サイファは無言で書架へと向かう。背後でウルフがかすかに息をつく音が聞こえた。それに苛立つ。怒鳴るなり喚くなりすればいいと思う。そうすればこちらだとて、対応のしようがある。叩き出すか、放り出すか、いずれでも選べる。 「食事をしてこい、目障りだ」 わずかに近づいてくる足音。振り返り、睨みつける。はっとしてウルフが足を止めた。 「……その後で、手伝え」 やつれきった顔が不愉快だった。まるで自分のせいのようではないかとサイファは思う。勝手に苦しめばいい。自分が見えない場所で。 今となっては、ウルフが王になりたいがために利用した、と言うのは誤解だとわかっている。だが、怒りは去らない。 なぜだかは自分でも良くわからなかった。もしかしたら、あのような思いを二度としたくない、だから関わりたくない、それだけなのかもしれない。 「サイファ……」 白い頬に血の色が浮かぶ。それを見てやはり、酷い顔をしている、そう思った。シャルマークを旅している間、血の気を失うなどと言うことはなかった。戦士らしく馬鹿みたいに体力だけはあったのだから。 「さっさと出て行け」 叩きつけるような言葉にウルフは頬を高潮させたまま足早に扉を抜けた。放っておいたら飛び跳ねかねない勢いにサイファは顔をそむける。 あんな顔をしたことはなかった、そう思ったはずなのに覚えていた。シャルマークで自分が彼を許さないと決め付けていた頃、確かにウルフはあのような表情をしていた。 そして許されていると知った日、やはり唐突とも言える激しさで晴れやかに笑ったのだ。サイファはローブの胸元をきつく掴む。 心をかき乱されるのはもう嫌だった。あの頃のことが、遥か遠い過去のように思える。どうしてあれほど彼の笑顔が見たかったのだろう。ただの、人間の若造ではないか。 そして今、かすかに笑ったウルフの表情にあの時と同じ心の揺らぎを感じている。サイファは一人、首を振る。力ない仕種だった。 「もう、嫌だ」 呟く声が掠れていた。師の元に行きたい。側に暮らして教えを受けたい。そのために命を捨てなければならないならばそうしたってかまわない。 もう、ウルフに関わりたくない。こんな思いをしたくない。サイファの口許に笑みが浮かぶ。 「いっそ殺してしまおうか」 物騒な呟きは、けれど意味とは裏腹に頼りなく響いた。誰を殺そうというのか、自分でわからなくなった。ウルフをか、それとも自分自身をか。 「リィの側にいられるなら、それでもいいか」 ふっと微笑いそして脳裏によぎったのはウルフの顔。それが師の顔でなかったことにサイファは動揺し強張った。 「リィ」 呪文のように師の名を呼ぶ。そうすればここに現れて助けてくれるとでも言うように。 知らず閉じていた目を開いた。師はいない。当然のことに、それでもかすかな期待を持っていた目許が歪んだ。 「馬鹿か、私は」 きっぱりと、決別するよう言ってサイファは書架に寄る。師の本に触れた。彼の懐かしい気配でもしはしないかと。 そして背表紙に刻まれている師の筆跡を目で追った。魔術師にあるまじき無骨な手蹟。それでいて一種独特な優雅さがある、彼その人のように。 紙に記した自分の字と見比べてサイファは微笑う。あまりにも違う手蹟だった。人間の字を習ったのは師からだった。それなのにサイファの筆跡は細くなだらかな線ばかりが目立つ。 「リィ……」 違うことがたくさんある。それが懐かしくて嬉しい。その思いがまるで自分のものではない、そんな気がしてサイファは眉を顰めた。 「あ……」 思わず声を上げてしまった。つい先程ウルフが言っていたことではないか、と。自分とウルフと。違う所が色々ある、彼はそう言っていた。 だからなんだ、サイファは首を振り思いを振り払う。自分と師の間に立ち入ってこようなど、不遜も甚だしい。たとえ彼にそのようなつもりがなくとも。 「……ただいま」 だからそう恐る恐るウルフが戻ってきたとき、サイファは冷たく見返しただけだった。わざとらしく目をそらし、意図的に書架を見る。 「あ、そこ?」 舌打ちをこらえた。なぜ、このようなときにだけ察しがいいのだろうか。わからなかったら邪魔だと言って追い出せたのに。 ウルフが物珍しそうに本を見ている。たとえミルテシア王家の王子だとしてもこのような蔵書を目にしたことなどないだろう。 大半が師の手になるものだったし、そもそも魔術師でもないのに大量の書籍を持つことは珍しい。王家ともなれば歴史書の類程度は完備してあるだろうが、それでもこの量には敵わない。それを思えば師が誇らしく、サイファはウルフの背に向け勝ち誇ったような顔をしてしまう。 「ふうん、神話?」 興味を引かれたのだろう、ウルフが本に手をかけそうになった。咄嗟に言葉の出なかったサイファは魔法を放つ。ウルフの動きが拘束され、微動だにしなくなる。 「許しなく触るな、我が師の蔵書だ」 言い付けておいて魔法を解いた。荒い呼吸が聞こえる。突然のことで驚いたのだろう。自業自得だった。師の本に触れるなど、冒涜としか思えない。 「ごめん」 呟くような謝罪に耳も貸さず、サイファは机に改めて道具を広げた。 「下から五段目、左から順番に読み上げろ」 手伝いをしたいというならばさせるまで。それ以外に用などない。必死になって気配を消されるより、目の前でうろうろされた方がまだ苛立たしくないことに気づいたサイファは自分の発見に密やかな笑みを漏らす。 「サイファ」 油断だった。見られていたことが不愉快だ。今度は睨みつけもせず、軽く手を閃かせ魔力でウルフの頭を操った。 自分の意思ではなく頭が動き出すのにウルフが恐怖の表情を浮かべる。抵抗をやめた彼の頭は書架を向いて固定された。 「さっさとしろ」 視線を落としたはずなのに、いつの間にかウルフの背を見ていた。塔に留まっている間にやつれてはいる。だが旅をしていた頃より少し、成長したのだろうか。肩の辺りが戦士らしくなっていた。 「アルハイド大陸神話要綱」 ウルフが書名を読み上げる声に我に返ってサイファは筆記用具を走らせる。その音を聞きながらウルフが次を読み上げる。 見惚れていたわけでは断じてない。単純な、感想であるだけだ。変化を見て所感を述べたに過ぎない。 そう内心で言い募る自分に、旅の間ずっとしていた言い訳めいた響きを感じるのも、ただの気のせいにしてしまいたかった。 「三王国における神話の相違」 悪くない助手だった。はっきりとした声でゆっくりと読み上げる。そしてサイファの速度にあわせることも知っている。 意外と役に立つものだな、そう数時間を経て認めるようになった。実際、仕事ははかどっている。自分ひとりでするよりもずっと早い。 ウルフはすでに梯子を上って書名を読んでいた。器用に片手で梯子を押さえ、もう一方を本に触れないよう注意しながら目印にしているのだろう。下から見上げれば今にも落ちそうな体勢なのだが彼にはそれで充分なようだ。 読み上げられた書名を記しながら内容を思い出し、概要を添えていく。単純な作業なだけにサイファの思考は他へとそれて行った。 この程度の役には立つ。多少、体格のよい屋敷妖精だと思えば腹も立たないか、そんなことを思っていた。 その考えに思わずうつむいて笑いを噛み殺す。いっそ下僕化してしまえばいいかもしれない。意思も思考も奪い、忠実なそれこそ屋敷妖精と変わらない生き物にしてしまえばいい。 ウルフは寿命が尽きるまで塔に留まりサイファの用を果たすだろう。何も考えず、命令だけに従って。ここに留まって、いつか死ぬだろう。 それも悪くない、そう思う。サイファは紙の上、筆記具を走らせながら暗い思いに囚われている。ウルフは裏切ることのないものになる。 ひっそりと、溜息をついた。脳裏に師の姿がちらつく。決して師はそのような手段を取った自分を許すまい。 ある程度以上の力を持つ魔術師ならば、下僕化の魔法を使うことはできる。それは対抗魔法を覚えるために必須だからだ。他者にかけられたとき、自分が対抗魔法を知らなければ跳ね返すことができない。 だから、サイファはかけ方を知っていた。厳しい師の教育の元に習い覚えたものだ。当然、使ったことはない。真っ当な魔術師ならばそのような魔法は使うものではないからだ。 いま、一瞬でもそうしようかなど思考を弄んでしまった自分を恥じる。師に顔向けのできないことをしてしまうところだった。 それもこれもすべてこの人間の若造のせいだと思えば腹立たしかった。 「創世神話が与えた影響についての考察」 読み上げられた本に覚えがなかった。手が止まり、しばし考える。 「貸せ」 腹立ちのままに乱暴な口調でサイファは言い、ウルフに向かって手を伸ばす。ウルフはためらうよう、書架に視線を走らせていた。 そのままサイファを振り返るものだから、見ているほうが不安な体勢になる。急な梯子から転落するのではないか、そう思ってしまう。 「いいの?」 「なにがだ」 「触って」 恐る恐る、本の背に触れかかる。またサイファが魔法を放つとでも思っているのだろう。あまり気分のいいものではなかった。 あのようなことをしてなお、ウルフが自分に向かって怯えを見せるというのがサイファには意外だった。そして怯えたウルフが、不快だった。 「許しなく、と言った」 「そっか」 うなずき彼は本を手に取った、と思ううち身軽に梯子から飛び降りる。一瞬、怒鳴りそうになった。危ないことをするなと。そしてそのようなことを言う必要がまったくないことに思い当たりサイファは口をつぐんだ。 |