生々しい陽光が射してサリエルは目覚めた。おかしな表現だが、魔界の光はそう表現するのがしっくり来る。 人界の光とも幻魔界の光とも違う。まして天界の光においてをや。 寝台の上に差し込む光の、その生気に満ち溢れている事。天界の清冽な目覚めとは違う、魔界の目覚め。それはこの一日をどう楽しもうか、そんな気を起こさせる光でもあった。 サリエルの身じろぎともに隣のものが動く。 アーシュマだった。 すでに同じ寝台で休む事に抵抗する気は失せた。積極的な同意ではない。ただ毎晩、言い争うのが面倒になっただけ、それだけ。 サリエルが身を起こすと光がアーシュマの顔に射す。いま少し眠りの中に身を置きたい、とばかりに煩わしそうに顔を背ける。 美しかった。 サリエルでさえそれは充分に認めた。黒髪が陽に透けて煌めくのも、うるさげにひそめられた眉根も。悪魔に美を認めるなど、天使らしからぬと思いつつ。 「綺麗だな」 突然の言葉に驚く。無論、サリエルが発した言葉ではない。うっかり見惚れたのを気づかれまい、とサリエルは目をそらしどこでもない場所へと視線をさまよわせた。 「なんの事です」 「お前以外のなにがある」 笑いを含んだ声。それは疾うに自分をじっと見ていたことを知るものの声だった。 事実、サリエルは美しかった。アーシュマを見つめる彼の姿。軽く身を起こし覗き込むでもなくアーシュマを見るその背から朝の光が射す。 「寝ぼけてらっしゃる?」 「とんでもない。この上なく快適な目覚めだが」 「ほう? 殴って覚醒を促したほうがよろしいようですね」 彼がまとう光は金色をしていた。まるでサリエルの髪がそれ自体、光を放っているかのように。 「自重しようか」 「口先ばかりで――」 憤懣やるかたないとばかり首を振る仕種とともに髪が揺れ、光が反射し。目覚めの瞬間、アーシュマが見たのはそんなサリエルだった。 「サリエル様の髪きらきら、綺麗綺麗」 歌う声踊る足。朝の仕度をしに来たパーンがサリエルの髪の一筋を手にとって笑う。 「アーシュマ様もお目覚め? サリエル様の髪とっても綺麗、とっても綺麗?」 同意を求める歌声に、思わず顔を歪めてしまったのにはアーシュマ自身だけが、気づいた。 「出掛けないか」 「どこへです」 「なに、面白いものを見せてやろうか、と」 そんな会話を交わしたのは朝食後の事だった。 普段はなにくれとなくからかってくるアーシュマが、なぜか今朝はあまり口もきかずにいた。 理由はサリエルにはわからない。が、気にはかかる。いっそ心配だ、と言ってもいい。理由は、ない。 むしろサリエルには、自身がそんな感情を抱いたことの方が不思議で理由などどうでもよかったのかもしれない。 だから誘われた時、断る気などなかった。沈んだアーシュマなど見ていて落ち着かないのだ、と知らず我と我が心に言い訳をしはしたのだが。 「……出掛けるのに異存はありませんがこういった形で、とはね」 移動中、何度となく口にした皮肉がまたもサリエルの唇からこぼれる。 「足で移動するには時間がかかりすぎてな」 そのたびに返してきた答えを今度も返してくる。 サリエルは悪魔の腕の中にいた。それ以前に空中にいた。足で移動するには時間がかかる。正にその言葉の通り、二人は大気の中を移動していた。 普段は隠されているアーシュマの翼。黒い翼が風を切る。頬にあたる風が冷たい。飛ぶ手段のないサリエルはアーシュマの腕に抱かれ共に飛んでいた。 寒いからだ。サリエルは心の中で呟いて、それ以外の何物でもない、ただ寒いのだ、と己を抱いている者の胸に頬を寄せる。 そのかすかな仕種に、サリエルには見えないところでアーシュマが微笑む。満足そうに。 「着いた」 「あ……」 降ろされて目を上げたサリエルの視界一面に映るそれ。 純白。いや、違う。まっさらなこれ以上ない純白、青みを帯びた白、わずかな温みの黄色味の白――。それはあらゆる白の饗宴だった。 「魔界の氷原。中々美しい」 アーシュマが辺りを見回し言う。満足を装った口にした言葉。が、アーシュマ自身はすでにもっと美しい白を知っていた。 「氷原……」 確かにそこは氷原だった。様々な色をわずかに宿した氷が視界の限り広がっている。 燦々と射す陽の光にも溶けることなく輝く様はなるほど一見の価値はある。 「黒狐のしたことを許せ、とは言えないが……」 「気にしていないと言えば嘘になりますが、あれが妖狐という生き物の性ならば仕方ないでしょう」 唐突に言ったアーシュマにサリエルは肩をすくめ、口許で笑った。その笑みに皮肉と苦痛を見て取ったのだろう。アーシュマは黙って口を閉ざす。 無言で氷原を眺めていたサリエルの耳に、不意に悪魔の声。もしも悪魔にためらいと言う感情があるのならば、そんな声をしていた。 「いや……あれは妖狐にしては優しすぎる」 「そういうものですか」 理解の及ばぬ存在にサリエルは不思議そうな顔をする。優しすぎる、の意味がわからなかった。 「黒狐には深く想う者がいる。銀の髪をした――」 「私の髪色が似ていたとでも?」 尋ねた、言葉の上では。だがサリエルはそれが事実だと悟っている。そうとわかってもなお、己の髪に視線を移す。とても銀色には見えなかった。 「俺から見ればまったく似てはいないがな」 サリエル自身が気づかなかった言葉の険に苦笑を漏らす。 「黒狐は妖狐にしては気が優しい。対して相手は妖狐にしてもひねくれすぎだ」 「お会いになったことが?」 「一度見かけた」 遥かなその記憶。遠目に見ただけでさえ黒狐に哀れみを覚えた。月光より冴えた銀の妖狐。 「叶わぬ思いに身を焼くのは……つらいものだ」 理由などない。冷たい氷を手にとって握り締め。きりり、冷気が掌を焼く。まるで痛んではならない胸の痛みの代わりのように。 「手が」 サリエルの指が触れそっと掌を開かせる。氷は水滴と化し指先を通って滴り落ちた。 「叶わぬ思い……私には良くわからない」 天使だから。 特定の誰かを愛することのない天使だから。 たとえ今その事実が揺らいでいるような気がしてもそれだけは認めてはならない。サリエルは彼の掌から視線をはずす。 「銀の妖狐。弟だ、黒狐の」 突然もたらされた言葉にサリエルは正に度を失った。わずかの間とは言え、アーシュマの言葉が理解できない。 「実の弟。妖狐の一族は多産ではないからな。兄弟がいること自体が珍しい」 天使の驚愕を誤解したものか、アーシュマはそう言って、また言葉を続ける。 いても大抵は仲が悪い。それは独り立ちするまでの間、孤独を好む妖狐が同じ場所を共有せざるを得ない、そのせいかもしれない、と。 「でも惚れちまったものは仕方ないな」 アーシュマの言葉は黒狐に向けたものか、それとも。 「私には……」 サリエルはそのまま答えなかった。そのサリエルの髪を一筋指に絡め悪魔はそれにくちづけた。 「似てなどいないな」 「離して」 言いつつ天使は動かなかった。 「逃げればいい」 片手で抱き寄せた体が冷たかった。 「アーシュマ……」 嫌がるではなく逃げるでもない。ただ、困惑。 自分でもどうするべきかわかっていながら、どうしていいかがわからない。否、サリエルはどうしたいかがわからなかった。 「見ろ」 そんなサリエルをアーシュマは背後から腕の中、包み込む。これ以上なにをする気もない、ただそう、寒いだろう、と。 ほっとサリエルが安堵するのが伝わってくる。小さな吐息と共に緊張を解いては体をもたらせてくる。それが、心地好かった。心地よさなど求めていないにもかかわらず。 「なんです」 見ろと言った先にはただ今まで通り氷原があるだけ。 魔界の午後の太陽が降り注ぐとも溶けることのない氷がとりどりの白を振りまいているだけ。それでも十分に目を楽しませはするのだが。 「ほら」 言ったアーシュマの指がさすその場所が。思わず声をあげた。氷が溶けていく。 はじめはただ一点だった。それが瞬きの間に見る見る広がる。水面に落とした油の一滴のように広がりつつ溶けていく。 そしてあふれ出たは緑。 露を滴らせ生き生きとした草が顔を覗かせ。陽の光、目指してたわんだ背を伸ばす。ひと息に何か月分もの成長を遂げるように。 「あぁ」 それは感嘆の溜息だったのか。サリエルは思わず背中の悪魔を振り返り笑みを見せる。 草は色を持っていた。 緑だけではない。様々な色をした一面の花のただ中に二人は立っていた。 注意して見れば花の色は氷が宿した色と同じだったことに気づくだろう。白だけではない、白。色彩ではない、白。白でありながら、数多の色。すべての世界の色を合わせたかの饗宴だった。 氷原は一瞬にして花咲き乱れる草原に姿を変えた。なんという豊かさ。ここが魔界であることをサリエルは一瞬忘れ、そして魔界でしかないと知る。このような美は、天にはない。 「これを見せたかった」 耳元でアーシュマの声がする。その彼の唇が髪を掠めるその前にサリエルは密やかな笑みを唇に刻んで振り返る。 「そこまでにしておくのですね」 言って頬を張る仕種をして見せ今度こそはっきりと笑った。見せただけだった。それはアーシュマにも、そしてサリエル自身にもわかっている。 「了解した」 難しげな顔を作って言うアーシュマの腕の中、サリエルが晴れやかに笑っていた。 |