それに気づいて抵抗を止めた。 珠は甘く、よい香りがした。水気を含んだ淫靡な音と共に珠はアーシュマの口に、またサリエルの口にと行きつ戻りつする。 「や……」 一瞬、唇が離れた隙に顔を背けようとしたけれどまたすぐに唇を捉えられてしまう。 しっかりと抱かれた体は逃れようもなかった。言いなりなのが悔しくて少しばかりの嫌がらせになるか、とアーシュマの背に爪を立てる。 「……んっ」 けれど仕返しに舌を甘噛みされては知らず声が漏れる。が、漏らしたとも気づかなかった。 次第に抗おう、という気も激した感情さえも静まっていく。甘い珠に酔ったのか、それともくちづけの酔いか。 くちづけの、それが思考に上った瞬間、正気づいた。 「なにをするんですかっ」 無理やり引きはがしアーシュマを睨みつける。 「素直に食わないお前が悪い」 言ってアーシュマはサリエルの濡れた唇を舌でちろり、舐めては軽く吸った。その途端、アーシュマの頬が熱くなる。 「やめてくれ、と言っているんですが」 思い切りアーシュマの頬を張った手をかざしたまま、サリエルはまだ睨んでいた。 「……自重しよう」 「結構です」 思い切り傲慢に顔を背けて見せはしたものの、つい目元が笑ってしまった。 一瞬で巨大な触手の塊を殲滅するほどの魔力を持つ悪魔が自分の不遜な態度に口先だけとは言え自重する、などと言って見せる。 それか少しおかしい。だから思わず笑ってしまった。横目でサリエルのそんな姿を見たアーシュマは軽い動作で彼の体を抱き上げる。案の定、また睨まれたけれど気にも留めない。 「言ってる側からなにをするんですか」 「休みたい、と言ったのは誰だ」 「抱き上げられる覚えは……」 「怪我人は黙っていろ」 重さなどないように軽々と寝台にまで運ばれ、大切なものでも扱うように横たえられる。その違和感に文句のひとつも出ようか、というとき小さな声が聞こえた。 「背中」 呟きの大きさで言っては、そっと傷に触れられた。 触手につけられたものではない。本来ならば光の塊かと思うほどに白い翼があるべき場所。無残な赤黒い傷が二本、背中に走っている。 もうそれほど痛みはしない、しかし魔界にいる限り完治はしない傷に指がそっと触れる。 「痛むか」 「もうそれほど」 「……か」 「え?」 「舐めてやろうか」 一瞬の動作でサリエルは跳ね上がり、手近にあった枕を投げつけ、それだけでは飽き足らないとばかりにアーシュマの頬を再び張った。 「殴られたいのですか」 「殴ってから言うなよ……」 「ひっぱたいただけです。拳で殴られたいのか、と訊いています」 相手がどうあれ、こちらも魂の監視者。戦う術は知っている。ことさら冷たい表情を作って見せるサリエルだけれど、やはり目は笑っている。 馬鹿馬鹿しくなった、それだけかもしれないがそう考えられる事が少し、ありがたい。 「よくよく自重することにしよう」 「どうぞお忘れなきように」 言ったサリエルの言葉に重々しくアーシュマはうなずいてみせる。だがその言葉の途切れるより早くサリエルの肩に手をかけ、背中見せろと言いつつ滑らかに触れる。触り方が尋常ではなかった。 「舌の根も乾かぬうちになにをする気ですか」 アーシュマの手を払いサリエルは言う。紫の目が険悪に細められていた。 「薬を塗ってやろうと思ってるんだが。それとも自分の背中に薬が塗れるほど器用なのかね?」 ささやかな意趣返し、とばかりにやりと笑ったアーシュマにつられてサリエルも笑ってしまった。確かに自分の背に手は届かない。 「お願いします」 ただしそれ以外の意図を感じたら――そう釘をさすのは忘れない。 「よろしい」 わざとらしい重々しげな声についにサリエルは吹きだしていた。 サリエルはたっぷりとした湯に身を浸していた。 黒曜石を掘り、磨き上げた浴槽からはおびただしいほどの湯が惜しげもなく流れている。 透明な湯にサリエルの淡淡とした金の髪がふうわりと広がっては美しい。 「不思議な……」 こんなものをくれるとは。 サリエルは片手を湯からあげしげしげとその手を見た。細い指に重たげなほど豪華な指輪がひとつ、はまっている。 アーシュマの指輪だった。 仄かに血の色を帯びた金の台に、滴り落ちた血の一滴を固めたような赤い石がはまっている。 それもそのはず、石はアーシュマの血だった。 「もしお前にまたなにかあったときに俺がわからない、と言うのは困る」 そう言ってアーシュマがこの指輪を作ったのだ。 サリエルがじっと見ていると、間もなく彼の掌の中に陽炎が立ってくる。 いや、陽炎ではない。それは彼の魔力が凝った物だった。みるみるうちにそれは金の指輪に変化する。 「まぁお守りみたいなもの、と思えばいい」 あまりにも鮮やかな魔力に感嘆するサリエルをさらに驚かせたことに、アーシュマは無造作に左中指の爪で右の手首を裂く。 滴り落ちた血を一滴、掌に受けるなり左手で傷を撫でれば、そこには傷跡さえすでになかった。 「血をどうするのです」 不思議に尋ねたサリエルにアーシュマが笑う。 「こうするんだ」 掌に受けた血を指先で摘みあげた。 それにサリエルは大層、驚いたのだった。液体が摘めるとは、と。 いや、それはすでに液体ではなくなっていた。固く、おそらくこの世のすべてよりも固い石に変じていたのだ。 慎重に彼はそれを金の台にはめ込む。と、それは始めからそう自然が作り上げたかのように完璧な指輪となっていたのだった。 「はめていて欲しい」 彼ははめろ、とは言わなかった。 はめていて欲しい、自分がサリエルに何かがあったらすぐにその場に行く事ができるように、はめていて欲しい、と望むだけ。 だからだ、と言っていいだろう、サリエルは彼の望みどおりにその指輪を身につけていた。 この身に悪魔の血を帯びている、そう考える事に背徳的な思いを感じないでもない。 むしろ天使らしい天使ならばこのようなものは例えそれを懇願されたとしても身につけることはないだろう。 けれどサリエルは帯びた。 それがアーシュマの望みだったから。 ささやかな、もしも自分に危害が加えられたら助けたい、というささやかなアーシュマの願いを無下に断る事にこそ、サリエルは罪悪感を覚える。 「指輪に向かって呼べばいい。どこにいようとも聞こえる」 サリエルの指を飾った己の血に安堵したような笑みを浮かべてアーシュマは言った。 湯の中でサリエルは金の髪を泳がせる。指輪をはめた手で無意識に肩を撫ると、ふっと、肌が騒いだ気がした。 指輪が脈打つようにも感じた。いや、そんな気がしただけかもしれない。苦笑を浮かべ知らず呟く。 「アーシュマ、悪戯は良くない」 呟いた自分の声にサリエルは驚き、それを拭うように湯から立ち上がる。 均整の取れた美しい肢体だった。ほっそりとした手足ではあるがこうして見ると痩せてはいない。鍛え抜かれた美がそこにある。 肌を晒してもどこまでも中性的な天使とはやはり違う。 悪に堕した人間の魂を追う、という役目のせいもあろうけれどサリエルはやはり天使らしくない引き締まった体を、男性らしい体を持っていた。 その細身の肩に濡れた髪が張り付く。 片手でそれを絞れば湯が金に染まるような錯覚さえ覚えるような髪の色。 白く艶やかな肌は湯に上気してはいたが、わずかに桜色に染まったのみ。 それでも温まった体は数々の傷跡を肌に浮かび上がらせる。 触手の傷はほぼ治っていたものの、なによりむごたらしいのは背の傷。 白い肌に二本走った赤黒い傷跡。羽をむしりとられた傷跡。 手を後ろにまわしサリエルはそっとそれに触れる。痛みはしなかった。ただ喪失感があるだけ。 「むごい事をされたものだ……」 自分の指ではないものが傷跡に触れ、自分の声ではない声が耳朶を打つ。 「な――!」 振り向けばアーシュマが立っていた。湯船に裸身を晒す自分の後ろに。 「なにをなさっているのですか、無礼にも程がありましょう」 内心の動揺を隠しあえて冷ややかに言い放つ。けれどその手は体を覆う布を探していた。 「なにを言ってる」 呆気にとられたような顔をアーシュマはして見せた。 見せただけ、と言う事がサリエルにはもうわかっている。呆気にとられてなどいないし、この機会に充分目を楽しませていることも承知している。 むっとしたままのサリエルにアーシュマは体を拭う為の布を手渡し、残念そうに視線を走らせた。 「御身大事ならばいい加減になさるのですね」 片手をあげて頬を張る振りをしつつ、渡された布で手早く体を被った。 「呼んだから来たんだが?」 声が笑っていた。 「呼んだ?」 「指輪越しに呼ぶ声が聞こえた」 「そんな事は……」 ない、言おうとしてはっと心づく。確かに指輪に声をかけはした。呼んだつもりではなくとも声は聞こえるらしい。 「……曲解しましたね」 理解したサリエルは苦々しげに言っていた。 「曲解? これは異なことを言う。なにかあったのではないか、と取るものとりあえず大急ぎで駆けつけたのだがな」 言いつつ笑うアーシュマにサリエルは自分が正しい事を知る。 「なにもなくてさぞ安心なさったことでしょう、さあ出て行ってください」 断固たる口調で告げ、湯殿の扉を指差せば、どことなく落胆した悪魔の顔。 「そう追い返さなくとも……」 「なにか仰いましたか」 冷たい視線を浴びせられてもアーシュマは動じない。かえって満面に笑みすら浮かべて言い放つ。 「せっかくだ、一緒に入るか?」 からかいを含んだ声に幾たりかの本気を嗅ぎ取ったサリエルはきっぱりと手をあげた。アーシュマの頬に向けて。 「了解した。退散する」 「ご理解いただけるものと信じていました」 「次の機会もある事だしな」 ぼそりとした呟き声に、思わず殴りかかりそうになったサリエルを機敏によけつつアーシュマは背を向ける。 「……寝言は寝て言え、悪魔」 アーシュマの背に向けた、天使らしからぬ暴言に彼は笑い声を上げて去っていった。 |