妖狐が去ったのを確かめるように見つめていたアーシュマが振り返った。視線の先には、天使。黙然と彼を見る。
 変わって、そして変わっていないサリエルを。天使を包んでいた光輝は消え、けれど天使はいつになく晴れやか。光の代わり、生気をまとう。
 自らの手を握り締め、それでもアーシュマはいまだためらった。
 互いの目を見たまま、言葉を交わしはしなかった。じっと、そのまま。二人とも身じろぎ一つせず、立っていた。サリエルの金の髪が風に流れて柔らかに煌く。
 束の間、あるいはひとつの文明が興り、栄え、滅びるまで。
 物音一つしない妖狐の森の中ただ二人。世界は止まった。否。たとえ今この瞬間に世界が裂け崩れようとも二人の耳には届きはしなかったろう。
 先に動いたのは、悪魔。大きく息を吸い、天を仰ぎ、指を愛しい者に差し伸べ。
 そしてまた世界は動き出す。生暖かい幻魔界の風がまつわりついては衣を揺らした。
「……何故」
 アーシュマが問う。天使は答えない。わずかばかりの微笑を返すのみ。
「答えなど」
 そう、悪魔の伸ばした指先に手を触れた。痙攣するかに震えた悪魔の指を天使は捉え、指先が絡み合う。
「もう――」
「戻りたいとも思っていない」
 アーシュマの言葉を遮り、風が乱した金の髪を残る片手でかきあげた。
 戻る術は己の手で振り捨てた。自ら天を捨て、剣も捨てた。ここにいるのは魂の監視者たる天使ではない。
 それを巧く伝えることができたなら。サリエルは言葉を失ったまま、アーシュマを見る。悪魔の眼差しが揺らいだ。
 だから、それだけでよかった。彼を見るだけで、すべてが伝わった。サリエルの微笑に悪魔は。
「サリエル」
 それは耐え難い慕情の叫びではなく、耳に届かぬかのかそけき囁き。
 けれど声音が語る。その想いの深さを。そしてまた腕が語る。その恋しさを。痛みを覚えるほどに抱きしめられたその腕の力。懐かしい温もり。匂い。帰還した、その安堵。
「会いたかった……」
 この時が来たならば、そう言えるかサリエルは不安だった。天において、何度となく心に叫んだその思い。心わずらうことなどなかった。まるで言い慣れた言葉のように自然に。
「あなたが、好きだ」
 その言葉さえも。戸惑いもためらいもなかった。気恥ずかしさすらなかった。天において何度も繰り返した祈りよりなお、するりと口から出た言葉。あるいはそれは、新たなるサリエルの祈り。
「サリエル……」
 耳元で呟く悪魔の声。今ならばまだ、と。声にならない言葉にサリエルはかすかに首を振る。悪魔の腕の中、金糸が持ち主を裏切って激しく揺れた。
「私は、ただ一人を愛しく思う、それを知ってしまった」
 天使であることは出来ない、と。天使でありたいとも思わないと。それよりも欲しいのは。
 サリエルの唇が言葉を形作るより先、アーシュマは言葉を紡ぐ。サリエルの金の髪が眼前にあった。魔界にもあり、そして魔界には決して存在しない純潔の色。頬を押し付ければ冷たい感触。
「二度と戻れない」
 言って悪魔は苦く笑う。いまですら、おそらく彼はもう戻れない。だが悪魔はためらう。
「望むところ」
 悪魔のためらいに、天使は答えた。わずかに体を離し、敢然と笑みを浮かべて彼を見る。そこには一切の躊躇がなかった。
「魔界――俺の元に」
「……連れて行って欲しい」
「魔界が、恐ろしくはないのか」
「なにを今更」
 サリエルが笑う。
「魔界にはお前の羽根を引きちぎった者がいる。黒狐がいる」
「それから――あなたがいる」
「サリエル」
 抱き合ったまま、目と目が合った。漆黒の目、紫の目。互いの目の中、相手が映る。
 アーシュマは見た。天使の目の中に映る己を。それで充分だった。ゆっくりと息を吸い、彼を見る。悪魔の決心を後押しするよう、天使が囁く。
「アーシュマの、元へ」
 サリエルの言葉は風に飲まれ。
 二人の姿は消えていた。

 一瞬にして幻魔界を跳び、魔界の果てを奔る。冷たく燃える沼を見た。輝ける闇を見た。アーシュマの腕の中で。
 こんなときだというのにサリエルは仄かな笑みを漏らす。やはり彼にはできたのだ、と。自分を抱え跳ぶことなどこの悪魔には易きこと、と。
 その力の程に怯えはしなかった。アーシュマの力を我が物にしたいとも思わなかった。あるのはただ安らぎのみ。
 そして降り立ったは深い深い森の中。生き物の気配のない静けさの中、風が梢を揺らす音。妙に心騒いで、そのくせどこまでも安らぎに満ちている。
 不思議だった。魔界にも安らぎが存在するとは。静謐とは、天にあって魔界になきもの。愚かな思い込みであったことをサリエルは知る。
「ここは……」
 かつて訪れたことのない場所に、サリエルは戸惑う。その戸惑いも心地良い。
「俺の支配する場だ」
 心配は要らない、とアーシュマは笑う。言われるまでもなかった。何一つ不安になど思っていない。アーシュマに漲る存在感に、サリエルは酔う。
「館に連れ帰っても良かったんだが……」
「が?」
「……邪魔をされたくないのでな」
 そう言っては再び笑った。悪戯でもするかの笑みにサリエルもまたつられて笑い、彼の衣にそっと指を滑らせる。ためらうように。
 わずかに伏せたサリエルの目許に仄かな朱。アーシュマの手が金糸を梳いた。
「邪魔、というのは語弊があるか……無理することはない。ゆっくり――」
「ちがう」
 それは意図したよりもずっときつい語調で、サリエル自身が一番に驚く。はっとして顔を上げれば、どこか苦笑めいた彼の表情。
 ゆっくり首を振り、どう伝えていいのか、惑う。伝えるまでもなかった。
「サリエル――」
「私は――」
「いい、わかっている。焦るな、天使」
 からかいを含んだその呼び方に、サリエルは反発を覚えた。もう天使ではない。心の中では。だがいまだこの身は天使。
「私は」
 もう天使と呼ばれたくはない。アーシュマの、その手で壊されたい、天使たるすべてを。望んでも、何を言えばいいのかがサリエルにはわからない。いまだ天使の身たる彼には。
 自分の戸惑いも不安も焦りも知った上で、だからこそ、こうしているだけでいい、そう言ってくれるアーシュマが、愛おしい。けれど。
「あなたに、壊されたい――」
 アーシュマの指が頬を撫でる。その手で、指で、破壊を望む。思うだけで蕩けそうだった。
「俺に?」
「私はもう、天使でいたいなど思っていない。あなたの手で――」
「待て、サリエル」
 性急ともいえるサリエルの言葉にアーシュマは笑みを浮かべ、腕の中包み込む。この美しい生き物を破壊することなど誰にできようか。サリエルの望みを悟っていてすら、アーシュマは微笑む。
「壊されたい、ではない。サリエル」
「では」
「お前の望みは俺を手に入れること。破壊を望むな。うっかり――壊してしまいそうになる」
 悪戯に言えばサリエルが笑った。それが望みならばかまわない、とでも言いたげに。
「誘惑するな」
 金の髪に手を滑らせ、紫の目に見入る。あたかも魅入られたかのごとく。
「誘惑は、悪魔の性」
 ならば自分はすでに魔界の住人。そのことにサリエルは恐ろしいほど安堵した。静かに息を吸い、吐く。正しい言葉が見つかった。すでにアーシュマが教えてくれた。
「あなたが欲しい。でも」
「怖いのだろう」
 この期に及んで焦らずともいい、そう言ってくれる悪魔の優しさ。この魔界の生き物の情の深さにサリエルは我が身を震わせた。
 驚いたよう、抱きしめてくる悪魔の腕。サリエルはその中で首を振る。彼に震えたのではない、と。天にあって、ついに見つけることのできなかった優しさがここにある不思議。
 それをこの手に入れたかった。ようやく見つけた唯一のもの。あるいはそれはサリエル自身の心。
「違う、そうでは……私はどうしたらいいのか、方法が、わからない……」
 漠然とした知識。もしくは本能。それは罪を避ける知恵。天使の。だからサリエルは己の中にあるそれを憎んだ。
 きゅっと唇を噛みしめたサリエルを、アーシュマは見やる。目許にわずかな緊張が走った。この悪魔にして。強大な力を持つ彼にして。
「サリエル」
 名を呼ばれ、顔をあげ。温かい手に頬を包まれた。
「目を」
 言葉に静かに目を閉じ。唇が、触れた。
 かつてのようなものではなく、軽く、ただ軽く触れただけ。それだけで体がくず折れそうになった。
 彼の手が背中を抱け、と導いてくれる。再び、くちづけ。
 唇を割った舌が這入ってくる。柔らかく嬲るそれは、甘かった。
 アーシュマの手が顕在化したままの天使の翼に、触れた。純白の、穢れない翼。
「あ……」
 思わずあげた声に我知らずサリエルは頬を上気させ。
「嫌か?」
 天使の象徴たる光の固まり。穢れなきそれがいまだその身に備わる皮肉を厭うサリエルは唇を歪め彼を見る。
「嫌では――」
「ならば?」
 かすかに笑いを含んだ悪魔の声に、サリエルはからかわれているのを知った。
「触られると……おかしな気分になる」
 素直に口にすれば、アーシュマの笑い声。見上げれば、柔らかく笑っていた。
「そうなっていただけるよう、努めているところだ」
 仰々しい言い振りに、サリエルは笑った。笑い声と共に、体がほぐれる。今なお残っていた強張りが、消えたのはこのときだった。




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