数日後、隣で目覚めたアーシュマが遠くを見つめたまま何かに耳を澄ますような表情をした。 かすかな力のうねりを感じ、サリエルは彼が屋敷の内外の声を聞き、意識を探っているのを知る。 「もう一人歩きをしてもいいだろう」 一つうなずいてアーシュマは言う。閉じ込められていたも同然のサリエルはその言葉にほっと息をつく。が、すぐさま彼は厳しい顔をした。 「ただし、屋敷から離れるな。庭までだ」 言って彼は体を起こし去っていく。意味を問い質す暇はなかった。端然とした背中は質問を拒んでいる。 だがサリエルは悟っていた。意識を取り戻した日に彼の言ったことは間違いなく事実だった。屋敷の中にはあからさまな反感の目を向けるものもいたし、それどころか襲い掛かるそぶりを見せたものもいる。 その者らはあっと言う間にアーシュマの力に弾かれその後、姿を見ない。どうなったのか尋ねるのが恐ろしくてサリエルは目をつぶる。 アーシュマはどこに行くにもすぐ側にいた。サリエルの強固な反対と甚だ不本意ながら、心底からの嘆願にもかかわらず湯殿にまでついてくる有り様。 もっともそれは身を守るため、というよりは彼自身の楽しみと言った方が的確だったが。守ってもらっている、というのを理解していてさえ、流石に息が詰まる。 「息が詰まるなどというものではないか……」 もしも自分が天使らしい天使であったなら。 異端、と呼ばれるサリエルだからまるで監視するような護衛であっても耐えられる。普通の天使であれば堪え難さに憔悴してしまう事だろう。 天使は一人を好む。それは孤独ではない。己とよく似た者同士、すなわち天使で群れる。それは一人でいるのと同じこと。それは鏡に映った影が幾重にも幾重にも増えていくかのよう。天使はそれ以外の他者を欲しない。それが普通の天使、だ。どこでもない場所を見つめて、サリエルの目の色は苦かった。 「サリエル様、サリエル様。お出かけ?」 あれからずっと身の回りの世話をしてくれているパーンの声にその顔がほころぶ。わからないものだった。すでにサリエルはパーンが幻魔ではなく魔族だと知っている。それなのになぜか、気を許してしまっている、その不思議。 「ようやくお許しが出たから。少し歩いてくるよ」 「気をつけて。気をつけて。危ないの」 「わかってる。大丈夫」 彼の強張った顔に微笑を向ければ、ようやくパーンも笑った。一度ならず本当か、と首をかしげてはいたが、パーンの笑みに心がくつろぐ。 外は心地よかった。 ここが魔界であるなどと信じがたいほど外の景色は美しい。天界とも人界とも、まして幻魔界とも違う。けれどそれは独特の美を持っていた。 咲き乱れる花のその色彩の激しさ。くっきりと鮮やかな色。 「天界の者ならば毒々しい、と表現すべきだろうか」 声に苦味を忍ばせて、サリエルは独語する。 けれどそれは彼にとって事実、美しい。 青々と広がる草の中、まるで宝石を彫り上げて生命を通わせたかのような花が咲く。奇怪な枝をさし伸ばした木々の先端には硝子細工のような果実が実る。 強く弱く漂う香り。甘く苦く時に芳しい。透き通る果実に一羽の鳥が舞い降りる。くちばしが果実を啄ばめば、ぱっと色とりどりの火花が散る。 「なんて」 美しい。呟き声は溜息にすらならない。 手の指を精一杯に広げたほどの大きさのその鳥は風にたなびく長い羽をしていた。朝陽で染め上げたような赤。海に浸した青。草の色を映したかの緑。 それらがふわり、風になびく様は絹糸のよう。鳥の目は一対の青い宝玉。 思わず伸ばした手。 「やめておいた方がいい」 くつくつ笑う声に後ろから止められた。ぞわりと背筋がそそけ立つ。声に含まれた何かに。 「見かけによらずその鳥は獰猛だ。ご寵愛の天使が無残に引き裂かれたと知ったらアーシュマは喜ばないだろう」 立っていたのはアーシュマより幾分か背の低い男。 人形を取っているからといってそれが本来の姿かどうかは疑わしい。サリエルは数日のうちにそれを学んでいた。 アーシュマには劣るものの充分に美しい、と言っていいだろう容貌。彼は夜色の髪を長く伸ばし背でひとつに結んでいた。 「ご忠告は感謝しておきます」 いささか面白くない物言いについサリエルも憤然と言い返した。 「来るがいいさ、天使。案内してやろう」 「庭から出るな、と言われていますから」 アーシュマに従うつもりはなくとも理由はある。サリエルは無駄に滅びたくはない。 「アーシュマは我が主人。懸念には及ばん」 主人、と言いながらも一向に敬意を示すわけでもない彼の口調を信じられるはずもない。一歩下がったサリエルに男は振り向いて言う。 「誰もがパーンのように『アーシュマ様』と呼ぶわけじゃない。それでもアーシュマは我が主人。敬意の程は変わらん」 言いながらも目が笑っているのだからどこまでが本当なのか、天使のサリエルにはわからない。 わからないながらもここはまだ彼の屋敷の内。もしもこの男が害意を持っているのならばアーシュマは外出を許しはしなかっただろう。 サリエルの表情の変化を読んだように男が言う。 「では行こうか、天使」 「案内をよろしく、悪魔」 言ったサリエルに彼は大いに笑い唇を歪めた。笑みとは似て非なるもの。わずかの間に彼は表情を改めては目をすがめ言った。 「魔界の者ではない。幻魔だ」 「幻魔が魔界に住み暮らすか」 「天界の連中が思ってるほど魔界と幻魔界に交流がないわけじゃない。天界に行く幻魔はほとんどいないが魔界とは行き来が頻繁にあるのでね」 「では幻魔、なんと呼べばいい」 「黒狐とでも呼ぶがいいさ」 その姿が揺らめいたかと思うと、彼の頭には獣の耳が、そして髪と同じ、吸い込まれそうな夜の色をした尾が。 豊かな尻尾を一振りし、完全な人形を取るのは疲れる、と黒狐は笑った。一瞬のうちに姿を変えた幻魔にサリエルは内心で驚いていた。 「黒狐?」 名、と言うにはあまりに異様な響きに思わずサリエルは問い返す。 「名前ではないな」 それに黒狐の口許が歪んだ。先ほども見た顔。サリエルが何かを問うより早く黒狐は言葉を継ぐ。 「妖狐の一族は名乗らない」 彼は言う。そもそも群れる事がないから個体を識別する必要がないのだ、と。 「だからたいていは妖狐、とだけ呼ばれる。あるいは『どこそこ森の妖狐』とか」 「それでわかるのか」 「妖狐の一族であれば充分事足りる。一族以外の者がそう何人もの妖狐を目にする機会などあまりあるものでもないしな」 話しつつ歩く道は驚異に満ちていた。 どこまでも透明な水をたたえた小さな泉が突如として炎を噴き上げる。 「あ」 驚いてあとずさったサリエルの腕を黒狐は掴んだ。何を、と思う間もない。 「触ってみろ」 と炎の中に無理やり手を入れさせられサリエルは青ざめる。 「なにをする」 声を荒らげ手を払おうとしてはみてもしっかりと掴まれた腕はそのままで動かしようもない。痛みを予想してサリエルは怯む。そして怯んだ己を恥じる。 だが。確かに炎に触れたはずの手なのに燃え上がりはしなかった。むしろ感触は涼やか。目を丸くするサリエルはすでに腕を掴まれていないことにも気づかなかった。 「冷たいだろう」 喉の奥で黒狐が嗤っている。 心地よくはない響きの笑いにサリエルは気分を害し応えないまま手を引いた。本音を言えば、もう少しばかり触っていたい、と思いはしたのだが黒狐に対する不快さが先に立つ。 「では何故あなたはわざわざ『黒狐』と名乗るのだろうか」 サリエルは黒狐を真正面から見据え、おそらく相手が言いたくはなかったであろうことを察してあえて尋ねた。 天使だとてそれくらいの嫌味は言う。 いや、天使らしい天使ならば言いはしない――サリエルは胸の内で自らの行為を自嘲していた。 「あなたの弁によれば妖狐と言うだけでいいのだろう。理由があってのこと、と思うが」 言葉を重ねればそのぶんだけ自分に異端、の言葉が降りかかる。 サリエルは思う。今更なにが異端か、すでに堕ちた身、と。そもそもまともな天使ならば堕ちはしない、と。 思ってサリエルは愕然とした。いまだ、堕ちてはいない。魔界の者となったわけではない。望めば天に帰ることができる。 その自分がいま何を思ったか。心の内側が激しく震えた。 「名乗りたいから名乗っているまで」 サリエルの密やかな動揺など知るげもなく黒狐は言い、わずらわしげに頭を振った。 結ばれた長い黒髪がふわりと広がり、そしてまるで梳かしたようにするりと落ち着く。 掛け値なく美しい、と思った。 天界では目にしたことのない髪の色。堕ちていたかもしれない身を救ってくれたあの悪魔の――。一瞬、流れた思考に驚き戸惑い景色に目を移す。 「面白い池がある」 それを読んだのか、黒狐がかすかな興味を滲ませて言う。 池は目の前にあった。目の前でありながら遠く、と思えば近い。わずかな臭気が漂っている。 「なんの……」 臭いか、問おうとしたとき不意に目が眩む。 「あの池は異常に異物が好き……いや嫌いなのかな。魔界の臭いのしない者が近づくと……まぁ言うまでもないだろう」 黒狐は純粋に笑っていた。悪意などない。ただ楽しんでいるだけ。だからこそアーシュマの意識に上らなかったのか。 ぼんやりとそんな事を思いながらサリエルの足は着実に池に向かっていた。己の意思ではない。かといって操られている気もしない。 それなのに、ふらふらと臭いにひきつけられるように足だけが動いている。 「天使がどうなるのか、興味があってね」 遠くで、近くで黒狐が笑う声が聞こえる。響きは歪み、引き伸ばされたかと思えば縮み、言葉が意味をなさない。サリエルはもう聞いてもいない。 水面が騒いでいる。 どんよりと濁った池の水面。まるで数多の魚が一斉に騒ぎ出したように踊っている。 「ほうら」 声。 水音が高くなった。 |