まず「世界」があった。光が彼らを生さしめた。彼らは世界を天と呼び、自らを天使と呼んだ。天使は考えた。
「我らが天の使いであるならば、使いする場があるはずだ」
 そうして彼らは作り上げた、人界を。そのときより天は天界となった。高みにあり、人界を見下ろす世界。そこにありながら、決して人界の生き物の目には見えない世界として。
 天使たちは作り上げた。人界に住む生き物を。四本足で歩くもの、翼持ち、空を駆けるもの。自ら動くことなく、葉を生い茂らせるもの。花を咲かせ、果実を実らせるもの。それを食むもの。さらにそれを食むもの。
 人界には生き物が蠢いた。
「だが、これでは不満」
 ある天使が言った。一説に、最も光り輝く者だったと言う。薄い笑みすら浮かべ、天使は作った、人界の名に相応しく、人間を。
 天使たちは好んで人界を訪れた。そのころ人はいまだ火を知らず、罪をも知らず。天使をいと高き者と崇めた。
「だが、これも不満」
 そう言ったのは最も光り輝く者にわずか光輝及ばぬ者だったと、ある説は言う。天使は呟く、首を振りながら。
「あれは、我らに似すぎている。それでいながら、まったく似ていない」
「ゆえに、面白い」
「面白くなど」
 天使たちは輝きに圧倒させられんばかりだった。言葉を交わす者たちの、その輝きの強さ眩さ。同じ天使ながら、目も眩みそうだった。
「人間はなぜ。我ら天使が作り上げた存在だというのに、なぜ愚かしい」
「我らより下位の存在ゆえに」
「ならば私は人間を導こう。教え諭そう。規律正しいことこそが、唯一正しいあり方だと」
「ならば私は惑わそう。翻弄し、混乱させよう。混沌こそが、興味深い」
 光が放たれた。あるいはそれは戦いに最もよく似た。が、それは戦いではない。天界に、いまだ争いはなかった。人界にはすでにあふれているとは言え。
 人間を導く、と言った天使はミカエルと呼ばれる。夕焼けの如き金の髪に同じく金の目。宵の明星であるゆえに。
 人間を惑わそうと告げた天使をルシフェルと呼ぶ。曙光のような金の巻き毛に夜明けの如く鮮やかな金の目。明けの明星であるゆえに。
 否、言葉が足らぬ。ここに人間の詩人を連れてこよう。彼はルシフェルを前に言葉をなくし血の気をなくすだろう。絶望のあまり二度と歌わぬことだろう。
 美しいと言う概念など所詮、人の世のものに過ぎない。ルシフェルを表す言葉など、かつてこの世に存在したことはない。かろうじて天使たちが、後にはその堕ちた同胞が思考の中で巡らせる言葉のみが彼の美を語りうる。
 とは言え、いまは語ろう、貧弱なる人の言葉で。天使たちの思考の巡りを捉えていては物語にはならぬのだから。
「光の中の光」
 天使たちはルシフェルを称えてそう呼ぶ。傍らのミカエルは輝かんばかりだった。ルシフェルが捉えきれぬ光ならば、ミカエルは目に見える美だった。
「光が強いからこそ――」
 ある天使は言った。天使がもしも息を飲むということがあるならば、呼吸をさえ止めたままルシフェルを見つめて。
「闇が際立つ」
 この瞬間、闇が生まれた。天使の輝きに闇は押され、天界からは去っていった。闇はいずこへ。人界へ。
 天界の輝きを遠く浴びた人界は、それまで闇を知らなかった。後の世で言う太陽だけが、輝いていた。ある人はそれを天界の輝きだと言う。
 人は闇を知らず、ゆえに驚きこそすれ恐れはしなかった。そこに憩うことを覚えた。いまだ恐怖なき世であったゆえ。天使の溜息ほどの束の間を平穏と呼ぶ。人界に眠りが生まれた。
「実に美しい」
 人界に降りていた天使の一人が空を見上げてそう言った。空には太陽ではなく、遥かな後に月と呼ばれるものが浮かんでいた。
「闇を好むか、アシュマール」
 呼ばれた天使は振り返らなかった。口許に笑みを刷き、その場に膝をつく。声音で悟った。否。存在の気配に悟った。否。夜が彼を呼んでいた。そこに立つのが何者であるかを。
「御身ゆえにいっそう凝った闇が美しい」
 視線を落としたままの天使の前、ルシフェルが歩みを進める。闇がざわめく。慕いよる。その輝きに触れんとして、触れられぬ羨望に身を焦がし。
 天使は顔を上げた。ルシフェルの無言の促しによって。アシュマールと呼ばれた者は天使にしては珍しい風貌を持っていた。長く梳きおろしている髪は変らぬものの、青い目はどこか血の色を帯びて紫めく。
「弟に嫌われたと見える」
 ルシフェルは言った、アシュマールの目を見てそう言った。言われた天使の口許に苦笑にも似たものが浮かんで消える。
「ミカエル様にはこの目がお気に召さぬご様子」
「我が弟ながら不思議なもの。美しい目をしている」
 ルシフェルの指がアシュマールの瞼に触れた。アシュマールの、その形をなさしめているすべてが震えた。歓喜に。
「御弟君より、あなたが美しい」
 頬を撫でる指先から、光が入り込むかの心地だった。酔いかけ、不意にアシュマールは空を見上げる。月が浮かんでいた。なぜとは知らず、身を引けばルシフェルが笑った気配。羞恥に頬染め視線をそらすアシュマールにルシフェルは手を差し伸べる。
「立つがいい」
 その手を取ることなどできようか。あまりにも不遜。が、言葉には従った。このときよりアシュマールはルシフェルの近くにあることを許された。
「忠誠は求めぬ」
「差し上げませぬ」
 それこそを寿ぐよう、ルシフェルが笑った。その笑みの鮮やかさ眩さ。同じ天使たるアシュマールさえ焼き焦がされそうだった。
 人界など、ひとたまりもなかった。害なすものでなかったのがことの幸い。ルシフェルの笑みに星々が生まれた。
「面白いものがまた一つ、生まれた。人間どもが星を見て驚きうろたえている。今宵の遊びはあれに決めた」
 ルシフェルが名づけた途端、それは星となり、人間が見上げた。闇のなか抱き合い怯える人間の間をルシフェルとアシュマールが、ルシフェルに従う者らが駆けていく。
 ふと、ルシフェルが手を上げた。どこからともなく嘶きの声。そこには漆黒の一角獣が立っていた。
「白き獣こそ御身に相応しいものを」
 アシュマールが言えばルシフェルは獣の背に手を置き答える。
「白の一角獣を呼んでもこぬわ」
 不意にアシュマールは笑った。闇の彼方まで届けと言わんばかりの、ルシフェルの前では不遜なほどの。それをルシフェルは咎めなかった。
「御身の美しさに白き獣は恥じると見える」
 黒い一角獣は首をもたげ、アシュマールを見た。その目に不満を読み取って天使は言う。
「お前の黒こそ美しきルシフェルを最もよく飾る」
「来るがいい、アシュマール」
 差し伸べられた手。今度は一瞬たりとも迷わなかった。アシュマールがルシフェルの手を取った次の瞬間、二人は一角獣の背にあった。
 そこここで悲鳴が上がった。怯え逃げ惑う人間をルシフェルは追っていた。罪だなど考えもせず、ただ興味深く。
「兄上!」
 人間には、雷鳴に聞こえた。天使にはミカエルの声と聞こえた。獣の背でアシュマールは不敵に笑う。ミカエルの目が一頭の獣に乗る二人を認めて険を帯びた。
「兄上と言えどもあまりのなされよう。ごらんなされませ、人間はかように怯えております」
「面白いものとは思わぬか、弟よ」
「なにゆえに!」
「我らは何もしておらぬ。ただ、人の目に見えぬ獣を駆り、星のした月のもと駆けて遊んでおっただけよ」
「それが人間を怯えさせると賢明な兄上に――」
「人を怯えさせて、なにがお前の気に障る」
「それは、悪と言うものです、兄上」
 ミカエルが口にした、悪と。人界は、人間に住みよいところではなかった。天候の崩れに命を絶たれ、獣に怯え、闇にもいまは怯える。
 それでもこの瞬間まで、悪は人の世にはなかったものを。ルシフェルが莞爾とした。背中にそれを感じたアシュマールの背筋が震えるほどに。
「不用意なことよ、我が弟。お前が悪と言ったがゆえに、人界に悪が生まれた」
 見ろといわんばかりにルシフェルが手を振った。そこには悪があった。ミカエルが顔色をなくし、自らの失策に舌打ちをする。
「お珍しい、ミカエル様」
「なにを――」
「舌打ちなど、気高きあなたには珍しきこと」
 アシュマールは笑っていた。一角獣の背にあって、ルシフェルとともにその背にあって。
「いと誉れ高き我らがミカエル様。金に輝き、背の翼は何者にも勝る純白。あなたこそは美しい」
 ミカエルが剣を抜いた、アシュマールの嘲笑に。嘲われていると気づかぬはずはなかった。誉れ高きは兄のこと。金に輝くも、純白も兄のもの。美とはルシフェルにこそ捧げられたもの。
「およしなさい」
 夜目にも鮮やかな白の翼だった。ルシフェルの翼が目を焼く白だとするならば、これはなだめの白。心和ませる柔らかな輝きだった。
「止めるな、ガブリエル」
「いまここで止めねば後悔するのはあなた様。せっかくの人界が消し飛んでもかまわないと仰せか」
「アシュマールごとき、剣にかけたとてこの世界が消えるものか」
「ルシフェル様――?」
 興味深げに笑みを浮かべ聞いていたルシフェルに、ガブリエルと呼ばれた天使は問いかける。あなたはいかがするかと。
「我が手元にあるものに剣を向けるか、ミカエル」
「兄上!」
「これは我が遊び道具。いまだしばしは壊さないでもらおう。ゆえに――」
 獣の背の上ルシフェルが身じろいだ。そのとき天使の腕には剣が。ミカエルの剣を金の光とするならば、ルシフェルのそれは銀。輝きに目を焼かれ、色などとても定かではなかった。
「私に剣を向けなさいますか、そのような者のために!」
「遊び道具を壊されては困る、そう言った」
「およしなさいませ、お二方とも!」
 止めに入ったはずが、互いに剣を抜くところまで進めてしまったガブリエルが困惑を極めて叫ぶ。翼の先がためらいのよう震えていた。




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