そしてサリエルは見た。 柔らかなくちづけがもたらされる。甘くついばむようなそれに気恥ずかしさを覚えることはなかった。なぜか還ってきた、その思いばかり。 「アーシュマ」 うっとりと呼べば、すぐ目の前で悪魔が微笑む。たまらなく快かった。彼がそこにいる、そのすべてが。 「見るといい」 悠然としたアーシュマに、サリエルは目を細めていた。自分ばかりが穏やかな心持ちになっている。それがかすかに悔しい。 「あなたは――」 言いかけて、けれどサリエルは彼の言葉に従った。天の使者としてあったときのよう、上位者の命に従うのではなく、自らの心からの望みとして。 「あ――」 くちづけの間にそこは森から姿を変えていた。広い天幕に。闇色の天幕の中、かすかに光が灯っている。 「木の根元というのはいかにも味気ないからな」 目を丸くして驚くサリエルにアーシュマが満足そうに笑う。 「おいで」 散乱する色とりどりのクッションに彼は腰を下ろし、サリエルの手をひいては横たわる。それが寝台の代わり。 色の氾濫に、眩暈すらしそうだった。目の眩みを救ったのもまた、アーシュマ。様々な色のひしめく中、一点の黒。 「なんて……」 サリエルの言葉は続かない。美しい、そう言いかけたのかもしれない。恐ろしい、でもあった。あるいは別の何か。 ここにアーシュマがいる。それがすべてで、そして足りない。 温かい腕の中。それがこんなにも心ときめかせるものだとは知らなかった。ざわめいて、ざわめいて、まだ足りない。 あまりのことにふ、と胸を押さえたサリエルの手をとり、アーシュマは唇を重ねる。その手を滑らせその翼に。 他者の手が触れることのないもの。過敏と言っていいほどの感覚を持つ天使の翼。純白のそれを悪魔が愛撫する。破滅を望む気持ちばかりが高まっていく。 「誘惑するな、サリエル」 「そんなことは――」 「俺にお前を壊させるな。――頼む」 嘆願に、知らずサリエルは目を瞬いていた。気づけば首を振っている。 「あなたを、悲しませるなど――」 そのようなつもりはない。ただ、望んでしまう。その唇に、くちづけ。正しい言葉が戻ってくる。 「あなたが、欲しい。欲しくて、どうしたらいいのか……」 吐き出した息は熱かった。目を伏せたまま、サリエルは彼の手をとる。自らの翼に導いた。 ようやくわかる。壊されたいのは、この翼。 「あ」 指先が、そっと翼を撫でた。何度も、掠めるように。思わず漏らした声。その隙に彼の舌が侵入を果たした。 「ん……」 試すようにゆっくりと絡みあわせられた舌のその甘さ。いつしか背を抱いていたはずの手も滑り落ちていた。 アーシュマは唇を離し、そのまましばし愛しい者の髪を手で梳く。金の糸が指の間をすり抜けていく様を歓喜と共に見つめている。 「アーシュマ?」 問われた言葉に答えは返さず。ただその唇を塞ぐだけ。そのほかに、なにが要るのか。 腕に抱いたまま怖がらせないよう、ゆっくりと衣を剥ぎ取っていく。肌に触れた瞬間にだけ、ぴくりと天使は体をすくめた。 「アーシュマ」 怖がったことを振り払うかにサリエルは彼の名を呼び、しがみつきつつ自ら彼の唇を求め。 「ふ……」 心地良い温もりに気づけば二人の間を隔てる衣などすでにどこにもない。 天使は悪魔の肌に触れた。こんな歓びがあることなど知らずに来た。身の内が震え上がるような感覚。 それが快楽というものだと、初めて知った。 悪魔は天使の肌に触れた。恋しい者を手に入れた、その喜悦に指が震える。白い肌が次第に血の色に染まる。 爛熟した白、という色を始めて知った。 震えの止まらない指先が胸にあたりを掠めたときサリエルは声をあげ、嘆願の視線にアーシュマは答えず行為を続けた。 「ん……あ……」 思わず唇をついてしまう声を止めたくてサリエルは我が腕を噛む。 それでも声は止まらない。指の動きにつれて跳ね上がる肢体ももう、止まらない。まだ足らない。思うはそれだけ。 「サリエル」 これ以上噛み続けたら傷をつけてしまう。 そうアーシュマは彼の腕を取っては己の背に回させた。いくらでも力を入れたらいい、と。 悪魔の指は少しづつ下に下がり、待ちわびるばかりになっていた天使の触れてはならない部分に触れ。 「くっ」 それは恐怖だったのか。それとも快楽だったのか。 アーシュマの背にサリエルは爪を立てては首を振る。 「ちが……そうじゃ――」 「わかってる、そのまま」 「は……っ」 嫌がってるわけではない、続けて欲しい、とそう言ったサリエルの言葉にどれほどの喜びを覚えたことか。 唇に笑みさえたたえ、アーシュマは天使のその肌に唇を寄せた。頭上で声が高まる。 「あ……あ……」 途切れ途切れの、声。甘さよりもいっそ苦痛のそれ。 そのくせサリエルの腕はアーシュマの肌から今度は決して離れはしなかった。しがみつく様は、あたかもそのまま悪魔の身に溶け入りたいと。 「サリエル」 呼び声にうっすらと目を開け、それでようやく目を閉じていたことに気づく。 とろりと思考の蕩けたまま、腕を引かれたサリエルは心づけばアーシュマの、上。 「え」 「怖いか」 笑いを含んだ、否定が返ってくると知っている者の、問い。当然サリエルは首を振った、横に。 「おいで」 悪魔の体をまたいでいる天使の腕を取り、それを首に導いた。しなやかな腕に唇を寄せれば、甘い肌の匂いがした。 真正面から見つめあう、その気恥ずかしさに目を背けるサリエルを許さない。唇が彼の顔を追い、その唇を貪った。 「……っ」 アーシュマの指は休んではいなかった。足りないと、求めるのはサリエルばかりではなかった、アーシュマもまた。 サリエルが、天使が想像も出来ない場所に指が触れ。とっさに身をよじったサリエルの体はしっかりと押さえられていた。 「ん……っ」 引き締まった腰に、小さな双丘に、指がかかる。そしてその奥にも。 アーシュマの指が敷物の下、何かを引きちぎり潰した。それを天使のそこに塗りつけ。 「な……っ」 「そのままじゃ、つらい」 「あ――。くっ」 「サリエル」 「あ。あ……」 「サリエル……」 はじめて味わう悦楽に、言葉をなくした愛しい者の名を、アーシュマは何度も呼び、それがなぜこんなにも自分の体を追い詰めるのか、わからなかった。 ただ、何度も呼び、繰り返すその声。 「サリエル」 そう、呼んだとき、悪魔は天使の体を貫いていた。 「――ッ」 衝撃に声もない天使の体を悪魔は抱きしめるだけ。 「ふ、あ……」 ようやくに力を緩めた天使の内部の熱さに、今度はアーシュマがこらえることになる。 「アーシュマ……」 蕩けそうな声が呼ぶ。 知らずきつく抱いたサリエルの肩に埋めていた顔を上げれば、うっとりと笑う、紫の目。 くちづけをひとつ。 それから笑いの返礼にと繋がった腰に力を込めれば、仰け反るサリエルの喉。背に流れる金の髪。喰らいつくよう喉にくちづければ漏れる溜息。 蠢くサリエルの中がより、熱さを増した。 アーシュマは手を伸ばして触れた。背中に顕現したままの白い翼に。 「ひ……っ」 快楽の強さに、苦痛さえ感じ始めていたサリエルが悲鳴を上げては身じろいだ。 その翼にアーシュマは容赦なく、愛撫を加える。触れるか触れぬかの繊細さで指を動かした。そっと翼の付け根の背中を指でたどった。 そのたびに悲鳴とも嬌声ともつかない声があがり、アーシュマを追い込んだ。 「サリエル――」 先に堪え切れなくなったのは、悪魔。腰をつかんで引き寄せて、乱暴とも言える激しさで体を揺すり。 「あ、あ……っ」 今度こそは堪えられない熱を宿したサリエルの内部にアーシュマは精を放つ。 「あ、つ……っ」 それを感じたときサリエルもまた、悪魔の腹を汚していた。ようやく知った充足に、互いの唇がほころんだ。 ひんやりと、けれど冷たくはない風に吹かれてサリエルは目を覚ました。 天幕はどこにもなく、頭上には月光に照らされた木々が茂っていた。 温もりに気づいてはそっと悪魔の腕に頬を寄せ。 「気づいたか」 「ん」 笑いあう目と、目。真夜中と夜明けの色。 「これもまた、いい」 半身を起こしたサリエルに笑ったまま、アーシュマが言う。 その指が髪に触れた。 まるで暁の最初の光のようだった金の髪が、冴え冴えと涼しい青みを帯びた銀色へと、唇は血の色を増し頬には仄かな赤みがさす。そして紫の目だけが変わらず。 サリエルは堕天した。 けれどそれがまるで誇らしいことでもあるかのように、笑う。そんな堕天使にくちづければ仄かに温かい唇。 「とどまれ。――いかにもお前は、美しい」 指先に、銀の髪を巻きつけては離す。弾むよう元に戻るそれは、あたかも月光。清かな月の微笑み。それはサリエルだった。 「悪魔が言ってどうするんです。救われたいのですか」 「救われているさ。……お前がいる」 アーシュマの言葉に笑みを浮かべていたサリエルもその答えには陶然と顔をあげ、己が指で悪魔の顎を捉えてはくちづけをねだる。 アーシュマが愛しい者を抱き寄せた。 と、一陣の風が吹き、後にはただ変わらぬ森。 月光が、この夜ばかりはサリエルの色を移したかの金色に、輝いていた。 |