
「御弟君の身代わりはご遠慮申し上げる」
 言い様に、身をひるがえした。言葉ゆえ、滅びてもかまわない。アシュマールは一散に逃げはしなかった。誇りゆえ。
「よくぞ申した」
 ルシフェルも追わない。互いに間を隔て、愛しき者同士が交わす眼差しのよう、見つめあう。先に微笑んだはアシュマール。震え、青ざめつつ。
「申したがゆえ、許す」
 ルシフェルが笑った。笑いながら雷光が放たれる。戯れのよう、アシュマールを襲った。アシュマールは逃げず。
「甘受するか。その心に免じよう」
 ルシフェルの眼差し一つ。雷光がやむ。背を向けなかったアシュマールを寿ぐよう、天使のまわりを雷光の欠片が閃いていた。
「お優しく気高きルシフェル。そのお心がいつかあだとなりませぬよう」
 雷光がルシフェルの戯れならば、アシュマールの一礼もまた。顔を上げるとともに飛び去ったアシュマールは、天界の果てと果てほどにまでもルシフェルから離れ、ようやく身震いをした。
「恐ろしくも優しきルシフェル。我ながらよくぞ滅ぼされなかったものだ」
 苦笑してアシュマールは己の髪に触れた。梳き流していた髪は鮮やかに断ち切られている、ルシフェルの雷光によって。
「さていかがしよう」
 造作もないことだった、髪を元に戻すくらいは。だからこそ、ルシフェルの戯れと呼ぶ。
「いささか言葉が過ぎたか。さすれば――」
 唇を吊り上げアシュマールは笑った。両手を髪に滑らせて整える。そこにはあまりにも短い髪の、異様ですらある風貌の天使。
「これはこれで怒らせるか。それもまた一興」
 敬謙ゆえにしたことではない。自らを省みて悔いてのことでもない。それがわからぬルシフェルではない。
「あちらも、怒らせるか」
 紫めいた目をした異貌の天使はうつむいて笑った。はじめは密やかに。次第にはっきりと。最後は哄笑となりあたりに響いた。




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