以来、アーシュマは頻繁にサリエルを連れ出すようになった。
 サリエルが手持ち無沙汰に庭を逍遥しているとき、あるいはパーンの他愛ない話に付き合っているとき。アーシュマは現れては手を差し伸べる。
「出かけよう」
 そう誘い出す。あまりにも時宜を得すぎて疑わしくてならない。が、ある日ついに気づいた。
 アーシュマが現れる前には何気なく指輪に触れている、と。
 だからサリエルは薄々呼びかけなどしなくても指輪越しに自分の考えている事が通じているのではないか、と疑ってはいる。
 もっともだからと言ってそれをはずす気はなく、なぜかさほど不快でもない。仄かな苦笑を伴うだけだった。
 誘いにきたアーシュマにその日もまた黙って従った。
「なぜわざわざ飛ぶ必要があるのですか」
 相変わらずアーシュマの腕の中であった。自分に飛ぶ事は出来ないのだから、と言われればそれも仕方ない事だ、と思いはするものの釈然としない。不意に気づいては問うた。
「あなたほどの魔力があるなら私を抱えても跳ぶことは可能でしょうに」
 瞬きの間に一箇所から別の地点へと転移することは、己のみならば悪魔も天使もたいていは誰もが可能だ。だが移動させる人数が増えれば増えるだけ、その難度は増大する。
 アーシュマならば「可能」などと言うものではないはずだった。確実にできるはずなのだ。
 その疑問に対し彼はどこを見るでもなく嘯いた。
「面倒だ」
 たった一言で済ます。しかし、わずかに向けてきた顔が笑っていた。それが言葉通りではないことを示すかのように。
 事実、翼で飛ぶより転移した方が労力はずっと少ない。少なくとも、アーシュマにとっては。
 この機会に天使の体に触れるのを心から楽しんでいる、そんな笑い顔だった。
 サリエルはそんな彼に向け、これ見よがしの溜息をついて見せはした。が、それが本心なのか、自分でもわからなくなり始めている事を自覚している。
「ついた」
 降り立ったのは熱暑の大地だった。随分前から気温が上がっていたから暑い所だろう、とは思っていたものの、これほどとは思わなかった。
 砂漠だった。
 なにひとつ住むもののないことは一見してわかる。青い、どこまでも青い空。一木一草たりとも生えぬ砂の大地の上、紺碧の空が広がる。
 吹き渡る風が砂を動かし砂紋がなにかを形づくる。それは時に天使の羽であり、また青々と葉を茂らせた大樹であり。
 まるで砂漠の描く見果てぬ夢。
 一瞬の後にはさらさらと崩れる砂漠の見る夢。
「空の青、砂の絵画、吹き行く風の音――たまには美しいものだ」
 もっとも住むには適さないがな。呟いてアーシュマが笑う。
 熱暑の大気に目眩さえ起こしそうになりながらサリエルは砂の絵から目が離せない。なんとそれは生き生きとしている事だろうか。魔界では砂の描くものさえ生気が宿る。
 と、暑さがやわらぎ陰がさす。
「え」
 突然の事に空を見上げたサリエルの目の前に漆黒の羽。
「暑いだろう」
 アーシュマが翼を差しかけ陰を作っていた。どことなくむっつりとしているのにサリエルは密かな感情を覚える。悪魔も照れるのかと思えば、楽しい。
「ありがとう」
 素直に笑顔を返すサリエルにアーシュマは赤い果実を手渡した。
「なんです、これは」
「プラムと言うそうだ。人界のものだからお前が食べても問題はあるまい」
 魔界においては口にできるものに制限のあるサリエルのため手ずから人界にまで取りに行った、とはアーシュマは口にしない。
 サリエルがはじめて所望したあの果汁も、人界の果実だった。最初は気まぐれだった。珍しい生き物を手に入れた単なる暇つぶし。天使を理由に人界まで赴くのもまた、気晴らしの一つ。
 いまはサリエルのため、アーシュマ自身がわざわざ人界まで出向く。彼ほどの強大な悪魔がそうすることを、陰で魔界の住人は嗤っている。気にもならなかった。
 悪魔が人界に降り立ったなど言えば、この天使は卒倒しかねない。否、驚くのではなく怒るだろう。規律を破ったといって。あるいは悪魔の身を案じて。望むらくはそうであって欲しい、と思うものの、ただの願望でしかないとアーシュマは苦い。
 微笑んでそれを口にしたサリエルを見るだけでよかった。
「好みの味です。ありがとう」
 瑞々しい果汁が唇の端に飛んでいたのをふ、と指を伸ばしアーシュマが拭う。はたこうとした手は一瞬遅かった。
「それは結構」
 指先についた果汁を自らの唇で音を立て吸い取って、悪魔は笑う。改めてサリエルに叩かれたのは言うまでもない。
 風はその間も休むことなく砂が見たこともない絵を描き続けている。
 どれほど経ったろうか。見れども飽かぬ砂の絵をサリエルはいつまでも見ていた。
「そろそろ陽が翳る」
 空を見上げ、アーシュマが言う声ではっと我に返る。
「もう、帰らなくてはならないのですか」
「なにを。これからだ」
「え……」
「これからもっと面白い事が起こる」
 そう言うアーシュマにはなにを問うても無駄な事をすでにサリエルは学んでいた。困った人だ、とでも言いたげな苦笑とともに視線を砂に戻した。
 太陽が砂の地平線の向こうに接し始める。風は勢いを落とし出来上がったばかりの絵画を少しずつ崩し始めるだけ。
 夕陽が赤々と燃えている。風は完全に凪ぎ、砂はもう動かない。
 風が再び動き出したのは太陽の上辺が地平線の向こうに姿を消し、最後の明かりが途絶えた後だった。
「あ……」
 陽が没すると同時に寒気が襲う。堪えられないほどではない。おそらく心地好い程度の涼風だろう。けれど砂漠の熱暑に慣らされた体はにわかに適応しがたい。
 それまで頭上にあって陰を作ってくれていた漆黒の羽が柔らかくサリエルを抱き寄せる。
「体調を崩されると厄介でな」
 ただその言葉に救われた。強い腕に抱かれアーシュマのぬくもりに身を寄せる理由を差し出してくれたのだから。
 なにも言わずサリエルは彼の胸に頬寄せる。
 砂はもう絵を描いてはいなかった。
 空に満天の星。
「足元だ」
 空ばかりを見上げていたサリエルにアーシュマが言う。
「あ――」
 砂が変化していた。
 ひたひたと足首を濡らし始めたは水。見渡す限りの砂漠が満々と水をたたえた湖にと変化を遂げる。果てるともなく続く広大な湖だった。
「綺麗……」
 サリエルの気づかぬうち、アーシュマは彼を抱いたまま宙に浮かび漂っていた。爪先がわずかに水面に触れ波紋を作る。すでに砂漠は影もなくどこまでも広がる湖がそこにあった。
「あ……!」
 驚くサリエルの視線の先には星ぼしが。空にではなく、水面に。
「湖面が静かなせいか、あるいはなにか別のもののせいか、空が魔界一よく映る」
 天にも地にも満ちた星屑の中、浮かんでいる。ここがどこなのか、上下の感覚さえ失調しそうな幻想。
「……天界とどちらが美しい?」
 かすかに笑いを含んだアーシュマの声。
「天界が」
 考える間もなく即答した。
「それは残念」
 再び笑う彼の声。
 出かけるたびに繰り返されてきた問いだった。
 アーシュマが「魔界のほうが美しい」と言わせたがっているのをサリエルは承知している。
 だがそれに応えるわけにはいかない。天界こそ唯一にして至上。魔界には魔界の美がある、と認める事さえ異端なのだ。
 ごく当たり前の天使なら魔界の生々しい生気あふれる景色に吐き気を催しこそすれ、美しいなど思いもよらないはずだった。
 魔界のほうを美しい、そう認める事は天を捨てる事。すなわち堕天となる事に他ならない。
「天界の方が美しいですよ」
 まるでそれは自ら口にしでもしなければ崩れてしまう信念のようで、サリエルはそっと目を閉ざし言う。あたかも唱えるように。祈りのように。
「でもこれも中々の物だろう?」
「ええ……」
 魔界の美を認め、悪魔の腕の中、やすらう。
 半ば堕ちているのかも知れない。胸のうち苦笑が洩れるがさりとて嫌な気はしない。だがまだ堕天となるにはためらいも未練もある。
 まだ天の住人だ、天使だ、との思いのほうがずっと強かった。強くあれかし、と願っていた。
「サリエル」
 呼ぶ声に視線を上げれば悪魔の指に顎先を捉えられ、じっと睨むでもなく見つめるでもないサリエルの目の前、アーシュマが笑っている。
 微笑んでいる、と言う方が正しいようなかそけき笑み。
「やめたほうが身のためでしょう」
 そのままじっと視線を絡ませあった後、サリエルは言う。声に含まれたためらいにも似たなにかのせいだろうか、アーシュマの指がかすかに唇に、触れた。
「……もっともだ」
 それだけを言い、指も視線も悪魔は外す。
「あなたなら……」
 言いかけ止めたサリエルに、視線でアーシュマは続きを促した。
「あなたの魔力をもってしたら、私一人どうとでもできることでしょう。なぜ……」
 今度視線をはずしたのは天使。なぜ、というなら自分に問いたい。なぜ、そのような事を問うたか、と。
「さて」
 考える振りしつつ心の内にアーシュマは呟く。魔力を持って愛さしめたとてなんになろうか、と。
「悪魔は欲しいものはためらわない、と聞きますが」
 そう言いながらアーシュマの方に頭を預けたのをサリエルは自覚しているのだろうか。
「過程を楽しむ、と言う習癖があってね」
 欲しいのは体ではない。サリエルが、欲しい。それを特定の誰かを愛する事などない「天使」に説いても無駄な事。
「……変わってますね」
 半ば呆れ顔で言うサリエルにアーシュマが笑う。
「変わり者、確かに。悪魔としては『異端』な方でな」
 異端同士、という訳だ。そう笑うアーシュマにつられたようにサリエルもまた、笑った。
 刺し貫く痛みばかりであった異端という言葉がなぜにこうも甘く響くのか、といぶかしみながら。
「無理やり堕天させたお前にこの世の果てまで付け狙われる、というのも趣味じゃないしな」
「ええ、付け狙って差し上げますとも」
 再び伸びてきた指先をサリエルは思い切りはたき落とした。




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