「アーシュマ様、ご主人様!」
 パーンが子犬のようにじゃれつくのに、悪魔は口許に仄かな笑みを刻んで召使の頭を撫でていた。その気安いとも言いうる仕種に少しだけサリエルは驚く。
 驚きつつも悪魔を見つめていた。そして思う、確信は正しかったらしい、と。
「お客様、サリエル様。お飲み物? お食事?」
 じゃれたままでもパーンは振り返り、自分の職務を忠実に果たそうとするのがなにか微笑ましい。つられてサリエルもまた笑みを浮かべる。
「あ……」
 その笑みが固まってしまった。困ったように言葉を切ったサリエルをアーシュマが笑う。背筋がぞくりとするような声をしていた。
 恐怖ではない、羨望ではましてない。天使たる身がかつて覚えたことのない何か。サリエルは思いを払うよう首を振る。
「安心するがいい。天界の者にも害のない物が用意してある」
 その仕種を悪魔はどう解釈したものか、実に朗らかに言う。告げられてはじめて気づいた。言われてみればもっともなことだった。
 傷がここまで痛まなくなるまでどれだけの時間がかかっている事か。食べ物はともかく水分は知らないうちに取らされていたことだろう。
 言われなければわからなかった自分が忌々しい上に恥ずかしい。悪魔に弱みを握られた、そんな気がした。
「酸味のある果汁があれば」
 絞り出すよう口にすれば、パーンが喜んで跳ね回る。サリエルが要求をした、そのことを彼は喜んでいる。
 そのことが不思議ではあったが、他者の喜びを見るのはサリエルにとっても歓びだった。たとえそれが魔界の者であったとしても。
 思ってサリエルは内心で息を飲む。魔界の者の喜びを我が身の歓びとするなど、考えたこともなかった。
「酸味? 果汁?」
 アーシュマの衣の影にまとわりつくようにパーンは踊る。だが口調にはわずかな濁りがある。困っているのかもしれない。
 困られてもサリエルもまた、困る。なにがいいのか問われてもなにがあるのか、魔界の植生など知りはしない。
「よいから厨房に行け。向こうで言えばわかる」
 指先ひとつでパーンはころり、転がされ、それが楽しかったものか笑いながらひとめぐり彼の周りを踊ったあと、厨房へと去って行った。
 軽やかな笑い声の残滓が消えてしまっても、サリエルは黙ったままだった。寝台の側に立つ悪魔も同じく。
「助けていただいて……まず礼を言います」
 ようやくのことで口を開いたのはサリエルだった。だが、言いながらも目がわずかに不本意そうな色をたたえる。
「気にいらなそうだな」
 それを見てはアーシュマが笑う。興味深い、と言うよりは面白そうな顔をされている。いったいなにが、と思えば不快だ。
「そういうわけでは」
 不愉快を隠すよう言ってみたけれど、サリエルは途中で言葉を止めた。取り繕う事の無意味さにひとつ頭を振る。
「意図がわからないのが嫌なだけです」
 そう告げた。その声は毅然としていた。魂の監視者たる天使の気概があふれている。悪に落ちそうな人間の魂を救う者が、あるいは堕した魂を狩る者が、悪魔に懐柔されるなど、屈辱とばかりに。
「意図?」
 それが悪魔に伝わらないはずはなかった。それなのに彼はどこまでも不思議そうな顔をしただけだった。
「助けていただいて言うのも恩知らずですが、あなたがなぜ私を助けたのかがわからない」
 契約に従えば助けられる事などありはしないのだ。狩られ、存在を滅ぼされても文句は言えない。過失はこちらにあった。
 天界では紛れ込んだ悪魔を例え過失であろうとも生きて帰す事などありはしない。魔界では違うのか、とも思う。そしてそのようなはずはないと思う。
「天界の者と同じに語られるのはいささか迷惑」
 サリエルの口にしなかった思いを読み取ったよう言った悪魔の口調には苦々しいものが混じる。不快を滲ませていたアーシュマの視線がサリエルに据えられた。その目が一変する。
「気まぐれ、といったらいいかね」
 笑った。サリエルは我が目を疑う。笑ったのだ、と思う。目を瞬いても確かに悪魔は笑っていた。微笑んでいると言ってもいい。
 我が目は確かにそれを見ているのに、信じがたくてサリエルは何度も眼前の悪魔を見直していた。
「気まぐれ……」
 呆気にとられたサリエルに向かってアーシュマは指を伸ばす。
 なにをされるのかサリエルが理解するより前にその金の髪を手にとっては指の間にさらさらと流し、巻きつけては唇に寄せ。
「な……」
 ぎょっとした声が己の唇からもれている。それなのにサリエルは動けなかった。悪魔に術で縛られているわけではない。
 それでもサリエルは動けなかった。
「美しいものが害されるのは俺の趣味ではないからな」
 にやりとしたアーシュマにぞくり、肌が粟立つ思いをする。身を引くこともできないサリエルにアーシュマが苦笑し、自ら手を離した。
「お客さま、お客さま、お飲み物持ってきたの。お待ちどおさまなの。お喉、渇いたでしょう? 渇いたでしょう?」
 明るいパーンの声が割り込んできてサリエルは救われた思いになる。ほっと息をついて、詰めていたのだと知ればおかしくなってくる。
 あのままアーシュマと話しているのが不安だった。笑い飛ばしでもしなければ振り払えないほどに。そして唇は笑みを刻もうとはしなかった。
 彼自身に不安を覚えた、というよりも自分自身に不安を覚えた、と言ったほうが正しい。
 それがどういった種類の不安かはわからない。それがいっそう不快だった。あるいは、恐ろしかった。
「ありがとう」
 手渡された果汁は冷たく、ほのかに苦味があって好ましい味だった。いったいこれはなんだろう、とかすかに思う。天界のものではもちろんない。魔界のものでもない。いずれにせよ、覚えのない味だった。
 ほっと息を吐き出せば、吐息に果実の香り。その柔らかな香りに心がほぐれていく。ようやくサリエルは自分の疲労に気づいた。
「お客さま、お疲れ。お疲れ? アーシュマ様、おやすみにならないの?」
 彼の衣にまとわりつくようにパーンが言う。主人を見上げた顔が可愛らしく顰められていた。唇を尖らせて、拗ねたよう主に訴えている。
 自分が世話を任されたサリエルを疲労させたのが主人である、と言うのがパーンは少し気にいらないらしい。
「ご主人様もお疲れだ」
 そんなパーンにアーシュマも苦笑いをしながら彼の頭をくしゃりと撫で、仕種で下がっていい、と告げた。
「お前も休んだ方がいい。痛まないだけで傷は少しも良くなってはいない」
 ひょこりとお辞儀をして下がっていくパーンの愛らしさに笑みを浮かべていたサリエルは言われてみて訝しくなる。なぜ、悪魔がいまだここにいる。
 その不審を感じ取ったよう、悪魔は再びサリエルの髪を手にとって唇を寄せた。
「やめてください」
 その手を手荒くはねつければ、高らかにアーシュマが笑う。不愉快そうな顔をしたのがよほど楽しいらしい。
「天使にしては異端だな」
 笑いながら言った彼の言葉に自分の顔が歪むのがわかる。
 天使は感情を露にしない。もしかしたら感情など持っていないのではないかと思うほど、常に端然としたままだ。
 自分の感情のままに表情が動く、それだけでも異端、と言われるほどに。
「放っておいてください」
 言葉でも彼をはねつけ、サリエルは横を向く。心底、不愉快だった。
「放っておくさ」
 まだ喉の奥に笑いの余韻を残したまま彼は言い、そしてそのまま寝台に上がってくる。
「……なにをしているんですか」
 ことさら冷淡にサリエルは言う。だが、意に介しもせずアーシュマはシーツの間に滑り込んでいた。
「自分の寝台で眠ってなにが悪い」
「でしたら他に私の寝台をご用意願いたい」
「死にたければ、そうしろ」
 何事もないよう、言われた。だが声音に潜む意味の重たさ。サリエルは言葉を返せない。
「侵入してきた天使の介抱するような気まぐれ起こす悪魔がそうそういると思うな」
 彼の言葉は言外に、他の悪魔に殺されるとの脅迫を匂わせていた。言われるまでもない、とサリエルはうなずく。
「それは承知しています」
「屋敷の中でも、だ」
 あっさり言って彼は目を閉じ、呟くごとく言葉を続ける。
「しばらくすればお前が俺の『客』だということが伝わるだろう。それまでは諦めるんだな」
 一度閉じた目を開けてにやり、笑う。
「それは理解しました。が、同じ寝台で、と言うのが納得できない」
 サリエルにしては先ほどからの彼の言動になにやら不穏なものを感じていなくもない、というところなのだ。
 知らず知らずのうちずいぶん寝台の端の方にまで寄ってしまっている。
「なにを今更」
「……どういうことです」
 笑いを未然に止めたようにアーシュマの声。ぎょっとして思わず自分の体を抱いた。
「馬鹿」
 その仕種を見てアーシュマが横になったまま笑い出す。あまりに笑い過ぎて苦しくなったのか彼は起き上がり、そしてまだ笑っていた。
「まったく……想像力豊かな、天使だ。これは当分……飽きそうにないな」
 憤然としたサリエルを横目で見つつ笑いの衝動に途切れ途切れの言葉をもらし、目を細める。
「意識のない相手になにかしたって面白くもない。保障する」
「なんのことだか理解しかねますね」
 意味を知らないわけではない。あからさまな言葉がいやだっただけだ。持ち主の思惑とは関係なしに上気した頬を掌でさすり、深呼吸をひとつ。
「だいたい、ずっと俺はここで寝てた。今更気にするな」
 ようやく笑いの発作がおさまったアーシュマはそう言って横になり今度こそ眠ろうと目を閉じる。
「そう言われて『はい、そうですか』という具合になどいくものか」
 心の中で悪態をつきはしたもののサリエルは黙って背を向け横になる。当面の所それ以外どうしようもなかった。助けられた以上、無駄死にしたくはない。




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