ふわり、湿った大地に着地する。幻魔界の土は湿って重い。背中に光る純白の翼をひと揺すりし、サリエルは静かに背後を振り返った。 天界の彼方を。 追ってくる者などありはしない。そうわかっていてもなぜか空を見上げずにはいられなかった。己を討とうとその手に武器を携えていたかつての仲間。天から離脱することを、己が規範から外れることをなによりも恐れる天使たち。 「来る、はずがない」 呟いてサリエルはかすかに笑った。逸脱こそを罪とする天使たちが、天界を逃れた自分を追うはずもない。罪に触れることもまた、罪なのだから。贖罪はただ一つ。 「私を討つこと、か」 彼らにそれができるか。サリエルは微笑む。その手に剣が現れた。かつては悪に堕した魂を追った。魂の監視者、戦う術を知るサリエル。 「できるものか、彼らに」 天使に自分を討つことはできない、サリエルは確信している。彼らが自分を討てる最後の機会はいまこの瞬間だけだった。サリエルが魔界に赴いてしまえば、その機会は失われる。 「天使には、できない」 魔界との抗争を、自らの手で引き起こすような真似は。静かな笑みをたたえサリエルは剣を見つめる。そっと頭上に掲げ。そして。 叩き折る。 天使の剣はもう要らない。二度と戻ることのない故郷。自らの意思で天から出奔したサリエルを、あの地はもう受け入れはしないだろう。 もう、そう思ってサリエルは苦笑する。今までだとて受け入れられていたとはとても言いがたい、と。 次に天使とまみえる時は敵味方。彼らは堕天使サリエルに公然と剣を向けることが出来るのを喜びさえすることだろう。 だから、追手は来ない。 今頃サリエルの出奔を知った天界ではその堕天を息を詰めて待っているのかもしれない。次に堕天使が幻魔界に現れる、その時を待って。 サリエルは大きく息を吸い、その思いを退ける。いま考えるべきことではなかった。 幻魔界の大気は甘かった。魔界のそれとは違う濃密さ。ねっとりと絡みつくような不快ではないぎりぎりの大気だった。 がさり、背後で音がしたのに驚いてサリエルは振り返る。そこにいたのは純白の獣。鋭い角持つ白い獣がそこにいた。 「おいで」 人界では清純な乙女だけが触れられると伝えられている白い一角獣のたくましい首にサリエルは手を触れる。しっとりと温かい。獣は穏やかな目をしてサリエルに頬を摺り寄せる。その力強さにサリエルはよろめき、笑う。 と。一角獣がびくりと震えて駆け去った。美しい生き物にサリエルは笑みを漏らす。あるいはそのせいだったのかもしれない、気づかなかったのは。 「天使とは珍しいねぇ」 背後から声をかけられ驚いたサリエルが振り向く。 その目前に立っていたのは、銀の獣。否。豊かな銀の尻尾を持つ、妖狐。薄衣をまとい皮肉げな笑みを口元に浮かべれば、頭上の銀の耳が楽しげに動いた。 「妖狐……」 「おや、それもまた珍しい。妖狐の種族を見知っているとはねぇ」 喉の奥でくつくつ笑う。それに合わせて尻尾も揺れる。銀粉を振りまくような見事さに場違いも忘れてサリエルは見蕩れた。 「どこで会ったものか……そうそういる種族じゃあないからねぇ」 「魔界で会った。黒い……」 言いかけたサリエルの言葉をさえぎったのは妖狐ではなく、重たい植物の蔦。 あっという間に絡めとられ身じろぎさえできなくなった。すがめられた妖狐のきつい眼差し。サリエルもまた睨み返した。 「なにを」 「どうやら面白くないものと見知りあいらしい。『あれ』はお前を楽しい目に合わせたらどんな顔をするだろう、ねぇ」 妖狐の言葉の合間にも蔦は強い力でサリエルの体を拘束する。 サリエルは妖狐のその言葉で察した。これが黒狐の、と。 銀の妖狐は美しかった。繊細な銀色をした長い髪がいつの間にか昇った月の光にさらされて青白く輝いている。背中を覆うそれが風に吹かれて背後を飾る。 「私を殺してもあの……妖狐は、悲しみなどしない。いっそ仇敵と言っていい間柄だ」 黒狐、とは言わなかった。その名を口に出せばこの妖狐はおそらく激昂する。だからサリエルはただ妖狐、と。 「ほお、天使が仇敵、ねぇ」 「魔界で会った、と言ったはずだ」 「それもまた珍しいこと」 「経緯を話す気はないがあの妖狐に親しみは微塵も持っていない」 だから放せ、と。 そう言うサリエルを銀の妖狐は楽しげに見ている。ふさり、尻尾を揺らし思案げに髪を指でもてあそぶ。 「それはそれとして、遊ばせてもらおうかねぇ」 黒狐のことは二の次なのだ、と。珍しい獲物でただ遊びたいのだ、と妖狐が笑う。 「そもそも殺す気などないものねぇ」 「……なっ」 「天使がこんな所に迷い込んでくることなどそうそうあるものではない。楽しませてもらおうか」 指から髪を解き、そっとひらめかせる。つるり、蔦が汁気を帯びた。 「何を……!」 「楽しいことを、さ」 口の端を持ち上げた妖狐の笑い。にたり、赤い舌が唇を舐めた。期待に。それがどんな種類の期待なのか、サリエルはもう知らないわけではない。 今度こそは必死になって蔦の束縛から逃れようと身をよじる。 「無駄だねぇ」 動けば動くほど蔦は汁気を増した。すでにぬるぬると肌に粘液がまとわりつき始めている。 「放せッ」 言っても無駄だと知りつつサリエルは叫び。 その言葉が合図だったように粘液が香りを放った。甘い。熟した果物の腐りきる寸前のような、香り。 くらり、眩暈。 「天使にも効果があるらしいねぇ」 妖狐が嗤う。サリエルは鼓動を速めていく己の心臓をどうすることも出来ないでいた。 「さぁ」 妖狐の言葉に蔦が一斉に動き出す。 触手の先端を天使の白い頬になすりつけ。あるいは白い衣の内の肌に粘液をまとわりつかせ。またあるいはその足に絡みつき、下から蛇のように登って行き。 「やめ……」 力なく振りほどこうとする腕にも触手は絡んだ。頭痛を誘うほどの甘い香りにはっきりと思考が出来ない。 「こちらはどうかな」 妖狐の言葉に蔦が反応する。今まで放置されていた背中の翼に触手が触れた。 「……っ」 サリエルは声を上げた。言葉にならない悲鳴を。 痛みではない。違うものをこのような形で与えられるその、屈辱に。 「おやおや天使がこんなことで悦んでいいのかねぇ」 妖狐が嘲笑う。サリエルだとてかすかに残る正気の中で自らを嗤った。あれほど天界で堕天と言われたものを、こんな形で天使と呼ばれるとは。 「翼がお好みのようだ……」 妖狐の呟きめいた命令に蔦は従う。最も的確に蔦は動いた。翼の付け根にそっと触れる。 「ひっ」 上げてしまった悲鳴にサリエルは唇を噛む。 蔦の触手は動きを休めることなく背中に触れた。わずかに。 触れるか触れないかの静かな接触がサリエルに身悶えをさせ、それが反ってサリエルに正気を取り戻させた。 こんなことになるために天界を出たのではない。 こんなものに堕天させられるために天界を出たのではない。 「おや、まだ楽しめそうだねぇ」 昂然と顔を上げたサリエルの目に快楽の気色が少しも浮かんでいないのを見取って妖狐が笑う。 「ならば」 妖狐が手をひらめかせた瞬間。 サリエルは呼んだ。指輪に向かって。囁くように。 ――アーシュマ。 天使の唇の動きに、妖狐がわずかに足を引いた。その名に驚くかに。そして何も起こらないのに安堵してはサリエルを嘲笑った。 その時だった、二人の間に爆風が起こったのは。 妖狐の銀の髪を巻き上げ、その体をよろめかせた暴風はサリエルには影響を及ぼさない。天使には、ただひたすらな静謐のみ。 風が収まった時、そこには悪魔が顕現していた。 「遅い」 ちらり、サリエルを見てそれだけを言う。 なぜもっと早く呼ばなかったのか、と。サリエルはそう解して苦笑した。やはり指輪を通じて「視て」いたか、と。 もしかしたら呼ばずとももうしばらくしたら、たとえ幻魔界がいかに広大であろうとも居場所を突き止めさえしたかもしれない、ふとサリエルは思う。 指輪越しに視たサリエルの窮状にどれほど身の焼かれるような思いをしていたのか、それを思うだけで胸が痛くも温かくも、なる。 アーシュマは手の一振りで触手を焼き払い、サリエルには傷ひとつつけない。振り向きさえしなかった。 悪魔はただ目の前の妖狐のみを見ている。 「己の所業を悔いるがいい」 「あいにく殊勝は似合わないのでねぇ」 笑う妖狐の口元が引きつる。言葉とは裏腹な恐怖をいささかなりとも感じてはいるのか。同時に、恐怖を感じる己自身への屈辱を。 「黒狐に免じて……」 「あんなものに免じられても嬉しかないさ」 アーシュマの言葉を先取った妖狐は顔を歪ませ、ふっと顔を背ける。月の色をした髪が首筋に絡んだ。 「アーシュマ」 サリエルはただそれだけを言う。ただ彼の名だけを呼ぶ。 振り返ったアーシュマの目に、月光にさらされたサリエルの金糸の髪が。あたかも銀に見紛うほど色の失せた金の髪が。 「ならば気まぐれ、と言っておこうか」 悪魔は眼差しをくれる。 音を立てて髪が落ちた。妖狐の銀の髪がばさりと肩から切られ落ち、あたりに撒き散らされた銀糸が月の光を反射する。 「行け」 アーシュマの言葉に妖狐はゆっくりと背中を向け歩き去る。 木々の影に体を入れるその瞬間、わずかに妖狐は振り返る。断ち切られた髪が頼りなげに肩に揺れ、その口許に浮かぶはにんまりと青ざめた笑み。 そして消えた。 |