あれから何日が過ぎたのか。天界に時間の感覚は希薄で、あの濃密な生気の中に身を置いたことが今は強烈に懐かしい。 「帰りたい……」 心の内に呟いて、首を振って否定した。どこに「帰る」というのか。己の故郷はただここのみ。 仲間であるはずの者たちに排除されていようとも。 顔を合わせれば互いに気まずい思いをする。否、気まずいのはサリエル一人。仲間と思っていたはずの天使たちはみなが揃ってサリエルを避けた。それは帰還初日によくわかった。サリエルは、だから一人でいる。 広大な湖のほとり。変化を嫌う天界の湖は表面に細波ひとつたてはせず、ひたすらに透明だった。中を覗き込めば透き通った体を持つ魚が泳いでいることだろう。それが時折きらり、きらりと光を反射していた。 「いない――」 呟いて、はっとする。目が探していた、あの小魚を。天使の血を求め歯噛みしていた魔界の魚を。いるはずのない、あってはならない存在を。 きつく唇を噛みしめて首を振れば、鏡のような水面に落ちかかる影。己のそれが柔らかな影をも揺らす。琥珀の幹を持ち、緑柱石の葉を持つ木々。葉が水に落ちては澄んだ音を立てる。 その木々の根元に花が咲いていた。淡く濃く、美しい紫の花が。差し込む光に硬質な音を返しそうなそんな輝きを持った花。 サリエルはそれに手を伸ばし、一輪ずつ摘んでいる。硬く輝くくせにそれはしっとりと手になじみ、身を任せるようにサリエルの手に折り取られていく。 自身の目の色にどこか似た色を持つ花を片手一杯に集め、サリエルは溜息をついた。この花は美しい、と言われるのに自分は、と。 うつむくサリエルのこればかりは仲間も貶しようのない美しい金の髪が、光る。風になびくそれは幾分、伸びたか。魔界で悪魔が手を触れた髪。切る気になれないのはそれゆえに。そうと知れば仲間は完全に自分を排除するだろう、そう思ってサリエルはひっそりと笑う。 花は何も楽しみのために摘んだのではなかった。祭壇を飾るため。何者をも愛せ、無闇に殺すな。常々そう言っているくせに花の命はどうでもいいらしい。もっともそんなことを考える天使はサリエル一人であっただろうけれど。 仲間からは愛されることのないサリエルだからこそ、そう考えるのかもしれない。 祭壇の周りには天使の群れがいた。誰も彼もが優しい声で笑いさざめいている。 それもサリエルの出現でぴたりと止まる。 無数の目が自分の姿を追っているのを感じている。けれど努めて気にしないようにしながらサリエルは祭壇にひざまずき、敬虔に頭を垂れては花を供え。 「汚らわしい」 声は頭上から聞こえた。別の音も、ひとつ。乾いた小さな音。己の心がひび割れた気がした。 供えたばかりの花が手で払われていた。無残に落ちた紫の、花。 「堕天が堂々と天に存在するなぞ、間違っている」 天使は言って花を踏みにじり。ぷん、と花の青い香りが鼻をつく。 「花が……」 サリエルは花を悼む。自分が手にしたばかりにと、そう。 「堕天が触れたものなど神聖な祭壇に捧げられるものか」 周囲の声がそれに同調するその響き。勝ち誇ったという顔さえせず天使は今一度花を踏む。紫色の汁が飛び、床が汚れた。それを天使は汚らしそうにつま先でサリエルのほうに追いやる。 「お前に良く似ている」 表情は変わらなかった。が、それはまぎれもなく嘲笑。はっと顔を上げたサリエルに、天使は視線を移す。手が伸びてきた。サリエルにかわす暇も与えず、天使は自らの手にその金糸の髪を巻き取り力任せに引き倒し。 歓声が上がった。 これほどまでに憎まれているのか……愕然とサリエルは感じ、ならば死んでも呻きひとつ立てるものかと思う。 「お前など生まれてこなければ良かったものを。お前の存在で天界が汚される」 髪から手を解き、言って天使は倒れたサリエルを足蹴にする。 漏れそうになる呻きにサリエルは唇を噛み、手を握り締めてはやり返す気を押さえ込んでいた。どうせまともな判断などされはしまい。手を出せば、こちらの負け。いずれ誰か高位の者が騒ぎを聞きつけてくるに違いなかった。それまでは、と。 「悪魔に囚われるなど、おぞましい。どうやって戻ってこれたのか……」 思わせぶりに言葉を切った天使に誰かが続ける。 「元々悪魔の仲間だ」 「汚らわしい振る舞いで悪魔をも籠絡したに違いない」 「白い衣など不遜」 「剥ぎ取れ」 最初に手を触れてきたのは一体誰だったのか。殴り返すわけにもいかず、サリエルはただひたすらに体を丸め抵抗をする。 しかし多勢に無勢。あっという間に髪を掴まれ、仰け反らされては半ば衣を剥がれた。 誰のものだろうか。焼けるような痛みに鞭と知れる。また、剣の痛みも。髪がむしられ羽がむしられ。その翼に剣が触れたときにはサリエルもこらえきれず唇を噛み切った。それでも悲鳴は漏らすまい、と。 「何をしているか」 知り人の声。好意的なわけではないが高位の天使の出現にサリエルは必死で詰めていた息を吐く。安堵のそれではなかったけれど。 「散れ」 その一言で群れていた天使は跡形もなく消えていく。ただ傷を負ったサリエルだけが床の上、残されていた。 「立て」 ミカエルは言い、片時も放すことのない金の剣でサリエルの体をつついた。新たな痛みにたじろぐサリエルに冷たい視線を返したミカエルは言う。 「自重するがいい」 ただ一言。これ以上、どう自重せよと言うのか、サリエルは内心で問い、しかし目には敬虔を浮かべて視線を伏せた。 「そなたの帰還には疑惑が付きまとう。身を慎み、静かに務めを果たすがいい」 「ミカエル様。私は……」 「そなたは以前から人界の者に月の運行の秘密を明かした、と言われている。おそらく事実で、だからこそ堕天と呼ばれる。今度のことばかりではない。一つ一つのそなたの振る舞いが皆の正義を刺激するのだと、そう理解しなさい」 言いつつひらり、剣を振る。まるでその剣で処断したがっているかのようだった。 「穢れた者と共にあった時間が長すぎたのかもしれない。その穢れが皆を苛立たせる。そうなった責任の一端は、そなたにこそある。それにしても……あの穢れた者とよく共にいられたものだ」 言い捨て、ミカエルは立ち去った。足早に、まるでその場にいては自分が汚れる、とでも言いたげに。 釈明ひとつ聞いてはもらえなかった。あの者達も咎められることはあるまい。 それゆえに彼らは代弁者としての力を持つだろう。今後のことなど、考えたくもない。 傷ついた体を引きずって自室に戻る。引きちぎられた髪にも血が飛んでいた。傷ついた肌はいまだ血を流し続けている。そっと髪の中、手を入れる。痛かった。手櫛で乱れを直してもとても彼のするようには出来ない。 痛いだけだった。 甘くも心地良くもない。体の傷にもひとつずつ手を当てていく。傷は治った。けれど安心はしなかった。あの時のようには。 「なぜ……」 戻ってきてしまったのか。はじめから帰るところなどありはしなかったものを。 故郷、故郷と思っていた所はこうして自分を出来ることならば殺してしまいたいと思っているような輩ばかりが住む所。 殺されるかも知れない、という恐怖よりなお強いのは。 「……」 名を呼ぶことのない彼のことのみ。今一度あいたい、そう切に願った。 誰も自分を窺ってはいないことを確かめてそっとサリエルは小箱に手を伸ばす。中から転がり出るのはかの指輪。 指先で赤い石に触れればじわりと温かい。そんな気がする。それを静かに唇に、寄せ。 「あ……」 逢いたい、とは言わなかった。言えば彼は現れるだろう。指輪を通じて。たとえそれが天界の只中であろうとも。一目自分に逢うために。ために殺されようとも。 アーシュマ。 声のない声でサリエルは叫ぶ。優しくしてくれるものの所に逃げたいのではなかった。はじめから天界に戻ったのが間違いだった。 天使の群れに嬲られなくとも、いずれ気づいたに違いない。ここは自分のいるべき所ではない、と。 穢れている。 確かにそうかもしれない。サリエルは自嘲する。もしもそれを穢れ、と呼ぶのならば。少なくとも純粋に天使、とは言えない。悪魔に心を移している。それだけで、充分に。 アーシュマが恋しい。理屈ではない。なにかもっと別なもの。言葉では表せないもの。 「そうか……」 これが恋というものか。ふと気づいてサリエルは笑った。誰にも渡したくない、そう思うこと。他の誰も見たくない、ただ一人だけを見ていたい、そう思うこと。 それが恋ならば、間違いなくそうだった。 黒狐のようになりたくはない。 「そんなこと、させるものか」 知らず呟いていた。アーシュマは自分をそのような目に合わせたりしない。永遠に共に、ではないかもしれない。 そう考えるだけで胸が疼く。がしかし決して黒狐のような思いはさせない。ひたすらに、それだけは信じることができる。それはアーシュマを信じることと同義だった。 サリエルは思う。もしかしたら彼は自分が戻るのを知っていて、あえて天界に行かせたのかもしれない、と。 その考えが浮かんだ刹那、記憶が戻る。パーンと別れる間際、彼は歌った。自分には理解できない歌詞だった。けれどあれを聞いていたアーシュマは。 そう、嬉しそうな顔をしていたではないか。自分との別れに際して。あれは予言詩だったのかもしれない、自分が彼の元に帰る未来の。唐突にそう思う。 「帰ることが予言されているならば、戻らなくては」 深刻な口調で言ったサリエルの顔は笑みをたたえ。 そして自室を抜け出した。 気配がざわめいている。かつての仲間が、サリエルを窺っている。煌くもの。彼らの手に剣。それがサリエルの一瞥に圧された。あるいは彼が身にまとった豊かな生気に。 サリエルは駆けた。天の白い空を目指し、青玉の大地を踏み。金糸を背中になびかせて、背後からは天使の喚声。そして向かうは天界の果て。その手に悪魔の血を飾り、行き先は――。 幻魔界。 |