苛立たしい呼吸を抑え、サイファは本を受け取った。ぱらぱらと繰ってもあまり記憶が蘇らなかった。確かに読んだ覚えはあるのだが。
 立ち上がり、書架の前で別の本を手に取る。関連のある本だということはわかっているのだから確実に読んでいるのだ。そちらの本をめくり、ようやく思い出した。
 創世神話が「人間に」与えた影響の本だった。半エルフのサイファはたいした興味が持てずに流し読みをしたのだ。
 机に戻り、そのことを紙に記す。もっとも、自分以外の誰かが見るための目録なのだから表現は婉曲に変えてはあったが。
「戻せ」
 背後にいるはずのウルフに振り向きもせず本を突き出す。その拍子にわずかにローブの袖がめくれたのに、サイファは気づかなかった。本の重さがなくなったから持ったのだろう、と手を離せばやはり本が落ちる音はしなかった。
 書き物を続けながらサイファは不審に思って振り返る。梯子の軋む音がしなかった。ぼんやり立っていたならば叩き出そう、そう思ったのにウルフは書架に向いている。
「何をしている」
「なにって。本、戻してるんだけど」
「梯子を使え」
 届きもしないくせに無理をして本を傷められるなど冗談ではない。所詮、若造にはわかりもしないことだが、貴重な書籍ばかりなのだから。もっとも、いま彼が持っている本に関しては価値のほうも内容の方も大した物ではないが。
「だって」
 振り返ったウルフの顔に仄かな笑みが浮かんでいる。それから少し、歪んだ。
「届くよ、これくらい」
 言ったウルフは軽く背伸びをしただけで本を収めた。サイファは表情を動かさないよう、努めていた。
 内心では激しく驚いている。自分はあの場所に手は届かない。だからこそ、ウルフに注意をしたのだ。
「そうか」
「……うん」
 努力を重ねて、何気ないふりをして返事をすればウルフが唇を噛むのが見えた。だからなんだと言うのだろうか。何も気にならない。勝手に傷つくなり怒るなりすればいい。自分は知らない。何度も何度も心に呟いたことにサイファ自身、気づかなかった。
「サイファ」
 だから、気づかなかった。いつの間にかウルフが背後に立っている。振り返り、殴ろうとした腕がやんわりと掴まれ、そしてそのまま抱きすくめられた。
「離せ」
 冷たい声に一瞬ウルフの体が震える。だが彼は腕を離しはしなかった。
「あんたが好きだよ」
「どうでもいい」
「もう俺のほうが大きくなっちゃったって、気がついてなくてもね」
「それがどうした」
「サイファが好きだ」
「離せ、と言っている」
 耳許で聞こえる声。会話などではない。まるで噛みあわない言葉を互いに言い募っているだけだ。気持ちがささくれ立つ。
「サイファ。俺もう、出て行ったほうがいいのかな」
 ぽつり、ウルフが言う。腕が緩んだ。その隙をついてサイファは逃げ出す。後ろを振り返ることもせず走り出した。
 どこに向かっているのかも、ウルフが何を考えているのかもわからない。なぜ逃げ出してしまったのかなど、まして。
 追いかけてくる声も足音も聞こえなかった。塔の中を走り、気づいたときサイファはぼんやりと水盤の前に立っていた。
 いつ、そうしたのかも覚えていない。水盤には師の姿が浮かび上がっている。サイファを迎えるよう、両腕を伸ばしている。
 その腕に抱かれることができたならばどれほど心安らぐことだろうかと思う。幻に、それは望めなかった。
「リィ、もう嫌だ。リィに会いたい」
 無理を言っている。あの頃のように。どんな難題でも師はたちどころに解決してくれた。こうして呼んでいればいつか助けに来てくれる気がするほどだった。
「リィ」
 無駄だと知りつつ手を伸ばした。指先が触れたと思う間もなく向こう側、突き抜ける。するのではなかった、後悔に唇を噛む。余計、つらくなってしまう。片手で目許を覆い、サイファはうつむいた。
「それ、お師匠様?」
 咄嗟に、幻影を消すことも出来なかった。なぜ、ここにいる。どうやって追いかけてきたのか、わからない。塔の内部は複雑な魔法空間だ。だがしかしそれを言うならば、いったい彼はどうやってここに入ってきたと言うのか。
 そんなことばかりが巡る。どうでもいいことだった。いまはなによりウルフに師の姿を見られるのが嫌だった。師に泣き言を言っているところを見られるなど。
「出て行け」
「行かない」
「そろそろ塔を出ると言ったのは、誰だ」
「サイファは? 出て行ってほしい?」
 なにを当たり前のことを言っているのかと思う。元々、追捕の兵士がいなくなったら出て行け、と言っていたはずではないか。
「出て行け」
「だったら、なんでさっき逃げたの」
「顔も見たくないからだ」
 嫌なことを問われた。自分にわからないことが答えられるはずもない。撥ねつけるよう、それだけを言えばウルフが薄く笑う。
「サイファ」
 一歩、踏み出す。逃げ場がなかった。すぐ後ろには水盤がある。伸ばした手に掴まれた。引き寄せられ、もがいても逃れようがなかった。
「帰ってきて。あんたが好きだ」
「なにを……」
「どこ行ってるの、サイファ。俺、ここにいるから。あんたといる。ずっと一緒にいる」
「離せ」
「俺、馬鹿だからうまく言えないよ。だからごめんね」
 言ってウルフが息をいれる。きつく抱く腕にさらに力がこもり、呼吸が苦しくなるほどだった。
「そんな、お師匠様の影に向かって話すより、俺といたほうが楽しいよ」
 まるで師を侮辱されたような気がして、サイファはウルフの腕に爪を立てた。わずかに呻き声がしたことに満足し、今度はゆっくり魔法を叩き込んでやろう、そう思った時また声がする。
「だからうまく言えないって言ったでしょ」
 苦笑いをしてでもいるような声。謝罪の代わりだろうか、片手が肩から離れて髪を撫でた。首をすくめてサイファはそれに耐えている。
「サイファ、帰ってきて」
「なにを言っているのか、わからない」
「あんた半分どっか行っちゃってる。俺んとこに帰ってきて」
「嫌だ」
 反射的に答えていた。あるいはそれはサイファですら意識していなかったことを突かれたせいだったのかもしれない。
 あの日から、サイファの精神はさまよい出てしまって帰らない。師を追い求め、師のところへ行くことばかりを考えている。ここにいて、そしてサイファはここにいなかった。
「寂しい思いさせて、ごめんね」
 囁き声が震えていた。驚愕に、サイファは無理やり体を引き離し、ウルフの顔を見つめる。
「なにを言っている」
「最初に、全部話せてたらよかったんだ。でも俺、怖くってできなかった」
「だから、何を……」
「サイファに身元を知られるのが怖かった。どうせ死ぬんだからそれまで一緒にいられればいいなんて思ってた。まさかあんなことになると思ってなかったから、言わなかったんだ、ごめん」
「それはもう前に聞いたが」
「ねぇ、サイファ。あんた俺と一緒にいられなくなって、怒ってるんじゃないの?」
「馬鹿な」
「そう? 国での俺の立場を考えたら一緒になんていられない。嘘ついたんだって怒ったんじゃないの?」
「違う」
 言った。だがサイファ自身、わからなくなった。誤解だと知ってもまだ怒りが解けなかったのはなぜなのか、考えたこともない。思わずそらした視線に、ウルフが軽く頬に手を当て自分のほうを向かせた。
「俺はそうは思わない。寂しくって悲しくって、もう嫌だからサイファは怒ってる」
「そんなことはない」
「あんたが好きだよ。ずっと一緒にいるから、だから帰ってきて。怒鳴ったり殴ったりする相手がいるのって、楽しいよ。お師匠様の姿は懐かしいかもしれないけど、でも俺の腕もあったかいでしょ」
「馬鹿なことを」
「だって馬鹿だもん」
 吐き出したサイファの言葉にウルフは笑って答えるだけ。落ちた視線もそのままに、ウルフはサイファの頭を抱え込むよう抱きなおす。
「ほら、ここにいるよ」
 軽く押し付けられた胸にある鼓動の音。温かいのは嘘ではない。だが。
「もう、嫌だ」
 呟いた。聞かせるためなのか、そうではないのか。我知らず呟いた声はウルフがしっかりと抱きしめたくなるほど、弱々しかった。
「ずっとここにいるから」
「信じない」
「サイファ、俺が国外追放になるしかなかったって、なんでかわかる?」
「知らない、そんなことは」
「あんたと一緒にいたいから。王位なんか要らない。身分なんかどうでもいい。追放されたかったんだ」
「どうしてだ」
「追放されれば俺はあんたのウルフでいられる」
 声が笑いを含んだ。照れたような声に顔を上げかければ押さえつけられた。柄にもない芝居がかった言い様に自分で照れたのかと思えば馬鹿らしい。
「馬鹿か、お前は」
「だから馬鹿だって言ってるでしょ」
「殺されたかもしれない」
「でもちゃんと辿り着いたよ、サイファんとこに」
「無謀にもほどがある」
「嬉しいな」
「なにがだ」
「心配してくれてる」
「誰が?」
「あんたが俺を。ねぇ、ちょっとでいい、俺のこと好き?」
「大嫌いだ」
 言ってから、しまったと思うが遅かった。なぜ今までどおりどうでもいいと答えなかったのだろう。シャルマークにいたあの頃のよう、答えてしまった。
 抱きすくめるウルフの背中を思い切り殴りつけた。そしてやはり、なぜ魔法を叩き込まなかったのかもわからなかった。




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