湯から上がったサリエルをそのままにしてアーシュマは姿を消した。どこへ行くとも言わず、ただ柔らかい眼差しで見つめた。思いがけないアーシュマの目に動揺したサリエルは視線を落とす。湯面がゆらゆらと揺れていた。
「少し待ってろ」
 それをどう解釈したのか彼はそう言って出て行った。
「サリエル様?」
 湯にあたったのか、それとも己の感情にあたったのか、ぼうとしたままのサリエルの元にパーンがグラスを運んでくる。
「冷たいの。冷たくて、美味しいの。甘くって、ちょっと苦いの。でもとっても美味しいの。サリエル様、飲む?」
 首をかしげ、相変わらずの歌うような言葉。このパーンの歌声を聴くこともなくなるのか、と思えば少し寂しい。
 それ以上のことは今は、考えたくない。
 なぜ、それほどまでに帰りたいのか、も。アーシュマの手を振り払い天に帰ったとて。そこで待つものに思いを馳せる。
 考えそうになる自分の心を叱咤し、サリエルは首を振る。
「サリエル様?」
「いや……ありがとう」
 強張った顔で微笑む。その手にパーンが渡したグラスの中身に口をつければあの日の味がした。
 魔界で目覚めたあの日、アーシュマがパーンに命じて持ってこさせたあの果汁の、味。
 不意にあふれそうになる感情に、サリエルは唇を噛む。果汁の苦味が強くなった気がした。
「サリエル様、その果汁お好き? パーン、きらい。苦いの」
 無邪気に笑うパーン。
 魔界の生き物に無邪気というのはおかしい。天使の理性はそう告げる。けれど彼を無邪気と言わずしてなにを無邪気と言うのか。
 サリエルの前でパーンはくるりと回り自分の好きな果汁の話をする。魔界の果実をサリエルが口にすることはなかったから話の半分もわからなかったけれど、パーンの楽しげな歌声にしばし心を慰められる。
「用意が出来た。行くか」
 訪れた黒衣。それはこの安らかな地より彼を引き離す魔物に見え。
「行きます」
 けれどサリエルはそう答え。「ここ」が安らかな地などであるはずがない、あってはいけない。
 たとえ自らの心がそう告げていようとも、いまだ堕天ならざる身は天に帰りたがっている。帰りたいはずだ。そうでなければならない。己は堕天使ではないのだから。
 天界に歓呼の声もって迎えられることなどない、と知ってなお。
「サリエル様、どちら? いつごろお帰り?」
 立ち上がったサリエルの衣の裾にまとわりつくパーンにサリエルは答える言葉を持たなかった。震える唇を隠そうと顔をそむければ、金糸が優しくたなびいた。
「サリエル様、きらきら」
 梳き流した金の髪に、背伸びをしてパーンが触れる。明るく笑う歌声。
「ありがとう」
 なにに。
 自分の髪に触れているパーンの小さな手をとり、包み込む。含羞んだパーンの手がするりと逃げた。足が、踊りだす。
 それはなにに対しての礼なのか。パーンは考えはしまい。そう思えばいくらか気が楽になる。
「アーシュマ様とサリエル様のお見送り。そこまでご一緒」
 そう言って二人の衣の裾にまとわりつつ躍る小さな姿。
「踏むぞ、パーン」
 まとわりつくパーンを足先でアーシュマは軽く蹴る。笑みが、硬いのはサリエルだけが見ていた。
「いやぁん」
 ころんと転がったパーンが悪戯に主人を睨んではサリエルにすがりつく。そっと腕の中に抱いてから、サリエルもまたパーンと戯れた。軽く背を押せば、転がりだして踊りだす。
 アーシュマはなにも言わずただ目でサリエルを促した。
 そっとサリエルの手に触れようとした手をアーシュマは意志の力できつく握り、指先なりとも触れたい思いを堪え。サリエルもまた、言葉が喉元まで出掛かっているのを必死に堪えた。
 パーン一人、笑い声をあげながら楽しげに踊っていた。

 外に出れば大気が甘い。とろりとした蜜をたっぷりと含ませたかの匂い。
 見れば深紅の花が咲いていた。それが血を流す。いや、錯覚。花弁から滴った蜜が空中で溶け。消える。その濃密な、香り。
 その香りを受けた木々がざわり蠢き、その背を伸ばす。枝々は空に手を伸べ、葉々は緑の色を増す。
 美しくも淫靡な魔界の営み。
 館の前には馬がいた。見事な黒馬が二頭。鞍も手綱もつけられていつでも出発できるようになっている。華麗な馬具が日差しを受けて艶麗に光る。
「アーシュマ」
 馬が用意されているのに怪訝な顔をした。最後の旅は馬でするのか、と。いつものようにアーシュマの腕の中、運んではくれないのか、と。
 言葉にすることは出来ない、問いだった。
「いささかはばかることもあろうさ」
 それだけを言ってアーシュマは答えに代えた。
 天界に戻るというのに悪魔に触れられているのは都合が悪かろう、パーンに知らせたくないのだから明言はしまい、と。
 この期に及んでのその心遣いにサリエルは唇を噛み、かすかにうなずく。噛み切った唇から血の味が滲んで消えた。
「じゃあね、パーン」
 硬い空気を感じて不安な表情のパーンの頭を撫で、サリエルは馬に手をかけた。
 と。不意に響く歌声。パーンの声ではない、もっと豊かで朗々とした声が歌う。歌っているはずなのに、サリエルには意味が少しもわからない。それでいて心の中に歓びが湧き上がる。

  聞きたまえかし 客人(まろうど)
  碧玉より去りし時来たり
  汝 喜びを見出さざれば
  歓喜の歌そは汝を貫けり
  聞きたまえかし 客人
  汝 赤き星持ちたりければ
  とことわの国に安らがざり
  かの光選びたるは汝なりし故
  黒玉より出でし希みの星を
  汝は嘉納せりし故
  みたび聞きたまえかし 客人
  戻り来よ 時定まりければ

 最後の一音が緑の木々に吸い込まれるように、消えた。
 びっくりした顔で立っているパーンにふと、アーシュマが顔をほころばせてその髪を指で梳く。
「アーシュマ?」
「パーンは時折、予言を歌う種族でな」
「予言、だったのですか」
 歌の言葉がまるでサリエルにはわからなかった。
 無理もない、とアーシュマは思う。魔界でも古き言葉に属するそれで歌われた予言の意味をサリエルが知ることはあるまい。
 ただ、その予言歌がアーシュマに与えた希望は大きかった。たかが予言、外れることもあるのだ、という事実を差し置くとしてもまだ。
 サリエルにそれはただ震えるように美しい歌に聞こえていた。
 言葉の意味などわからない、けれど美しい、と。だがその意味のわからない言葉はサリエルの身の内にしっかりと根付き、染み渡った。歓喜の響きとともに。
「行こう」
「はい」
 二人は各々もう一度パーンの頭を撫で、そして馬を出す。馬は従順でおとなしい生き物だった。振り返ればパーンがいつまでも手を振っていた。すぐに帰ってくるはずの主人たちを見送って。
「魔界の馬ですか」
 黙ったまま馬を進めていた。その沈黙を破ったのは、サリエル。瞼の裏に浮かぶパーンの姿に、思いが耐えがたくなっていた。
「いや、それは都合が悪いだろう」
「ですが……」
「実を言えば不具の一角獣だ」
「え……」
 どこから見ても黒馬である生き物が一角獣だったとは。サリエルは驚き額に目をやった。
「角はないさ」
 そんなサリエルをアーシュマは笑った。
「一角獣の子には時々角がないのが生まれてな。たいていは他の幻魔に殺されるんだが、たまたま幼いうちに見つけて連れてきた」
 言ってアーシュマが黒い一角獣の首を撫ぜれば高く嘶きその手の優しさに答える。
「元はといえば幻魔界の生き物だ。魔界のよりはましだろう」
 なぜ、それほどまでに気遣ってくれるのか。問わずともわかっている。わかっているのに今、自分は去ろうとしている。
「アーシュマ。そちらに行ってもいいですか……魔界の外れまで、です」
 アーシュマは答えず。ただその手を伸ばした。馬から馬へと軽くサリエルは引き寄せられ、悪魔の腕に、包まれた。
 その黒衣に頬を寄せる。何度そうしたことだろうか。そうせざるを得なかった場所に連れて行かれたこと、言い訳をしながらそうしたこと、いつしか望んでぬくもりを求めたこと。さまざまな思いが去来する。
「サリエル」
 だから呼ばれて素直に顔を上げた。
 どうなるかわかっていて、アーシュマを見つめた。自ら目を閉じ。唇にかすかに触れる悪魔の唇。そっと掠めるように触れただけでそれは離れた。
 天使はなにも言わずに頬を埋めた。悪魔もまた言葉は口にせず、黙ってその体を抱きしめた。
「魔界の果てなど来なければよい」
 二人ともが思い、二人ともが口にしなかった。
 どれほどそうしていただろう。あれから言葉は交わさなかった。なにを言っても真実ではなくなる、そんな気がしていた。だから二人とも黙したまま、一頭の一角獣に乗り、もう一頭がとぼとぼとついて歩いた。
 砂漠をそうして進んだ。馬は海を渡り波の上を歩いた。幻の森の中、一角獣ならざる一角獣は木々を通り抜け、踏みもしない芝草が濃い緑の匂いを振りまいた。
「サリエル」
 アーシュマは名を呼んだ。それだけだった。
「ええ」
 サリエルもまたそう答えるのみ。
 目の前で森が薄れていた。この先は幻魔界。天界の者がいないとは限らない世界。
 サリエルは大きく息を吸い込み、そして馬を移る。一人になった体は妙に寒い。うつむく顔に金糸がかかる。もう一度息を吸ってサリエルは顔をあげ。そうしてアーシュマに微笑みを向けた。
 風に髪が流れる。鈍く光るそれがまるで流されることのない、涙かに見えた気がした。アーシュマは無言で微笑を返す。悪魔は頬の内側を噛み切り、涙に代えた。




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