サイファは苛立ちを抑え切れなかった。自分を抱きしめるウルフの背中を再び殴りつけたのに、また笑い声が上がる。
「サイファ、好きだよ」
 満ち足りた声にも苛立ちが募る。どうしてこうも強引なのだろうか。
「お前なんか大嫌いだ、と言っている」
 やはり魔法を叩き込むのだった。後悔してももう遅い。いまさらそうする気がなくなってしまった。
「サイファ」
 答えず黙るサイファにかまわずウルフはその髪を撫でている。時間が戻った、そんな気がしてしまった。はっと心づいてサイファは身をよじるが、ウルフからは逃れられない。
「あんた、嘘下手だって言ってるでしょ」
 笑いをこらえるような声が言う。握り締めた拳で殴りつけてもちっともこたえた様子がなかった。
「なにがだ」
 低い声でサイファは罵る。これくらいで離すような男ではないことを知りながら。けれどそうせずにはいられなかった。
「ごめんね」
 突然に謝られてサイファは困惑した。戸惑う間にウルフの片手がサイファの腕を探る。何事かと思っているうちローブの袖をまくられた。
「なにを……」
 問いかけて気づいた。慌てて腕を引こうとするも間に合わない。抱かれたままの体勢でサイファは顔をうつむかせる。自分でも頬が紅潮しているのがありありとわかる。決して見られたくはなかった。
「これ、大事にしててくれたんだね」
 ウルフの指が腕に巻いたあの革紐をたどった。ウルフが編んだ革紐。旅の途中、サイファの無事を祈って髪に結んだ革紐。三叉宮から帰った後も、サイファは捨てることが出来ず、腕に巻いていた。
「忘れていただけだ」
「それでもいいよ。持っててくれた」
「捨て忘れただけだ」
 苦しい言い訳だとわかっていた。ウルフが笑いを噛み殺しているのがわかるだけに苛立たしい。
「お前なんか、さっさと出て行けばいい」
 ウルフの胸に向かって罵った。どこか、本心で言っていないのを感じている。こんなことで懐柔されてたまるものか、と意地になっているだけだとも。
「サイファ、俺のこと好き?」
「嫌いだ、と言っている。何度も!」
「ほんと?」
「大嫌いだ」
「俺は大好きだよ」
「だからなんだ、さっさと出て行け!」
 体を抱く腕の力が強くなる。傷つけてしまったのだろうか、ふと不安になった。そしてサイファは首を振る。そんなことを気にする必要などどこにもないはずだ。
「俺の約束なんか信じらんない?」
「なんの約束だ」
「一緒に旅に出ようって約束したじゃん、忘れちゃったの?」
「……お前が破った」
「だから、国から逃げてきたって言ってるじゃん」
「もう信じない」
「サイファってば……」
「なんだ」
「強情すぎ」
 今度こそ魔法を叩きつけようと思った。それなのにうまく思考がまとまらなかった。このままでは本当にウルフを殺してしまう。制御を失った魔法は一瞬の後にウルフを肉片に変えるだろう。多少でも気分が良くなるか、と背中を殴りつけても気は晴れなかった。
「ねぇ、俺の言うことは信じられなくても、お師匠様なら信じるの?」
「当たり前だ」
「じゃあさ」
 わずかに苦さの滲む声で言ってウルフが腕を緩めた。機会を狙っていたサイファはそこから逃れようとするも、片手で腰を抱かれてしまった。
 これでは同じではないか、とサイファは顔をそむける。ウルフはそれを許さず反対の手をサイファの頬に添え自分の方を向かせた。
「お師匠様は、信じるんだね?」
 まるで念を押すような言い方に不審を覚えはしたものの、サイファはうなずく。
「当然だ」
 それにウルフがにんまりと笑った。何か、失言でもしたのかとサイファは顔を顰める。ウルフはそれにかまわずサイファの指輪に触れる。あの瑠璃石の指輪に。
「これ、お師匠様からもらったんだよね」
「そうだ」
「なんて言ってたんだっけ?」
「我が師は、いつか私の瑠璃石が現れるまでの仮の守り、と仰った」
 以前、話した気がするのだが、なぜこのようなことをいま聞くのだろうか。ウルフの意図がわからない。それが不安をかきたてた。
「サイファ。俺の名前ね、知ってる……わけないよね」
 まだ、微笑っている。絶対に何かを企んでいる顔なのだが、それが何かがわからない。
「知っているが。カルム王子」
 嫌がらせのようにその名を呼んだ。追放されたのだから、あるいはもう相応しい呼び名ではないのかもしれなかったが。
 ウルフは嫌がるか、と思った。しかし彼はそれにもにやりと笑ってうなずくだけ。嫌がらせの甲斐がない、サイファは不機嫌に顔をそむける。
「それでも間違ってはいないんだけど」
「どういうことだ」
「俺、名前二つあるの」
「あ……」
 すっかり失念していた。目の前の男は王族だった。つまり、二重名だということだ。魔法と言うものが日常にある世界で真実の名を公表するのは賢明とは言えない。
 サイファ自身、そのサイファと言う名も真の名ではない。それは母がつけた人間の世界での呼び名だった。もっとも真の名は半エルフゆえに人間が発音できない名である、と言うことが理由なのだが。
 魔術師は師につくと同時に名を与えられる。敵の手に自身の運命を握られないようにするために。サイファは元々が通称なだけに新たな名を師から授けられることはなかった、それだけだ。普通は師より魔術師としての通称を賜り、そして独立した後は師と自分の通称をあわせて名乗ることになる。
 王族も理論的には同じだった。いつ何時、呪殺されるかわからない立場にあって、真の名を触れ回るなど狂気の沙汰だ。
「わかった?」
「お前が王子だなど、あまりにも信じがたくて忘れていた」
「まぁ、もう違うけどね」
 さらりと言ってウルフは再びサイファの頬に手を添えて、じっとその目を覗き込む。
「それで」
 ぶっきらぼうにサイファは問う。近すぎる距離が落ち着かない。目をそらそうにも離せない。吐息がかかるほどのすぐそこに、ウルフがいる。
「俺ね、カルム・ラピスが正式なの」
「……は?」
「んー、ミルテシア王家はどうも石の名前をつけるのが伝統みたいでね。あんまり好きじゃないんだけど」
「ラピス……」
「そう、瑠璃石。俺の、ことだよね?」
 照れるウルフにサイファは言うべき言葉がなかった。何を言ったらいいのか、それどころか物も考えられない。師の言葉を信じるのか、と言う問いかけはこういうことだったのか、とはじめてわかった。
「……騙したな」
 その距離のまま、サイファはウルフを睨みつける。たじろぎもしなかった。確信がウルフを強めていた。
「誰が?」
 大袈裟に驚いて見せ、ウルフは微笑む。それからそっと額にくちづけられた。咄嗟に突き飛ばしたくなってしまう衝動をこらえるのに必死だった。
「お師匠様の言ったこと、信じるんだよね。サイファ?」
「そうは言ったが、お前がそうだとは」
「俺に決まってるでしょ」
「どこがだ!」
「俺ほどあんたを好きなのはいないよ。人間でも半エルフでも、たぶんお師匠様より、ずっと」
「そんなことがなぜわかる」
「だって、サイファも俺のこと好きだから」
 あまりにも自信にあふれた言い様に呆気に取られた。誰が誰を好きだというのか。やはりこのまま窓から放り投げた方がいいのだろうか。
「お師匠様より、俺のほうがいいよ。ここにいるでしょ」
「比べるな!」
「そりゃ、比べ物にならないってわかってはいるけどさ」
 少しばかり肩を落としてウルフは言う。サイファは呆れた。ウルフの言うような意味ではない。師とはウルフが想像しているような関係ではない、と何度言ったらわかるのだろう。
「死んじゃった人の中ではお師匠様が一番でも諦める。でも生きてる中では俺が一番、そうでしょ」
「どうして順位をつけたがる」
「だから、あんたが好きだからって言ってるじゃんか」
「私はお前が嫌いだと再三言っているが」
「嘘が下手だねって、しつこく言ってるでしょ」
「どこが嘘だ!」
「嫌いってとこ。俺には好きって言ってるようにしか聞こえないって」
 わざとに違いない。ウルフはあえてそれを耳許で言った。囁き声に気が遠くなりそうになる。知らずウルフの背中にすがってしまった。
 まるで彼を抱き返すように。気づけばウルフも柔らかくサイファを抱きしめている。強い鼓動に気持ちが安らぐ。そう思ったとき、決して嫌がってはいない自分にサイファは驚いていた。
「お前なんか……」
 言い差して止まってしまう。あのように言われたら、嫌いだとは言いにくい。否定すればいいものを、だがそうはしきれない感情がどこかにあることに気づいてしまった。
「俺なんか、なに?」
 わざとらしくとぼけて問うている。サイファはウルフの背中に爪を立てることで返事に代えた。抗議をしたつもりだったのに、けれどウルフの喉から笑いが漏れる。
「嘘つき」
 そんな腑抜けた抗い方しかできない自分が情けない。内心でサイファは溜息をつく。
「嘘つきだよって言ったでしょ。でもどこが?」
「ずっと馬鹿なふりをしていた」
「半分以上はふりじゃないんたけどな」
「わかっているなら、演技だ」
「んー、そうでもないよ。サイファがなんでそんなこと言うのかわかんないもん」
「……お前は私の考えが読めすぎる」
「どういう……あぁ、そっか。なんであんたが俺を好きだってわかるのかってこと?」
「そうは言っていない!」
「じゃあ、俺がいなくて寂しかったってどうしてわかるのかって?」
「殺されたいか、若造」
「んー、心中はまだ嫌かな」
 言って笑い声を上げるウルフを殴れないのが残念でならなかった。ウルフの腕が温かすぎて、殴りかかる気力も湧いてこない、それだけだった。




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