そして二人は言葉を交わすことなく幻魔界にと入っていく。角のない一角獣が二人を運んだ。
 濃密な森だった。魔界の森とは違う、けれど生気に満ちた森。美、と言うには禍々しく、汚らわしい、と言うには統一の取れたある種の美しさを持った森だった。
 何物かが一角獣の前を横切り、サリエルは驚いて獣を止めた。小さな潅木だった。大地から引き抜かれた根で素早い歩みを進めている。それ以上どうと言うこともなく姿は消え、二人はまた獣の足を進めさせた。
「この辺でいい」
 どれほど歩いたことだろうか。アーシュマは言い、一角獣の背から降りる。なにをするつもりかわからなくともサリエルもまたそれに従う。
「アーシュマ」
 何を言いたいのか、己で彼の名を呼んだにもかかわらずわからない。それを知っているかのよう、悪魔は振り返らなかった。天使は無言で黒衣の後ろ姿を見つめていた。
「もう、いい」
 言ったのは、眼前の一角獣にか。それとも背後の天使へか。あるいは、自分自身にかもしれない。アーシュマの口許にかすかな苦い笑みが浮かんでは消え。
 そして一角獣の背を軽く撫で首を押した。と、獣はもと来た方へと足を戻し始めた。
「自分で帰る事が出来る。心配は要らない」
 サリエルの不安顔に悪魔が言う。それに天使は答えずただここまで運んでくれた獣の鬣を何度か撫で、逞しい首に頬を寄せた。
「ありがとう」
 それだけを言って天使もまた獣の背を押せば、先に歩き出した一角獣のあとに兄弟も従い、消えた。
「これから……」
 どうしようと言うのか。還してやる、一言に彼は言ったけれど、方法までは知らない。天界の者も幻魔界に来ることがあるとは言え、それを探すのは砂浜で特定の砂粒を探すようなもの。
「ついてくればいい」
 悪魔が笑う。心配は要らない、と。
「さあ」
 差し伸ばされる手。
 思わず触れたくなるのを留めるのにどれほどの心の強さがいることだろう。
 サリエルはその促しにだけ従い、手には触れなかった。代わりに己が手を握りこみ、掌に食い込む爪の痛みに堪え。
「来るがいい」
 先に立ったアーシュマの声。木々がまるで門のようになったその下をくぐる。
 一歩。光が目を焼いた。足が虚空を踏む。そこは――。
 天界。振り返れども後ろに幻魔界はない。
「アーシュマ」
「これが一番早いのでな」
 嘲笑するように言ってみせる彼の目が柔らかく笑っている。指輪が温かみを帯び、言葉の調子が本当ではない、と告げる。
 危険だった。それを知らないアーシュマではあるまい。
「天では……」
「わかっている。侵入した悪魔は殺される、そう言いたいのだろう? そう簡単にいいようにはされないさ」
「でも……」
「俺と言う悪魔が天界に入ったことはすでに知られているはず。すぐにも天使がやってくるだろう。……これが一番確実で早い」
 我が身を囮にしよう、と言うのか。はじめてアーシュマの意図に気づき、サリエルは身の内が熱くなる。
 そんな危険を冒してくれるとは思いもしなかった。このようなことだと知っていたなら、天に帰りたいなどと言いはしなかった。
 いや。胸の内でサリエルは首を振る。それでも自分は帰りたい、そう言ったことだろう、と。
「ほら、おいでなさった」
 悪魔の楽しげな声に引き戻され、サリエルは目を上げた。
 遠くかすむ向こうから光がひとつ、近づいてくる。
「なめられたものだな……」
 アーシュマの呟き。
 侵入したものが誰かまではわかってはいまい。だが、彼ほどの強大な力を持つものがここにいるのは知れている。それなのに天使を一人ばかり寄越すか。アーシュマの、それが呟きだった。
 程なく到着した光はここに至ってようやくその身の輝きを弱め、二人の目に触れる形をとった。すっとサリエルが息を飲む。
「これはこれは、ミカエルよ。御身自らのお出迎えとは恐縮しきり」
 いまだ冷たい輝きをまとった天使に向かい彼が言う。それは嘲弄ぎりぎりの物言いだった。
「穢れた者よ、滅びに来たか」
 傍らに立つサリエルに目を向けることなく大天使は言った。すらり、携えてきた剣を抜く。それは黄金の光に満ちていた。
「見捨てられた天使をわざわざ返しに来たのだがな」
「堕天がいるべき場所ではない」
「堕天かどうか、確かめればいいさ」
 冷徹なミカエルの言葉にサリエルはその剣で貫かれでもしたように動けないでいた。
 サリエルは魔界に落ちてから堕天させられたもの、そう聞いていたに違いない。あるいは聞くまでもなかった。魔界に堕ちた天使は堕天となるか、滅びるか。それしかない。救出されることはないのだから、サリエルは。
 だがサリエルは知っている。ミカエルは天界にいたときからなお、サリエルを堕天と呼んではばからなかったことを。
「近くへ」
 いまだ悪魔のそばに立つサリエルにミカエルは言う。その口調に嫌悪がにじみ出ていた。
 おずおずと近づくサリエルの背に大天使の手が触れた。
 その瞬間だった。思わず膝をつきそうになるのを必死でこらえる。ミカエルの手から流れ込んできた圧倒的な力に屈しそうになる。
「立て」
 知らず膝を突いていたサリエルに、意外にもミカエルが手を差し伸べた。その手にすがらなければ立てそうにない。
 立ち上がったサリエルがひとつ、大きく息を吸う。
 その背に光が戻っていた。純白の翼。穢れなき天使の象徴が。
「人の善意を疑うのはよろしくないのではないかね」
「善意、だと。悪魔の」
 ミカエルが笑う。それはアーシュマが聞いても、とても天使の笑い、とは言いがたい嘲りに満ちたものだった。
「要求を言うがいい」
「返しにきただけだ、と言いはしなかったか」
「信用できない」
「ならば俺を無事に魔界に帰す、という保証が欲しい」
「……なぜ、返しにきた」
「気まぐれ、と言ったらいいかね。同族に見捨てられた天使が哀れでな」
「哀れなど……」
 言葉を切ったミカエルが鼻で笑った。
「サリエル。その手の汚らわしい物を捨てなさい」
 不意に言葉を向けられたサリエルが震えた。大天使と力持つ悪魔の間に交わされる言葉の鋭さ恐ろしさ。
「後ほど……わたくし自身の手で、処分いたします。必ず」
 それだけを言うのが精一杯で、あとは汚らわしい、そう言われた指輪に触れるのがやっとだった。
 震えるサリエルに目を向けたミカエルがどう思ったかは知れない。この場はそれで満足、と思ったのだろうか。それ以上の追求はせず、再び悪魔に目を向ける。
「要求は認める。去ね」
 言って抜き身の剣を悪魔の胸に向け。
「まったくありがたいことだ。伝言はないかね」
「伝言などするような相手が魔界にいるものか」
「これはひどいことを言う。パンデモニウムにまします我が主、暁の星、汝が双子の兄・ルシファーに言伝などあろうか、と思ったのだが」
「戯言を。去ね、と言っているうちに行くが身のため」
 冷たい怒りがミカエルの体を焼いた。一瞬の間を置いて金の剣から雷光が走る。軽く身をひねって悪魔はそれをかわし、そのまま消えた。
 サリエルを一顧だにすることなく。天使の指にはまった指輪が仄かに温もりを帯びたほかは、何一つ残さずに。
「体を清めて務めに戻るように」
 ミカエルの言葉に我に返ったサリエルは一礼するのもそこそこに走り出す。
 見慣れたはずの天界の景色。故郷のそれが目に痛い。
 足元に敷き詰められた青玉が照り返す青い光に包まれた建物の数々。整然と生えそろう木々の葉の光沢。透き通る赤玉の花には金剛石かの露が乗っている。
 魔界で夢にまで見た天界の美。驚異の美しさを否定してまで求めた天界のそれ。
 なのになぜこれほど空虚なのだろう。
 我と我が身に問い、答えは知っている。まだ残る指輪の温かさ。それがなににもましてただひとつの答え。
 魔界に囚われる以前に与えられていた部屋にたどり着けばどことなく、荒れている。無理もない、仲間はきっと間違いなく堕ちた、と思っていたのだろうから。
 それに新たな痛みを覚えた。天使たる存在が、仲間の堕天に気づかぬはずはない。つまり、そういうことだった。サリエルは、天使たちから一瞬たりとも仲間だと思われてはいなかった。同族だとは思われていなかった。堕天が魔界にあって真実、堕天となるは当然のこと。そう思われていたに過ぎない。溜息も、でなかった。すでに知っていた。そんな気がした。
 はずしたいわけでもないアーシュマの指輪をそっと指から抜いた。胸の痛みがまるで本当に切られでもしたように、痛む。
 処分する、と言ったそれをサリエルは小箱の中に隠した。魔界の物、とは言えこの程度のものなら魔力がそれほどあるわけではない。ミカエルとて処分する、と言ったものの所在を確かめることはしないだろう。天使なのだから。嘘はつかないはずの存在なのだから。
 サリエルは確かに処分した。壊す、とも破壊する、とも言ってはいないのだから、そう言い訳をして。
 一刻の後、サリエルの姿は天使の中にあった。
 百億の、千億のハレルヤを歌う。父なる神の周りを賛美してめぐる天使の日課。
 気のあうもの同士が固まって歌うその天使の群れに、サリエルは一人、はぐれていた。
 魔界から戻ってきた者。悪魔に送られてきた……紫の目は……やはり……。
 遠近で声がする。歌の合間に声がする。
 サリエルが動くたびにさっと天使は彼を避け遠くでまた、固まった。
 冷たい目を向ける仲間に強いて微笑んで見せても彼らは一様に目をそむけ、何も見なかったように歌を続けた。
 はじめてではあるまい。そうサリエルは唇を噛む。紫の目を持って生まれた故にこんなことは日常茶飯事。
 そっと目を閉じ歌を続け。あれほど願った故郷への帰還、第一日はそうして、過ぎた。




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