サリエルは泉のほとりにいた。アーシュマの庭内であった。単に広い、と言ってしまえるような庭ではない。確かに広大ではあったが、どこからどこまで、とわかるものでもない。
 時に応じてその広ささえ変化する、そんな庭だった。魔界の土地、というものかもしれない。サリエルは思う。
 その広い庭の一角に泉がある。サリエルはそこにいるのを好んだ。ただ景色を眺めているより、水面に映るものを見ているほうが面白くまた、美しい。サリエルの目にはそう見える。
 遠く澄んだ水が風にざわめく様。また、空高く飛ぶ鳥の姿が水面に映る姿。水中を走るように見えるそれを眺めているのも楽しい。時には泉に泳ぐ魚が空飛ぶかの錯覚を覚えるのも、また。
 サリエルには不安があった。
 このところ、一人でいる間にはそのことばかり、考えていると言っても、いい。
 そして己の思考に身を震わせる。終日それを繰り返してばかり、いた。
 アーシュマが嫌いではない。強く望まれたならば拒めない、むしろ流されてもいい。そんな事を一瞬でも考えた自分が怖い。
「天に……帰りたい」
 呟く。何度そうして言い聞かせただろうか。
 サリエルにはわかっている。帰る場所など、ない。
 そもそも異端、と思われていた自分のこと、帰還したとて刺し貫くような視線もて迎えられるだけだろう。
 いや。魔界に長く居過ぎた、と粛清される危険すらある。天使として恥ずべき事などなにもない、そう身の潔白を訴えられる自信があるのか。
 そう問われたならば言葉に詰まる自分というものも自覚してはいる。だから、迷う。
「と言って流されるわけにもいくまいし」
 自嘲の言葉に水面が揺れる。つい、と水の中を魚が走った。
 あまねく生き物が、己の力でもって拠って立ち、自己の欲求にそって行動しつつもそれなりの秩序を保っている世界。魔界。
 美しい、そう思う。思ってはならないことを、思う。弱き者の生きてはいけないこの世界。天界の住人が認めてはならない世界。
 力なき者に手を差し伸べる為にこそ存在する我ら天使。
「手を差し出すのもまた己の勝手、か」
 力があればそうすればいい。なければ自分が潰されるだけ。いっそそれも気持ちのいいものかもしれない。
「力なき者……」
 自分は。サリエルは自問する。天界において力なき者ではなかったのか。
 目の色が違う、たったそれだけで排斥される世界。友などなく、勤め果たして当り前、果たせなければ無能と呼ばれた故郷。
 一人立ち尽くすサリエルに手を差し伸べてくれる者など、誰一人としていなかった。サリエル自身に似た者が存在しない以上、当然のことでもあった。サリエルは一人を好む天使の中にあって、真実孤独だった。
 そういうものだ、と思っていた。自分が異端に生まれついたのだから、仕方ないと思っていた。魔界に来るまで、彼に出会うまで、孤独であったこと言うことすら、知らなかった。それを、アーシュマは。
「アーシュマ?」
 不意に水面が暗く翳り、それが人影だと知れる。
 漆黒の影。衣の色。
 いま会えば心が崩れる。崩れてもいい、と思う自分がやはりまだ怖いのだ。いま天界と魔界の双方を知ってなお、希望が捨て切れない。天に帰りたい。
「残念だったな」
 体を強張らせたままのサリエルに降りかかってきた、声。アーシュマのものではない声。
「お前は……!」
 黒狐が、立っていた。口元に皮肉な笑みを浮かべて立っていた。
 聞かれたくなかった。アーシュマを呼ぶ声を聞かれた。羞恥より先に怒りが湧きあがる。
 そこに立っていたから呼んだのだ、黒狐とは知らず勘違い、そう言えば言える。
 が、サリエルは知っている。黒狐もおそらく、知った。その呼ぶ声の色を。
 泉のほとりに座ったまま、サリエルは振り返りじっと睨み上げた。黒狐は睨み返すでもなく視線を受け流す。
 それはかつての仕打ちを忘れてはいない、と人には見えただろうか。そうではないことを、二人ともが理解していた。
「愛しのアーシュマでなくて、残念な事だ」
 口火を切ったのは、黒狐。
「誰が」
 淡々と言い返すサリエルの声音。
「たいして似ていないこの姿をアーシュマと間違えたのはお前だった」
 笑いながら身を屈めてサリエルの金の髪に触れる。触れたかと思う瞬間、手をはたき落とす。この身に触れられたくはない。触れてよいのは――。思ったところで思考を止めた。
「さして似てはいないそうだが、この髪の色とやらに執着しているのはあなただ、黒狐」
 空気が凍った。確かにその場の空気は凍ったのだ。天使ならばしないこと。他者の傷をあえて抉った。
「アーシュマか……ッ」
「誰もが、噂している」
 天使らしからぬ、嘲笑。あるいはそれは自分自身への、それ。
「よくも、言ってくれたねぇ」
 黒狐が浮かべたのは物凄まじい、微笑だった。
 一瞬、死を覚悟した。言ってはならないことを言った。異端と呼ばれ続け言葉の傷の深さを身をもって知る自分がつけた傷。いっそ、滅びて終わりにしたいのかもしれない、ふと思う。
「ただで、すむと思うな」
 黒狐の声は、まるでサリエルではない、誰かに告げたような言葉。ただそれに嘲弄の表情だけを、返した。
 ふっと体が浮く。あっと言う間に突き転がされたのだ、とわかったのは水に髪が浸ったその冷たさで正気づいてからの事。
「何を……ッ」
 言う言葉は途絶え。顎をつかまれた。壊れるほどの強さで締め上げられる。身じろげば、狂喜する黒狐の顔。
「……ぐ」
 くぐもった声が洩れ。
「痛いか、辛いか」
 圧し掛かった黒狐の声。
「もっと痛い。もっと、辛い」
 唇がふさがれた。黒狐の唇。ぬたり、這う。
「く……っ」
 体の上にある重みが不快だった。懸命に逃れようと這い上がり。這い上がったそこは水辺。
 逃れようとすれば水中に没する。
「死ぬぞ」
 黒狐の嗤い声。
「アーシュマの庭だとて、安心するのは無理というもの」
 水の中で魚がざわめいている。天使の匂いを嗅ぎつけて、小さな牙を噛み鳴らしている。ぷちり、金糸が噛み切られた小さな音。
 黒狐は知っていた、サリエルの剣を。だから余裕など与えない。剣を現す暇など与えない。普段はおとなしい小魚をあおる。
「ほうら」
 黒狐がまた、嗤う。嗤ってそのまま再度唇を重ねてきた。せめてもの抵抗とばかり、固く固く唇を噛みしめる。
「……っ」
 引き剥がそうと左右に首を振るけれど、がっちりと押さえ込まれた体は首さえ自由にならない。
 と、鼻をつままれた。口と鼻と、両方をふさがれる。苦しい。呼吸の限界まで、粘る。
 その、つもりだった。ざくり、手に痛みさえ走らなければ。
「うっ」
 一瞬、視線を移したそこは小魚の強暴な牙に喰いちぎられていた。たらたらと真紅が滴る。小魚が飛び跳ねた。
 いつの間にか水中に没していた掌を噛まれた。水に血の色が滲み出す。魚が集まり始めたのに慌てて手を引き抜けばその隙に唇は割られ。
 柔らかい舌が絡みつく。吸い上げ、甘噛みされるその嫌悪。正しく嫌悪以外の何ものでもない。おぞましさに肌が粟立つ。
「放せッ」
 唇が離れたと共にサリエルが言うのと、その衣が引き裂かれるのが同時だった。
「誰が、許すものか」
 両の手をまとめてねじり上げ、水面すれすれに置かれた。
 水に血が滴った。黒狐の目が指呼の間にある。悲しい目だった。知らずサリエルは息を飲む。このような仕打ち、決して許さぬはこちらのほうこそ、そう思っていたはずが、呑まれた。
「許すものか」
 言ってはならないことを言った。深い後悔。狂気に襲われた行動とその目。恋。これが恋というものか。ただ一人、と思う者の面影ある者にされた嘲弄。どれほど。
「侮辱なら、お互い様だ」
 サリエルもまた言い放つ。知るべきではないことを黒狐は察した。許さぬ、という思いは同じく。呑まれかけた心を必死の思いで立て直す。
「異端の天使め」
 心無い言葉にかっとしてサリエルは束縛を解こうと身をよじる。その手を水につけられた。水面下のざわめき。
「く……っ」
 片手でサリエルを押さえ込み、黒狐は残る片手でサリエルの肌に触れていく。這いまわられる感触。嘔吐が襲う。
「放せ」
「許さない、と言った」
 言葉と共にその手が腰に伸び。耐え切れずサリエルは吐いた。口の周りを汚したサリエルを、黒狐は狂った目で見据える。
「アーシュマを思うてこれくらいの事、していただろうに」
 嘲笑をサリエルは睨み返し。吐き戻した反射にあふれた涙がこめかみに伝う。
「誰が」
 そんな事をするものか。我が身は天使。今は、まだ。
「どちらでもいいこと」
 言って黒狐の舌が涙を舐め取る。そのぬたりとした感触にまた、身を震わせ。
「さあ、楽しませてもらおうか。天使」
 破った衣を器用に片手で剥ぎ取っていく。サリエルはなす術もなく、睨みつける。
「穢れなき天使の肌、か」
 口元だけで笑った黒狐の指が肌に触れ、動く。指が綴る。アーシュマ、の文字。気づいてサリエルの頬がさらに強張り。
「――ッ」
 声にならない悲鳴が上がった。
 黒狐がサリエルの体を地に押し付けていた。傷のない肌。だがしかし、背中には傷がある。魔界にいるかぎり、天使である限り、決して癒えることない、傷が。
 痙攣するサリエルの体に黒狐は舌を這わせ。その嫌悪にさらに体が震えるのを見た。
「はな……せ……」
 サリエルの呼吸が荒い。傷の痛みに。流された天使の血に、魚がざわめいていた。その喉を潤すことなく地に吸い込まれていく甘い香りに身悶えしていた。




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