びちり。耐えかねた魚が陸に跳ね上がり身悶えた。歯を鳴らし、天使の血を吸った土を食らっている。
 浅ましいより、恐ろしいより。ただサリエルは悲しかった。己ではなく、この魔界の魚の有様が、悲しかった。
「雑魚などにかまっている余裕があるとは、たいしたものだねぇ」
 肌から顔を上げた黒狐が嗤う。この顔もまた、哀しい。サリエルの目に浮かんだものを見て取った黒狐の眦がつりあがる。
「哀れむかッ」
 肌を這っていた手が不意に離れ、黒狐はその手に魚をつかむ。逃れようと魚が跳ねる。水滴がサリエルの頬に滴った。
「見るがいい」
 黒狐の手の中、小魚が歯噛みしている。身悶えする魚に指が食い込む。魚が暴れた。手の熱さだろうか、それとも痛みゆえか。指がさらにめり込み。
 音を立てて魚は潰れた。
 血が、内臓が、サリエルの顔にかかった。黒狐が千切れた魚を池に放り投げればたちまち同族がその両断された体を貪りつくす。
「異端の天使め」
 嘲笑をひとつ。黒狐の舌がサリエルの頬にかかった臓物を拭い去るその生暖かい、感触。
 ひとつの命が無下に失われたときよりもなお不快な感覚。
「堕天にしてくれるわ」
 黒狐の舌がちろり、サリエルの唇についた血を舐め。
「はな……」
「放さん、と何度も言っている。なぁ、知っているか、天使。天使を堕とした者と堕ちた天使の間の絆を」
 サリエルの頬がいっそう、青ざめた。
 それが天使にとって良いことか悪いことかは知れないが、天使を堕落させた者との間には一種の絆が生じる。
 絆、と言って悪ければ呪いだ。天使にとっては、呪い以外の何物でもない。己を堕とした者との間に何かが存在するなど。
 魔界にあってそれは解き難く、堕天を作るのは悪魔であるとは限らない。魔界には、悪魔以外のものも数多存在するのだから。
 黒狐に汚されればサリエルは黒狐に結び付けられる。
 アーシュマではなく、黒狐に。
「黒狐、放せッ」
 ありったけの力こめ手を振りほどく。片方だけが、外れた。外れた拍子にサリエルの血が黒狐の頬に飛ぶ。
「ほう、知っていると見えるねぇ」
 拭った血を黒狐は舐め、笑う。もしもそれが笑みといえるものならば。引きつった、痙攣にも似たもの。目の中にだけ、歓喜がよぎる。
「堕天となった後もアーシュマには逢わせてやろうとも。この黒狐に汚された体でアーシュマにまみえさせてやろうとも」
 哄笑。黒狐の声と、小魚の跳ね回る音。あとはしんと静まり返って音もない。サリエルはただ唇を噛みしめて黒狐を見据える。
 体の上、黒狐がのけぞって笑っていた。
「アーシュマが愛したこの体も心も黒狐のもの。憎め、憎むがいい。死なせてなど、やらぬわ」
 振りほどいたばかり手を再び捉えられ、目の前には黒狐の目。歪んだ熱。狂気。
「誰が……」
 生きてやるものか。どんな手段をとってでも死んでくれる。最後の一片まで粉々に滅んでくれる。それよりアーシュマが――殺してくれる。
 サリエルはそうは言わなかった。ただ胸の内、思っただけで言いはしなかった。
「誰がなんだと言うのかねぇ」
「誰が憎んでなどやるものか。命ある限り――哀れんでやる」
 黒狐の嘲弄にサリエルはそう、答えた。激高することなく、目には天使らしい哀切すら浮かべ。捉れた手首に痛みが走る。
「出来るものなら……してみるがいいッ」
 露になった肌に黒狐が舌を這わす。嫌な感触にただ堪えるばかり。と、息を呑む。黒狐が胸の辺り、歯を立てた。
 痛み。思わず仰け反ったサリエルを黒狐が笑う。胸から脇腹へと、柔らかい肌におぞましい感触が伝っていった。手が、触れてはならないところに触れる。
「天使が両性などと言ったのは、誰なのかねぇ」
 喉の奥の嗤い声。身を捩るサリエル。無駄な努力と知りつつ。
「ほうら」
 手が蠢いた。指が勃ち上がることのないものをしごき上げ。
「……ッ」
 わずかに甘い、感覚。それより恐れが先に立つ。知ってしまうことへとの、恐怖。
 サリエルは傷ついた掌に爪をたて、我と我が身を傷つけた。痛みが恐怖を上回る。背中を大地にこすり付ける。翼の傷跡に、唇から漏れたのは溜息。瞼の裏が白くなるほどの、苦痛。サリエルはそればかりを意識する。
 快楽に屈してしまえば二度とアーシュマに、否、天界に戻ることあたわぬ。
 流れ滴った天使の血が、指輪に絡みつく。悪魔の血の凝った石に天使の血がまとわりつく。黒狐が嗤う。
「アーシュマは来ない。汚されつつある天使など、なんの価値もない、アーシュマは」
 指輪の石が血を飲んだ。錯覚。いや、確かに。天使の血はするりと消えた。
 黒狐が息を呑む。そして、無言。
「――来ている」
 周囲の気温が確かに下がる。池のほとりに伸びた草はたちまちに萎れ、枯れた。水は凍り魚は腹をむいて浮かび上がる。そのまま死魚の彫像となる。風は止まり、音は絶え。ただアーシュマだけがそこにある。
「黒狐よ。二度目はない」
 アーシュマはなんの動作も見せなかった。言葉さえ使わなかった。ただ視線のみ。その怒りの激しさのみ。
 それで黒狐が吹き飛んだ。
 アーシュマの手の中、すでに火炎が育っていた。炎に目を向ければそれはありえない色に染まる。憎しみの色に。
 正にそれを投げつけようとした瞬間だった。
「いけない……」
 弱々しい声が地の上から、聞こえたのは。
「止めるな。サリエル」
 そちらを見ようともせずアーシュマはさらに炎を育てる。
「止める」
 かすかな声。消え行きそうな声。アーシュマはわずか、唇を吊り上げた。笑みの影。あるいは憎悪の表出。
 アーシュマが炎を投げた。なすすべなく見守るサリエルの目が、見開かれた。
 それは吹き飛ばされた黒狐の遥か上空で爆発し、高い木々の枝という枝を嘗め尽くし燃やし尽くした。
 ぱらぱらと枝の残骸が黒狐の体に降り注ぐ。
 黒狐は伸び上がり見る間に漆黒の狐に姿を変え、走り去る。消え去る間際に一声高く、鳴いた。
「……何故止めた」
「自業自得です」
 はじめてサリエルに目をやったアーシュマに彼はわずかばかり笑いかける。笑みを形作る気力もないほど、ずたずただった。起き上がる気力などどこにも残っていない。
「何故、呼ばなかった」
 呼べばわかると。呼ばなくともわかると。サリエルが望みさえすればすぐにでも飛んでくると。
 それを知っていたはずではないのか。それなのに何故、と。責める言葉が苦く、裏側に甘さが忍ぶ。
「さぁ……」
 サリエルはあいまいに、笑った。忍んだ甘さに気づいてしまった。だから、何も言えない。言いたくない。
 なにより濁した言葉の影。己ではわかっていた。ただただ、見られたくなかった。黒狐に、否、アーシュマではないものに圧し掛かられている自分の姿、ひたすらにそれを見られたくなかった。彼にだけは、決して。
 ただ、それだけだった。それがどういう意味を持つのか、サリエルにも、わかっていた。わかっているからこそ、目を閉ざした。

 アーシュマの衣に包まれそっと運ばれた。
 薄い衣越し、悪魔の体温が伝わる。天使は言い訳など呟かず、それに頬寄せ目を閉じる。
 衣とは言えない残骸を肌からはずされ、アーシュマもまた肌をさらす。
 浴室のぬるい湯に抱かれたまま浸けられた。悪魔の膝の上、後ろから柔らかく、抱かれている。金の髪を梳く指の感触。心地よい、それ。
 黒狐が触れた場所を正確にたどるアーシュマの、指。何を思って触れているのかわかる気がした。
「サリエル」
 預けていた頬を上げれば指先が顎を捉え。息がかかるほどの距離。
 すぐに距離などなくなった。柔らかい唇。アーシュマの舌が割る。甘く吸われ強く腰を抱かれ。
 立ち込める湯気にしっとりと金糸は重くなり光は鈍る。
「……ふ」
 くちづけ後の溜息さえ逃すまいと再びアーシュマの唇がサリエルのそれを塞いだ。
「アーシュマ。アーシュマ」
 サリエルの声。
 触れてはならないところに彼の指が触れる前に止めなければ。
 触れられてしまったなら、もう二度と。
 腰の辺りに彷徨う彼の手を留め、握る。残る片手で彼の首を抱き、その首筋に顔を埋めた。
「サリエル?」
 望まぬならば、とその手から抜け出した手で静かに天使の背を抱く。
 安堵したようサリエルはひとつ、溜息をつき自由になった手もまた彼の首に回した。
 どれほどそうしていただろうか。
 サリエルは顔を上げ目の前の悪魔の顔をしっかりと、見た。揺らぐ、覚悟。何に対する覚悟か。それから視線を彷徨わせ天井を見上げ。
「私は……帰りたい」
 アーシュマを見ずに、言った。
 上を見た顔をさらにのけぞらせ、堪えた。
 堪えきれない涙が、頬を伝う。それをアーシュマは抱き寄せ、唇で涙を吸った。
「私は……私は……」
 言い募るサリエルの唇に指先で軽く触れ。わかったから、と。無言のうちに、伝わっていくもの。
 サリエルは恐怖していた。
 今となって蘇る黒狐の恋するゆえの妄執。真実、愛しく思うゆえの、狂気。
 それが怖かった。
 堕天となった後、自分もああなるのか、と。ただそればかりが怖かった。いまだ恋なるものを知らぬ天使であるがゆえに。
「還してやろう、だから」
 泣くな、と。今度は唇ではなく、指で涙を拭われた。
「出来るわけが……」
「甘く見てもらっては、困るな」
 それがお前の望みなら、この一命にかけて。言葉にしない想いなど、天使に伝わるわけがない、それを知りつつアーシュマは口には、しなかった。




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