沈黙が支配していた。 無音ならぬ静寂は、耳ならぬ耳に妙なる楽の音を響かせる。遥か彼方。天より舞い降りる楽は降り注ぎ、散りしだき地の底へ。いつしかそれは生々しい鼓動にも似た。 「なんて、美しい」 それは滝ならぬ滝。光の滝だった。仰げば遠く、源すら窺わせぬほど遠い彼方より光は落ちる。大地に光が届くことなしに。 「天使の滝だ」 紫の目に羨望すら浮かべて滝を見つめるサリエルに、アーシュマは言った。どこか皮肉な笑みを口許に浮かべ。 「それは……?」 滝から目を離すのが、苦痛にも感じた。それでもサリエルは傍らに立つ悪魔を見る。己の鼓動が聞こえた。滝の音は、清らかな音楽は、この魔界の地に届くなり鼓動となる。魔界そのものの音となる。 「あそこから――」 アーシュマが指差す場所。つられるようサリエルは目を上げる。滝の源。それはあるいは。 「……天界、ですか?」 まさか、と目が語っていた。天界と魔界は決して交わらぬもの。交わってはならぬもの。たとえ赤子の小指の先ほどであろうとも。 だが、滝は。光ではあれ、魔界の大地に届くことはないとはいえ。この世界に交わっている。一瞬サリエルが顔色をなくした。 「古い話だ」 アーシュマが答えて笑った。再び、鼓動。それは魔界の大地の立てる音か。それともサリエル自身のものか。 「聞かせて、もらいたいものです」 「さて。どうしようか」 「アーシュマ」 わずかな不満を滲ませてサリエルは悪魔を甘くなじる。堕天使の振る舞いに、アーシュマの目許が和んだ。 「魔界創世の話だ。それでも聞くか?」 「それは?」 「はじめから魔界があったとは、思っていないだろうな? 俺の白い天使」 「天使であったのは昔のこと。数えることすら忘れた昔の」 サリエルが微笑んだ。視線を滝の源に向ける。先ほど浮かべた羨望はどこにもなかった。あるのはただ純粋な驚異。 「お前が天使であったことさえ昨日のことのように思えるほど古い昔には――」 不意にアーシュマが口許をほころばせた。時間など無意味な己が時を口にする皮肉かもしれない。 「そのころに?」 「俺もまた、天使だったさ」 肩をすくめたアーシュマに、サリエルは目を見開いた。何度も瞬きを繰り返す紫の目を愛しげに見やりアーシュマは堕天使の肩を抱く。 「それほど驚くようなことか?」 「ですが!」 「魔界で力ある魔族と呼ばれているものは、天使だった過去を持っている」 「そんな……」 「知らなかったか?」 自明のことを問いアーシュマは堕天使の銀の髪を指先で弄ぶ。涼しい手触りがした。あの、光の滝のように。 「古い戦いの話を知らないお前ではあるまいに」 「その話ならば、多少は」 「あのときお前はどうしていた?」 声音にわずかではあったが、いたぶる意思が宿っていた。ちらりと悪魔を見上げ、サリエルは目を細める。 「私は存在したばかりでしたから」 「だから?」 「……ミカエル様の、仰せのように」 「ほう。お前はでは、敵陣にいたというわけか」 「アーシュマ!」 かつて知らずうちとは言え敵味方であった。それがサリエルを貫く。仰け反った白い喉に悪魔は指を這わせ、唇でも触れていく。 「愚かなことを。お前はほんの少し前まではあそこにいた」 視線が天を示す。永遠の光輝。純粋な規律正しい世界を。サリエルは首を振る。 「お前は何者だった、俺の天使? 愛しい窮鳥よ。我ら魔族に取り込まれる人間の魂を救う監視者、剣を取る天使」 「それは――!」 「昔のことだ、そうだろう? サリエル。が、いずれにせよお前は天使だった。俺はすでに悪魔だ。あのころの戦いなど持ち出すまでもない。どちらにしても敵味方」 「いまは」 「言うまでもない」 唇に、唇が触れる。甘く熱い感触に堕天使は目を閉じた。悪魔の手のなか銀糸が零れ、あたかも小さな光の滝。 「あのころの俺は、麗しきルシファーの側近くにあったよ」 「知りませんでした」 「なにを?」 「魔王が、側近を置くなど」 「言っただろう? 側近くあっただけだ。あの方にそのようなものは必要ない。手駒があればそれでいい」 アーシュマの目がどこかを見た。サリエルはそれを捉える。悪魔の目が向けられている彼方、それは幽愁の海のさらに向こう。ルシファーの居城。 「ではあなたは――」 なぜとなく、サリエルは言葉を濁す。アーシュマの横顔に、尋ねてはならぬ何かを見た気がした。 「許す。聞け」 遠い居城を見つめつつ、悪魔は言った。サリエルは思う。彼のこの背に純白の光の塊が、天使の羽があったことを。とても、想像できなかった。 「魔界創世の戦いのすべてを、見ていた?」 「最も近い場所で。麗しきルシファーの美しさ惨さ心の深さ。すべて見た」 一度深い溜息をつき、アーシュマは滝を見やった。あの滝が、何ものかを彼は知っている。 「そうでしたか。でも、話してくださるには及びません」 「サリエル?」 「時の数え方すら忘れてしまうほど昔のことでも、あなたにとってはいまだ痛みを伴うことらしい、その話は」 己の身を振り返る。決して住み易くもなかった天界。間違っても仲間とは呼べなかった天使たち。かつて天界で存在をはじめ、ただそこにあった、それだけだ。故郷とは思うまい。思えまい。 それでも。あの瞬間を思う。天から離反する、そう決めたあの時を。アーシュマがいた。たった一人を愛した。天使の資格は、それで失ったも同然。 それでも。この身が堕天した刹那、すべてが変わった。世界は彩りを増し、深め、その色を変えた。それでも。かすかにある、喪失の痛み。 「私には、あなたがいた。あなたが待つ、魔界にきた。ただ、それだけのこと。でもあなたには――」 「俺には美しきルシファーがいたさ」 「それはそれで……」 「サリエル」 「なんですか」 「それは、もしかして焼きもちというものか、うん?」 くっと笑った悪魔の目にサリエルは苦痛を見なかった。かっとして振り上げた手をアーシュマは黙って甘受する。仄かに熱くなった頬に、アーシュマは苦笑した。 「くだらないことを言うと、殴りますよ。アーシュマ」 「すでにやった気がしなくもないが」 「いまのは叩いた、と言うんです。殴ると言うのは――」 拳を握って見せるサリエルに、アーシュマは大きく笑った。それで悪魔を捉えていたものが去る。晴れやかに息を吸った。 「許せ、サリエル」 「なにを、です?」 機嫌を損ねたままの堕天使にくちづけを一つ。騙されない、とかすかな呟きが腕の中から聞こえた。 「麗しのルシファーの幽愁は深い。それは、知っているだろう、もう?」 「えぇ、それは」 「いまここに、彼の指が伸びてきた。それだけのことさ」 「え――?」 「彼の憂いを、その一端を味わわされた。俺自身はもうなんと思ってないさ。懐かしいとも思わん。お前と同じだ。天より地が、住みやすい」 何事もなかったかのよう言う悪魔を見上げ、サリエルはどこかを見る。どことも定められぬほど遠い彼方より力を及ぼしたルシファーを。 「それに、ルシファーとは、なにもないぞ」 「あなたの言葉を信じろとでも?」 「麗しきルシファー。そう言っているだろう? 愛しい我が窮鳥、銀の歌鳥」 「それが――」 「ルシファーは、実に美しい。目に楽しい。自分でも彼はそれを自覚している。だからこそ、魔界にあっても天にあった頃の姿を変えていない」 「そんなことが!」 「ルシファーほどの力があれば充分可能さ」 肩をすくめた悪魔にサリエルは息を飲む。ではやはり、彼の背には、かつて光の羽があったのだ、と。いまは失った天使の翼が、天使としての姿が。 「美しいものを愛でるのは、昔からの俺の趣味だな」 かつては金糸であった銀の髪を梳けば、わずかに気配が拒絶する。仕種でもなく、態度でもなく。サリエルの心の奥の片隅だけが。 「愛でるだけですまなくなったのは、お前一人だ。俺の愛しいサリエル」 耳許に囁けば気配が緩んだ。胸元に顔を埋めてくる堕天使の髪を撫で、アーシュマは満足の笑みを漏らす。 「並べてみたいものだな。お前と、ルシファーとを」 「アーシュマ!」 「もっとも、俺にはわかっている。いまのお前は何者より美しい」 不適に笑った悪魔にサリエルは呆れ顔と見せかけた愛を送った。腕を伸ばし、黒髪に触れる。この髪がかつては天使の色であったと言うのか。 「聞きたいか、サリエル。昔の戦いの話をまだ?」 一瞬の逡巡。悪魔がもしも話すことにためらいがあるのならば。そして気づいた。躊躇は己の中にこそあると。 アーシュマがアーシュマではない昔を知ることへの恐れ。すぐに消え去った。いまここに、彼はいる。自分の腕に。 「あなたが聞かせてくださるつもりならば」 「長い話だがな。かまわんよ、座ろうか」 視線を巡らせるだけで、そこには椅子があった。天幕があった。腰を下ろし、冷たい飲み物を手にとった悪魔の足元に、堕天使はしなだれる。そして悪魔を見上げた。 |