人影がもう一つ増えた所で、彼はもうなにも思わなかった。ただ呆然と己の最後を見ていた。それでも目だけは閉ざすまいとしつつ。
 穢れなき存在を表すはずの純白の衣は、すでに引き裂かれ泥にまみれている。血に汚れた肌に乱れた髪が張り付いて煩わしい。
 なぜ、とも思い、やはりとも思う。彼はかすかに自分を嗤う。
 魔に魅入られ、闇に落ちかけた人間の魂を追っていたはずだった。助けることができるのか、それとも堕ちた魂を討つことになるのか。迷いが彼の判断を誤らせたのかもしれない。
 魔界に近すぎる、そう気づいた時には時遅く、さらに運の悪いことに質の悪い下級魔どもがそこに待ち構えていた。
 本来、天使と悪魔が争うことはない。もしも仮に出くわしたとしても用心深くお互いが避け合うだけのこと。
 けれどこはあまりにも魔界に近い。むしろすでに魔界の端、と言ってもいいほど。
 そうであれば侵入者は彼の側だった。
 かつて天界・魔界の間でひとつの契約が成された。互いに相関わることはならぬとの協定。本来ならば小競り合いですら許されない。そうでもしなければ両者の争いは世界を滅ぼしかねなかった。
 無論、言うまでもなく、自分の属する世界に相手の者が侵入した場合はこの限りではない。侵入者を排除するのはこの世の道理。
 互いに忌々しい約束事だと思ってはいた。相手を滅ぼしてくれようと思っていた。それでも破壊の余波を食らって己が世界が壊れなければのこと。双方共に歯軋りをしつつ、契約に耐えている。
 その契約が交わされたのは幻魔界のはずれ。今でもそこは「契約の場所」と呼ばれている。
 幻魔界、とはいずれにあるのだろうか。そして幻魔、とは何者か。種族か、それともそこに暮らすものの総称か。ある意味では、総称だった。
 幻魔にも色々いる。ドラゴン、ユニコーンなど幻獣と呼ばれる者たち。半人半獣の姿を持つ者に移動する木々。姿を変える者、寿命の定まりのない者。瞬きの間に死す者。生まれたと本人すらも気づかぬ者。
 すべてが天界の住人のようにひとつの規律に従っているわけでもなく、魔界のように己の欲望に従っているわけでもない。
 だからこそ契約の地にふさわしい、と選ばれたのだった。魔界でもなく、天界でもなく。その双方の属性を持つ世界。それが幻魔界だった。
 だから契約に従って彼はいま、排除されるべき立場にあった。体が奮い立つ、抗戦の意欲に。仮にも霊魂の監視者、彼も非力とは言えない。
 けれど魔物どもに囲まれては成す術はなかった。長時間にわたって抗い続けたせいだろう、苛立つ魔物どもはいっそう手荒に彼を扱った。
 まるで曙光を集めたかのような金の髪、淡淡として癖のない天使のそれが薄汚い魔界の者の手に弄ばれている。
 触れられているだけでも屈辱だった。すでに抵抗をやめた体が痙攣するよう、動いたのを魔物が笑った。
 抵抗しないのには理由があった。しないのではない、出来ないのだ。
 彼のその背にあった美しい雪白の翼は、無残にも引きちぎられていた。
 それも鋭利な刃物ではなく力任せに。どれほど数が増えようとも、決して戦意を失わなかった彼の心が砕けたのは、そのときだった。それまでしていた抵抗も、その存在を止めてしまいたくなるほどの痛みに力を失う。
 喉から絞り出されたはずの絶叫は、声にならない。息を飲んだのか、それとも吸ったのか。無意味に痙攣した体のせいで再び激痛に見舞われた。
 だから人影がひとり増えた所でもうなにを思う力も残ってはいなかった。思考も苦痛も恐怖も屈辱も。すべて彼の心にはなかった。
 あったのは、心を焼く白い光。あれが消えたとき、己は存在をやめるだろうとぼんやりと思う。手足の痙攣も、痛みも、いつの間にか消えていた。
 遠くで悲鳴めいたものが聞こえ、そして彼は意識をなくした。

 目覚めた。
 それが理解できなかった。息をしていることも、目を開けたこともが信じられない。己は存在をやめたはず。確かにあの光は消えたはず。震える瞼を瞬けば、確かに瞼がそこにある。
「ここは……」
 広い寝台の上、傷に障らないよううつ伏せに寝かされていた。己の体を知覚し、いまだ存在していることを彼は知った。
 辺りを見回せば豪奢な造り。それだけで天界ではないと知れる。目覚めたばかりの心が、わずかに混乱を覚える。
 傷は丁寧に手当てしてあるようだった。痛みはもうさほどではない。動きさえしなければ痛みはなかった。
「お目覚め? お目覚め? ようやくお目覚め?」
 突如として聞こえた、はしゃぎまわる子供のような、声。
 驚愕に声も出ないでいると、声は寝台の影から姿を見せる。
「アーシュマ様のお客さま、やっとのお目覚め?」
 楽しげな笑顔を浮かべたそれはちょうど人間の子供くらいの背丈を持っていた。
 実際、子供かと思ったのだ。
 けれどそれは人間ではありえなかった。ふくふくとした可愛らしい上半身、なのにその下にあるのは山羊の足。よく見れば頭の上に小さな耳もついている。
「君は……ここは……」
 戸惑いに声も掠れた。魔界に囚われたはずだった。それなのに目の前にいるのはなぜか、幻魔。あるいは幻魔にしか見えない者。
「僕? 僕はパーン。お客さまのお目覚めを待ってたの。それがアーシュマ様のお言いつけ」
 歌うように彼は言う。言葉の間も動きを止めず、それはまるで踊っているかのような奇妙なリズムをもっていた。
 けれど決して不快なものではなかった。むしろなにか少し心和む気さえする。奇妙である、と感じるのはたぶん自分が天界の者だからだ、と彼は思う。不思議と冷静にそんなことを思っていた。
「ここはアーシュマ様のお屋敷なの。アーシュマ様はご主人様。僕らの大事な主さま」
 わかる、とでも言いたげに首をかしげてパーンが唇を引き締める。それから、くるり、まわって寝台の端からパーンは手を伸ばし軽く額に触れてはまた首をかしげた。
「お熱ない。もう平気。アーシュマ様のお手当てがよかったから」
 にこりと無邪気な笑みを見せられてもどうしてよいかがわからない。そう思ったはずなのに彼も思わずつられては微笑んでいた。
「アーシュマ様のお客さま、もう平気。なにかお食事? それともお飲み物? お好みなぁに?」
 彼にだけ聞こえている旋律がありでもするようにパーンはくるりくるり踊りつつ寝台から離れ、小首をかしげてこちらを見ている。
 何か、期待に答えなければならないような気になってくるのが不可解といえば不可解。それでいて不快ではなかった。
 喉が渇いてはいた。パーンの笑みに答えようとして彼は戸惑う。そもそも、ここはいったいどこなのだろうか。
 幻魔界ならばまだしも、もし魔界なのであればなにかを飲み食いする行為は緩慢な、あるいは激烈な自殺に等しい。
 天界の者は魔界の、魔界の者は天界の食物を受け入れられないのは自然の理だったから。
「お客さま?」
 答えないでいるのに、パーンが困ったような視線を投げてくる。客の用事を務められない自分を恥じてでもいるようなパーンの表情に、彼は心底から困惑していた。
 パーンに聞けば済む話なのだろう、だがそれを問うてはパーンが悲しむ、そのような気がしてしまっては何も言い出せない。
 互いの間に気まずい沈黙が流れたとき、ぱちりとパーンが両手を打ち鳴らす。よいことを思いついた、と言わんばかりに顔に彼こそが救われた。
「そうだそうだ、訊かなくちゃ。お客さま?」
「……なに?」
「お客さまのお名前は?」
 朗らかに尋ねられて、ようやく名乗ってもいなかったことに気づいて彼は思わず赤面する。ここがどこかなど、いまは二の次。どこであれ礼儀知らずと言われたくはない。
「サリエル。色々とありがとう」
 言えば今度は礼にパーンが照れ、踊るリズムも一層激しくなる。狂気のような速さでくるくるまわるパーンの両頬が、熱したように赤かった。
「パーン、その――」
「なぁに? アーシュマ様のお客様、ううん。サリエル様?」
「その、目が回らないかい?」
「ううん、平気なの。でもちょっと回ったかもしれないの」
 ぴたり、と回転を止め、パーンが笑う。その拍子にくらりと体がかしいで、サリエルは少し慌てた。思わず伸ばした手に、傷が痛む。
 はっとしたよう、パーンが姿勢を正してサリエルの顔を覗き込んだ。懸念にあふれたその目つきに、サリエルは唇をほころばせた。
「アーシュマ様のお客さま。サリエル様。ご所望はなぁに?」
 サリエルの表情に、ようやく己の務めを思い出したのだろうパーンは、改めて問う。すぐさま答えが返ってこないことに不審を覚えたのだろうか、眉根が可愛らしく寄せられていた。
 サリエルはといえば問われても言葉に詰まるばかり。どうしたものかと考えて、そして彼の言う「アーシュマ様」と言うのが何者なのか、まだ尋ねていないことに気づく。
 それを尋ねようとした時、不意に扉が開いた。
「客人が困っているだろう」
 笑いを含んだ声。視線を上げれば、知らず息を飲む。
 そこには男が立っていた。他に類を見ないほどの、美貌。目をそらせないほど、そして顔をそむけたくなるほどに、美しい。
 簡素でありながら一目で上質と知れる衣は黒。緩やかに流れ落ち、あるいは体を引き締める。黒一色に、ここまで様々な色合いがあるとはついぞ知らなかったこと。
 夜であり、闇であり、海であった。人の世の拙い言葉で表すならば、遠い星々を映す銀河の黒。もしくは生命なき深海の闇。
 内に秘めた力の強大さが見て取れるくせ体そのものは細身ですらある。精悍ではあった、だが猛々しくはない。粗野では決してない。
 首にかかる程度の髪は夜空の色の最上の部分だけを集めたように艶やか。軽く波打つ癖が柔らかで美しい。
 髪も瞳も衣さえ、無色彩の中、ただ一点の赤。血で染めあげたかに赤い宝石の耳飾り。
 もう誰に尋ねる必要もない。間違いなくここは魔界だ、サリエルは確信する。
 目の前にいるのは紛れもなく悪魔。それも相当な実力者に間違いはない。力なき我が身に比べ、彼のなんと強大なことか。
 そのような悪魔がなぜ自分を助けたりしたのか、それはまだ想像の外だった。




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