つぷ。それは小さな音だった。耳に届くかどうか、それすら危ういほどの音であるにもかかわらず、それはサリエルの背筋を震わせた。
 水面から覗いた、可愛らしい魚のようなもの。正に、魚のようなもの、としか言いようがない。魚では決してない。
 いつの間に水際で立ち止まったのか知れない。そもそもサリエルには立ち止まっている、という意識もない。
「さかな?」
 おっとりとした口調で首をかしげた姿に危機感は窺えなかった。むしろその表情は柔らかな幼子のようでさえある。背中に忍び寄っていた悪寒も、いつしか消えた。
 ざわり。音が高くなる。
 次いで盛大な水飛沫とともに立ち上がり登り立ち、姿を現したのは表現の仕様のない、生き物。それが真実、生き物であるのかも怪しい。だがそれは、蠢いていた。
 まるで巨木、あるいは魚の集合、いや、水蛇の。うねり、騒ぎ、身をくねらせる多足の触手。
 臭いが強くなった。
「楽しみだねぇ、天使」
 声がどこかで聞こえ、あとはそれきり。
 何かを言っていたとしても聞こえようもなかった。サリエルの耳には届かない。
 ぼんやりと異形の生物を眺めていたサリエルに、突如としてそれは触手を伸ばしてきたのだった。
 悲鳴をあげる隙さえなかった。仮に驚き、という感情をまだ彼が持っていたとしてさえ。
「な……」
 反射的にあげた声はそれ以上の意味を持たず。
 意識する間とてない間に、サリエルは触手に捕らえられていた。肌身に触れるぬらりとした感触に、怖気が立つ。
「……ッ」
 粘つく触手のいやな感触に、上がりそうになる悲鳴をぐっとこらえる。唇をきつく噛んだ。声など上げない、とばかりに。
 捕らえられるまでの頭に霞がかかったような感覚はもう、ない。思い起こせば屈辱に身を焼き、いっそう早く正気づく。
「黒狐ッ、これは……」
 振り向き問うても姿はない。騙されたか。今更ながらに気づく。いつ黒狐が姿を消したのかも、わからなかった。
 これが悪に堕した魂を追う天界の監視者の姿か。激しい羞恥に身を震わせるサリエルは一瞬、触手を忘れた。
「ひ――」
 今度の悲鳴はこらえ切れなかった。素肌に冷たい物が触れる。それが触手だと知っては、ぞっとする。おぞましさに、青ざめる。
「な……」
 入り込んだ触手を拘束された手で払おうとして愕然とした。
 触手は入り込んでなどいない。
 どろり。白い衣が溶けていた。天使の象徴たる、純粋な白が溶かされていく。
 触手の先端から粘液が滲み、垂れ、衣に触れては溶かしている。
 抵抗を。思ったときにはどこからともなくその手に剣が。取り上げられたか、封じられたか、そう思っていたはずの剣がこの手にある。束の間、アーシュマへの激しい歓喜。
 それは微風に吹かれたよう消え去り、あとには戦意だけが残った。触手に向かって振るう。切る。突き立てる。
「う……っ」
 吐き気がした。あるいはそれは悲哀であったのかもしれない。やはり異端だと、この身は堕ちたのだと、絶望したのかもしれない。
 剣が揺らいでいた。あたかも炎にさらされた氷のごとく。触手の体液にさらされるたび、剣は細って痩せていく。魂を狩る、なによりも強固なはずの天使の剣が。
「そんな――」
 まだ堕ちてはいない。己はいまだ天使。心に叫んだサリエルの眼前で、剣は溶けて消えた。
 天使の絶望に感づいたのだろうか。触手が嬉々として、としか言いようのない動きをする。蠢きが激しくなり、それはサリエルの口許に這い登る。
「やめろッ」
 言語を解するか、などと考えている余裕はなかった。咄嗟に吐いた言葉に、不思議と吐き気が静まった。
 制止の言葉を叩きつけ、せめて動きを止めたかった。いまはここから逃れたい。滅びたくない。そればかりを思う。
 触手がそんなサリエルを嘲うように目の前で揺れる。
 ぬらぬらと光るそれの先端はかすかに割れて粘液が滲む。身をくねらせる毒々しい、まるで人間の内腑のような色をした物体。
 仮に彼が天使でなかったのならば、その器官を知っていたことだろう。彼自身、男性体であるにもかかわらず、自らのそれが硬くなる様など目にしたことはない。彼は、清浄こそを旨とする天使なのだから。
 それがサリエルの口元に。見たことなどなけれども、サリエルは血の気を失う。
「……くっ」
 両手を高く掲げられたサリエルには顔を反らせることしかできなかった。
 触手はそんな彼をいたぶるように二三度目の前で揺れ、そして。
 彼の頬にその身を擦り付けた。
「ひ……」
 ぬるり、とした感触。鼻をつく臭い。粘液に濡らされた頬が鈍く光を反射する。
 気持ちが悪かった。
 魔を討ったことなどいくらでもある。悪をなす幻魔界の者を討ったことだとて何度もある。この身は、易々と脅かされはしないもの。
 それなのにサリエルは怯えた。心底から震えていた。
 これほど嫌な思いをしたことはなかった。この生き物には意思がある。
 自分を、天界の生き物を汚さずにはおかない、という強固な意思を感じる
 それが気持ち悪かった。体を這いまわる触手の感覚よりその意思が、より。
「や……め……ッ」
 声を荒らげればそれだけ触手は意地悪く動く。
 まるで言葉がわかった上でサリエルをからかうように。わかって、いるのかもしれなかった。これは魔界の生き物。ならば天使をなぶることに喜びを見出してなんの不思議があろうか。
 いつのまにか衣は溶かされつくし、ぼろ布のように体にぶら下がるだけ。
 白い肌が屈辱に上気しているのが垂れ下がった布の間から窺える。見る者がもしもいたならば、触手を討ったことだろう。妖艶とすら言いうる天使を自らの手に抱こうとして。
「く――ッ」
 上がった悲鳴は痛みゆえ。
 背中を這う触手に傷つけられた、治りきっていない傷跡が口を開く。引きちぎられた翼の痕に炎でも押し当てられたかの激痛。
 肌に血が伝った。触手は先端の割れ目でその血をなぞる。そこから血を啜っているかのように。
 痛みに朦朧とするサリエルの体に巻きついた多足の触手は動きを留めることはない。
「……っ」
 抵抗する気力さえ失いそうになる彼の肌をその粘液で覆い尽くそうと言うかのように動き回る。穢していく。
 触手の一本がサリエルの片足を捕らえる。足首に巻きつき、這いあがり、腿のあたりを撫で回してから再び足首に戻った。
「ひっ」
 知らず声が上がった。必ずしも痛みや恐怖から来るわけでもないそれにサリエル自身、混乱をきたす。
 それにつけ込むように触手は動く。別の一本が逆の足に絡んだ。粘液を足指に擦り付けては、割れ目のある先端で足指をねぶる。
 それからゆっくりと足首に巻きついた。
「やめ……はな、せ」
 襲い掛かるわけのわからない感覚にぐったりとしたサリエルが呟く。
 言って聞くとは思っていなかった。触手が動き出した。両足を、両手を拘束した一本一本が別の方向へと動き出す。
 程なくサリエルの両手足は四方に引っ張られ、引き上げられ、空中に留められた。あたかも蜘蛛の巣にかかったように。
 と。突然、触手が牙を剥いた。
 文字通り、牙を。割れ目があるだけだったその先端に小さな牙が生えていた。
「――な」
 身のすくむような恐怖にサリエルは正気を取り戻し、振り払おうと体をよじる。それに触手は牙を突き立ててきた。
「くっ」
 小さな傷が無数につく。肌に浮かんだ血の玉を牙とともに現れた薄い舌が舐め取っていた。
「ひっ……」
 傷の痛みではない。何か別のものに声が上がった。牙の作った傷が、肌に触れる感覚を過敏にした、そんな感覚。だが決してそれだけではない。
「あ」
 足に絡む触手の片方が這い上がってきた。内腿をねぶり、そこにも牙を立て。
「やめ……」
 力なく言う自分の姿をどこかで黒狐が見ていることだろう、ぼんやりとサリエルは思う。
「……は」
 溜息が漏れた。見られているだろうその事へ、ではない。そのような意識など、なくなった。
 傷跡が熱い。小さな牙のつけた体中の傷跡がほんのりと熱い。そう思っているうちにみるみる傷が熱くなってくる。
「あっ」
 ちろり。細い、蛇のような舌が傷を舐め。
「や、め――」
 その声が触発したのか。多足の触手は一斉に躍りかかる。舌が襲いかかる。
「ひ……ぁっ」
 外気に晒された肌に触れ、粘液を擦りつけ舐め上げる。あるいは。溶けた衣の影に潜り込み、割れた先端で吸い付いては舌を蠢かせる。
「はな、せ……やめ……」
 首を振るサリエルの金の髪が汗で額に張り付いていた。ぞっとするほど美しい。煽られたようそれにも触手が伸びていく。
 額の髪に舌を伸ばし舐めては顔からはがしていく。
 まるで髪に隠れて顔が見えないのが不満だ、とでも言うように。
「やめ……」
 背けた眼前にぬっと触手が突き出されサリエルは目を見開く。なにが起きているのか、わからない。
「な」
 口元に来た。ちろり、触手の舌が唇をかすかに掠め。触れはしなかったそれがサリエルに恐怖をもたらした。
「や……」
 声が震えた。ぬるり、粘液が口許に塗りつけられる。目の前で動く触手。確かにある意思を持って動いていた。
「ひ……ッ」
 唇に触れようとする。口を割って入り込もうとしている。堪えがたい。それだけは堪えがたい、恐怖。異端も何も触手すら関係がない。この瞬間、サリエルは堕ちる恐怖だけを感じていた。
「嫌……いや……アーシュ……アーシュマ――っ!」
 一瞬の静寂。触手がサリエルの叫びに動きを止める。あるいは、屋敷内のすべてが。サリエルが呼んだ名に。自らの主の名に、屋敷中が息を潜めた。
 そして音のない爆発。増大する魔力の爆発が辺りの空気を引き裂き薙ぎ払った。




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