魔力の爆発のただ中に人影があった。
 燃え上がる力の波に髪を嬲らせ衣ひるがえす姿。敢然と立ち尽くすかの悪魔の周囲、渦巻く魔力が閃いた。小さな破裂音。あふれかえった魔力がそこかしこで火花を散らす。
 自らが彼の名を呼んだにもかかわらず、恐れてよいはずだった、サリエルは。だがしかし、火花の音すら祝福の鐘の音に聞こえていた、いまは。
「よくも我が窮鳥に手出ししてくれた」
 薄く笑ったのかもしれない。が、彼の表情は魔力に遮られ目にすることはできない。見えなくてよかった、どこかでサリエルは思う。
 片手を差し上げればそこに火球が湧き上がるように現れ。サリエルは息を飲む。あたりの空気が一変する。気温が下がった。
 意思を持った触手の塊が身を震わせてそっとサリエルを解放するのを端目に見、だがアーシュマはそのまま火球を投げつけた。
 触手は一瞬にして爆発し、爆風は外から新たに加えられた魔力に遮られその防御壁のなか沸騰する。煮えたぎる魔力に、触手が身悶えしては縮んでいった。
「黒狐よ、少々悪戯が過ぎる」
 すでにアーシュマは触手の残骸を見てはいない。そこにはぶすぶすと燃え残りだけがわだかまっていた。
 どこか遠く、早ここにはいない黒狐の姿を見通すように呟いてはサリエルの手をとった。その声音の冷たさ。
「アーシュマ……」
 朦朧とする意識の中、自分がまた彼に助けられたのだ、と言うことだけが身に染みとおる。魂の監視者のくせに情けない、そう思うよりただ生きている、と。それを最後に天使の意識は途切れていた。
 サリエルの力を失った体をアーシュマが抱き上げた時、触手の残骸が消え果てる最後の閃光が目を焼いた。

 ひんやりとしたものが体を拭う感触が心地よい。汚れも穢れも洗い清められていく心地。
 意識を取り戻した時、サリエルが最初に感じたのはそのことだった。
「気づいたか」
 意外に近い位置で声が聞こえるのに驚いて身じろぎすれば、傷が痛む。思わず体を強張らせた。
「じっとしていろ」
 アーシュマの腕に抱かれていた。気づいてはいっそう逃れたくなる。身をよじったサリエルを、アーシュマは仕種一つでたしなめた。
 冷たい、と思ったのは彼の手だった。膝の上、サリエルを抱え片手で支えている。
 空いた片手がほんのりと光って見えるのは魔力を宿しているせいか。悪魔の、天使とは相容れない輩の魔力なのになぜかそれは美しく見え、サリエルを戸惑わせる。
 その冷たくした手でサリエルの傷口を静かに撫でる。撫でられている、ただそれだけなのに傷は痛みをなくし、次いですっと消えていった。
 悪魔が傷を癒す。それは天使には不可解なことに思えた。彼らは破壊こそを身上とするもの、そう聞かされていたはず、と。
 だがアーシュマが手ずから癒していることは間違いのないこと。目をそらせはしなかった。
「ありがとう……」
 肌という肌につけられた傷にアーシュマが手を当てる。申し訳程度の衣とも言えない布だけが体を隠すともいえない程度に覆っているだけなのに、妙に嫌悪はわかなかった。
 また助けられた。その思いだけがある。悔しいとは、すでに思えない。圧倒的な力の差だけではなかった。
「助けられてばかりだ」
 それでもまだ痛む体に無理して微笑う。腕の中から見上げれば、唇を引き結んだアーシュマの顔。自らの言いつけが守られなかったことを悔いている、そんな表情に見えた。
 悪魔が悔いることがあるとはとサリエルは新鮮な思いで彼を見る。天界で言われていることがすべて真実ではない、そういうことかもしれない。そう思ったところで、やはり自分は異端だと思う。だからかもしれない、口にしたのは。
「天界の助けは……来ないしな」
 あえて言ったくせに、ずきりと胸が痛む。この自分に助けの手が差し伸べられるとは、思っていなかった。
 天界に進入してしまった悪魔が助けられることはない。しかし逆は違う。確かに滅ぼされた、とわかるまで天界の住人は仲間を探す。決して自らの友を見捨てはしない。己自身を見捨てられはしないように。それが天の規範だ。
 もっとも侵入する愚は犯さず幻魔界において魔界の住人と会談を持つ、と言う事ではあるが。いずれにせよ規則に則って捜索はしてくれる。
 しかしサリエルは探されなかった。探してもらえる、とも思っていない。間違っても、それだけはないと知っていた。
「何故だ」
 アーシュマならずとも疑問に思うだろう。
 サリエルの身は魔界にあってもまだ堕ちてはいない。堕天使となったわけではないのだから。堕天したならば、かつての仲間は一転して討手となる。それも天の規範だ。
 だがサリエルはいまだ魔界にて保護されている天使であった。それを天の住人が知らぬはずはない。自らの魂の奥底に刻まれた感覚を持って、知る。
 知っているはず。はずではない。確かな事実。けれど、探されては、いない。
「――異端だから」
 血を吐く思いで言った言葉はしかし小さくかすれる。細い、頼りない声ばかりが空気を震わせた。
「異端?」
 どこがだ、と至近の目がサリエルを覗き込む。はっとして思わず身を引く。その途端、傷がよじれて痛んだのにアーシュマがまた手をあてた。申し訳ない、不意に思ってサリエルはおとなしくなる。
「私の目は青くない」
 どこかを見ていた。視界に入るのはアーシュマの胸元。悪魔の腕に抱かれているのだと、今は意識してもいなかった。
「たかが、それだけか」
「それだけ」
 たかが、と言われ知らず苦笑した。強張っていた体から、力を抜く。ほっとぬくもりを感じた。
 余人であったならサリエルは激発したかもしれない。激発する、それも天界の者ではない、と評される原因のひとつだった。
「美しいと思うが」
 アーシュマの指がサリエルの顎を捉える。仰のかせる指に妙に素直に従えばすぐそこにアーシュマの黒い目。サリエルの紫色の目を覗き、心底不思議そうに言う彼を見ていると、異端、と言われた事がわずか馬鹿らしくもなる。
「魔界の者の色だ、と」
「確かに紫の目をもつ者は多い」
「だから天使に相応しくない、異端だ、ずっとそう言われてきた」
「だから、か?」
「助けはこない」
 自分で発した言葉に傷ついてサリエルは目を閉ざす。
 生まれ持ったものならば、なにか意味があるのだろう。意味などなくとも自分は天界に生まれ天使として生きてきた。
 高だか、そう高だか目の色ごときで異端呼ばわれされる、それもまた何か意味ある事だ、と思いたい。
 意味のあるなしに関わらず、サリエルは一個の生き物として、生まれながらの特徴ゆえに異端視されてきた。
 助けなどこない――それは自分が一番よく知っていることだった。
「剣も――」
「なに?」
「剣も、失ってしまった」
 アーシュマが、封じはしなかった剣。あの剣を持ってしてもこの悪魔を討てるとは到底思いがたい。だからこそ彼は封じる手間すらかけていない。それがサリエルにもいまはわかる。
 わかってしまった分だけ、失った事実は重く彼に圧し掛かる。天使たる証をまた一つ、失った。はじめは翼。今度は剣。一つずつ確かなものが奪われていく。
「馬鹿な」
 その耳に忍び込む密やかな声。かすかに笑っていた。憤然として悪魔を見やれば流れ込んでくる魔力。身のうちが震えた。悪魔の魔力がこの身を浸していくその事実に。
「魔力に、善も悪もないと我々魔界の住人は考えるがな」
 今度ははっきりと笑われた。すでに我が身に馴染んだ魔力にサリエルは思考を凝らす。アーシュマの言葉は嘘ではなかった。
「……そのようです」
 渋々言うサリエルの髪をアーシュマの指が梳いていく。不快な事実に目を向けていた天使は気づかなかった。
「サリエル。剣は失ったか?」
 からかうような悪魔の声音。愕然とした。我が身のうちに、確かに剣はあった。わざわざ出現させるまでもない。
「お前は何も失ってなどいないさ」
「――休みたい、放してください」
 暖かい腕の中に抱かれているのが急に堪え難くなってサリエルは身をよじる。
「まだ手当てが済んでいない」
「放して」
「だめだ」
「だってもう、傷は全部塞いでくださったじゃないですか」
 昂ぶる感情に声を荒らげまだ力の戻らない手でアーシュマの肩を叩く。
「痛いだろうが」
 顔をわざとらしく顰めている。サリエルの手は止まらない。
「嘘をついて!」
 叩いているうち、更に感情は激し、目尻に涙までが滲む。
「サリエル」
 染みとおるような声に我に返っては目の前に出された小さな塊に視線を向けた。
「食え」
 アーシュマの指の間、黄色く透明な珠があった。
 何事か、そう思ううちにそれは唇に押し付けられ、目を瞬く暇もなく押し込められそうになる。きつく唇を噛みしめて拒絶した。
「や……なに……」
 小さく首を振ってサリエルは拒む。一瞬、先ほどの触手の恐怖が蘇る。そのサリエルの長い金の髪に手を滑らせ、アーシュマは彼をなだめる。
「気持ちが楽になる。それだけだ」
 いくら治療を施したとは言え完全に治ったわけではない、それなのにこれほど興奮するのはよくない、そういうことだろう。
 理解できても嫌だった。慰められ、たしなめられている。天使たる己が悪魔に。そうサリエルは何度も心に言った。
 あくまで拒むサリエルに業を煮やしたアーシュマは、かすかに舌打ちして自分の口に珠を放り込み、サリエルの頬を片手で包む。そして。
「……っ」
 サリエルの唇に自分のそれを重ねた。
 舌先でいやがる唇をこじ開け、彼の舌を捉える。
 わずかばかりの抵抗の証しにサリエルは彼の舌を噛むけれど、しかし本気で喰いちぎるほどには噛めない。
 それをいいことに這入ってきた舌はゆっくりサリエルのそれを絡めとっては吸う。なんとしても逃れようとするサリエルを、楽しんでいるとしか思えなかった。
 つるり、舌から舌に珠がすべり。必死で押し返そうとすればするだけ、自らアーシュマのくちづけを深く求めるような格好になっていた。




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