ミカエルの切先もまたわずかな震えを見せた。後悔ではなく耐え切れぬ激情ゆえに。それをアシュマールは面白げに見つめていた。 「兄上は――」 口を開いたことが己で信じられないようミカエルは唇を噛む。続けるはずであった言葉は自明。アシュマールがまた笑った。 「おのれ――!」 震えていた切先が、止まる。残照のごとく一筋にアシュマールに向けられた。獣の上、天使は動かず。ただ己の背後、ミカエルの兄たる美しき者の気配を窺っていた。 「いかがなさる、麗しのルシフェル」 首を振り向けもせずアシュマールは言った。仄かな笑みの気配がした。ミカエルの切先が再び震える。屈辱に。 「ミカエル」 動いたとも感じなかった。あるいは世界のすべてが感じた。ルシフェルはいま、ミカエルの眼前にあった。 「愛しき弟」 笑みが、世界を凍らせる。吸い寄せられたがごとくミカエルもまた動けなかった。抗うよう、剣の先だけがあたかも蝶の悶え。 ルシフェルの指先がミカエルの頬を撫でた。獣の上にあってアシュマールは一人ほくそ笑む。先ほどこの己が同じことをされたのだと知ればミカエルはいかがかと。 「控えよ、アシュマール」 「これはこれはガブリエル。お前のそのような顔もまた珍しい。天界にあって最も優美にして心優しき者と呼ばれるお前が?」 「誰のせいと心得る」 「さて。俺のせいとも思えぬが」 アシュマールの視線が兄弟へと向けられた。兄と呼び、弟と呼ぶ。だがしかし、どちらが兄と誰が定めたものか。互いによく似て、時の初めと終りほどにも隔たる二人。ルシフェルの指はいまだミカエルの頬をたどっていた。 「言うがよい、愛しい我が弟」 促しは、強制だった。ルシフェルの言葉に逆らう者がいようか。その声音に逆らえようか。ミカエルは静かに首を振る。 「兄上は、あぜあのような者をご寵愛なさいます」 ひたと向けられた眼差しをアシュマールは受け流す。よりいっそうミカエルの憎悪を煽ると知りつつ。もしも天使に憎悪などと言うものがあるのならば。 「見るがいい、ガブリエル。悪は人界だけではなく、我々にも生まれた」 「なにを」 「ミカエル様をご覧。あの目ははたして天使の目かな?」 咄嗟に振り返ったガブリエルはミカエルの視線に射抜かれた。そのまま動けなくなる。正に、アシュマールの言葉通りミカエルの目にはそれまでなかったものが生まれていた。 「ミカエル様――」 手を差し伸べる、ガブリエルは。かろうじて、それだけが今のガブリエルにできるすべてだった。 「私の目、だと」 が、ミカエルはその手をとりはしなかった。無情にも、目にされることすらなく。力を失ったガブリエルがその場に崩れるのすら、ミカエルは見ていなかった。 「兄上、御覧なさいませ。あの者の目を。あれは我らのうちに生まれたものの目ではございませぬ」 「アシュマール。参れ」 従うより先に従っていた。獣から舞い上がり、舞い降りる。ルシフェルの足元に戯れのよう、跪く。命ぜられる前に、顔を上げた。不快極まりないとミカエルが顔をそむける。 「見よ、ミカエル」 兄の言葉にミカエルは振り返る。唇を噛みしめ、アシュマールを見た。 「美しい、紫だ」 「このようなもの!」 「黄昏の紫をしている」 「お言葉ではございますが、美しきルシフェル。同じ紫ならば曙光射し初めるその前の紫を。あなたの先駆けとして」 「不遜な!」 「黙れ」 世界が黙った。天使たちも、人間たちも。獣、鳥、虫。月の運行すらも、星の瞬きさえも。アシュマールの目だけが、ひたすらにルシフェルを見つめる。 「嘉納しよう」 ルシフェルが微笑んだ。世界は時を取り戻す。安堵の溜息は何者のそれか。世界のそれであったのかもしれない。 「捧げましょう」 アシュマールが笑った。ミカエルの切先がまた、震えだす。ルシフェルが無造作に、剣を大地に突き立てた。ただそれのみで何者にも動かしがたく剣は地を貫いた。ミカエルへの和解ではない、それを見抜いてアシュマールはほくそ笑む。見抜かせたルシフェルの意図通り、口にした。 「麗しきルシフェルよ、それは」 「これもまた戯れの一つ」 「御身の剣の一振りなれば、さぞや見物になりましょう」 人界に、ルシフェルの剣を置く。それと察したミカエルが顔色を変えた。それをとどめたのもまた、ルシフェルだった。 「愛しき弟よ、お前はこの者が気に入らぬと見える」 アシュマールが悔いに見せかけ顔を伏せた。際立つは、嘲り。たしなめるようルシフェルの手がアシュマールの頭に置かれた。 「控えよ」 ガブリエルの言葉になど従うつもりは毛頭なかった。同じほど、ルシフェルに抗えようか。無言でアシュマールは頭を垂れる。 「ならば弟よ。今宵の私はお前のもの」 風がルシフェルを包んだ。夜が衣となった。はためくそれは光そのものでありながら、いっそうに濃い、闇。 「兄上……」 ミカエルを包んだのはルシフェルの衣か、それとも翼か。目を焼かれかねぬ光に顔を伏せたままのアシュマールには定かではなかった。 光が薄れたとき、輝ける兄弟も、そして一角獣もいなかった。呆けたような空虚だけがそこにある。ルシフェルのなせることだった。 「さてガブリエルよ。いかがする」 いまだ倒れ伏したままの同胞に悪戯めいた声をかければようやく天使は身じろいだ。 「ミカエル様は――」 「愛しき兄上とご一緒だ。捨てられてしまったよ、俺は」 「なにを言うか!」 「おかしなことでも? ミカエル様は美しきルシフェルにご執心。誰もが知ることだ」 「愚かなことを言うな」 「知らぬは……。さて? よもやガブリエル。お前、ミカエル様を」 「戯けた言葉はそれまでにするがよい」 携えていても決して抜かれたことはないというガブリエルの剣に今、天使は手をかけていた。今にも抜かんとするそれをアシュマールは面白げに見やる。 「抜かねば、切れぬよ。優しきガブリエル」 「お前は――!」 「抜きたくなければ言うがいい、頼むから黙っていてくれと」 剣が閃いた。抜かれたことのない穢れを知らぬ剣がいま。 「お前はなぜそのようなことばかりを言う。だからこそミカエル様をお前を!」 「性分だとしか言いようがないわ」 「愚かな! 我らは天使。規律正しく、あるべき姿を追うことこそが正しきもの」 「誰が、決めた?」 アシュマールが剣先をかわした。天使らしい金の髪が剣風に煽られる。 「なに……」 「それが天使の性分だと、誰が決めた、ガブリエル? ルシフェルを見ればいい。あれもまた我らのあり方」 戯れのごとく大仰めいて身をそらす。剣など掠りもしないものを。天使らしからぬ紫の目がガブリエルを笑った。 「ルシフェル様にも、お考えが……」 「あろうともなかろうとも。混乱を呼び、混沌を呼ぶのもまた我ら」 「違う!」 「そのような剣では切れぬよ。覚悟が足らぬ、ガブリエル」 言い様に、素手の腕をアシュマールは差し出した、剣の元に。止め切れなかった剣がアシュマールの腕に食い込む瞬間、ガブリエルが青ざめた。 「切りたくなければ、抜かぬが肝要」 息を飲んだ。アシュマールは笑っていた。鈍った剣にあわせるようアシュマールは動く。傷一つない腕をガブリエルに見せ付けた。 「そろそろお暇するとしよう。美しきルシフェルはなにをしておいでかな? 愛する弟御と?」 「ほざけ!」 剣を納め、ガブリエルが走り込んできた。アシュマールは知っていたといわんばかりに笑顔でうなずく。 「覗きに行くか、お前も」 「戯言ばかり抜かすのはいい加減にしないか」 「これもまた、性分」 喉を見せてアシュマールは笑っていた。高らかに、夜空の彼方まで届けと。 「残念だ。嫉妬に狂うお前を見るのもまた一興と思ったが。ならば一人で覗きに行こう。では、またな」 言い捨てて、アシュマールは体を揺する。ガブリエルが追いかけたときにはすでにその背に白き翼を表してアシュマールは空にあった。 人界を駆け、その空を巡る。天界の空とはまた趣の違う空が興味深い。言葉とは裏腹に、すぐに追うつもりはなかった。 「美しきルシフェル。あなたはなにを思う?」 月が傾く人間の世界の空。時の流れの速さが目まぐるしいほど。 「ミカエル様が御兄上を慕っているは自明。なれば――」 アシュマールは一人ごち、ほくそ笑む。ミカエルが己の思いを認めるはずもないことと知っていた。清く、気高くあれとこそ。兄に適う己であれかしとミカエルはそればかりを願っている。 「純粋で、愛らしいミカエル様。あなたが兄上に篭絡されるのを見るもまた、一興か」 喉の奥で笑い、アシュマールは空を駆けた。人界のそれから、天の空へと一筋に。人間の子供が言った、それを見上げて。流れ星、と。逆様に流れる星ではあったが。 光の軌跡は時の流れとは関わりなく天へと届く。アシュマールである光は、より強い、最も強い光を探した。 天界は広かった。歩くならば果てはない。空間と距離が意味をなさない。時と広がりが渾然となる。目的を定めれば、そこは目前にある。 「とは言え……」 形を成さぬ光が呟く。淡い光の影にアシュマールは隠れてもいた。形をなくした光のまま、空に漂う。天界の大地を埋め尽くす青い煌きが光をもまた薄青く染めた。 「覗き見などしようものならばこの俺もまた」 困惑の声とともに、そこにアシュマールが立っていた。腕を組み、悩みに耽るその姿。だが口許には赤い笑み。 「麗しきルシフェル。あなたはなにを考える? あなたにとって弟君は何者か」 遠く呟くアシュマールの声。興味こそあれ、苦味は一滴も。ルシフェルに触れられた頬を自らの指でたどりアシュマールは苦笑した。 あたかもそれは答えを悟ったかのごとく。 |