廊下を歩くと時折、慌てて何者かが体を隠す気配がする。足音が聞こえているから気配などと言うものではないのだが、本人は必死で隠れているつもりらしい。
 サイファは何も聞こえないふりをして、足早に通り過ぎる。そして廊下を曲がりかけると必ず視線が追ってくる。
「鬱陶しい……」
 わざわざ口に出してサイファは溜息をついた。不器用な屋敷妖精が棲んでいるとでも思わなければやっていられない。
「ブラウニーならまだ可愛げがあるものを」
 再び溜息をつき、サイファは書庫へと向かう。そもそも自分の移動経路には近づくな、と言い付けてあるにもかかわらず、ウルフは出没し続けている。
 言葉をかわしたくないからこそ、注意はしていない。叱責すればその間にも何かを言いたがるに決まっている。
 そして自分を懐柔しようとする。人間のやり口など、もう充分に学習した。だからサイファは関わらない。いることなど気にしない。
 いままでどおり、自分は自分の生活をすればいいのだ。放っておけばいつかいなくなるだろう。あるいは忘れ果てているうちに寿命が尽きるかもしれない。
「それもいいな」
 勝手に死ねばいい。シャルマークで死ぬ気だった男が死んで蘇生した。そして国外追放されて兵士に殺されてやるつもりでいた。
 ならばこの塔の中で寿命が尽きたとて、たいした違いはない。兵士がいなくなって出て行っても大差もない。
「もう嫌だ、リィ」
 どうしていつまでもいるのだろう。兵士がいなくなるまで、とは確かに言った。そして兵士は律儀に数日置きに塔を訪れている。
 以前の失敗があるせいか、無理やり侵入しようと試みる者はいない。だが飽きもせずに訪ねてくることは確かなのだ。
 だからウルフを追い出せないでいる。サイファは深く溜息をついた。師の教育のせいだった。
「あなたのせいだ」
 いもしない師に文句を言っても気は晴れない。一度口にしたことは必ず守るように、そう師に言いつけられていなかったならばさっさと追い出していたものを。
 あるいはそれは本来のサイファの性格と言うものもあるのかもしれない。半エルフの特性と言うわけでもないだろうが、いままで知ったどの人間よりサイファは律儀だった。
 気にしなければ良い、とは言いはしても自分以外の生き物がいる気配だけは隠しようがない。そのことにいつまで目をつぶれるだろうかと疑問に思いながら書庫へと入った。
 膨大な書物がサイファの整理を待っていた。さすがのサイファでも気が遠くなりそうだった。一体いつになったら終わるのだろう、と思わずにいられない。
 ウルフが留まるようになって以来、ほとんどの時間をサイファは書庫で過ごしている。気晴らしに呪文室に行っては練習する、それ以外の時間はここにいると言っても過言ではないほどだった。
「まったく」
 それなのにまだ百分の一も片付いていないように思えるのだ。以前からこの本に囲まれていた。無論、読み込んでいる本ばかりだ。だからどの本がどこにあるかわかっているのだが、目録作りをはじめてみて、ようやくその数が身に染みてきた。
「さて」
 今日はどこから取り掛かろうか、と思い悩むふりをしてみる。実際は昨日の続きをするより他にないのだが、そんなことでもしてみなければ量に圧倒されてしまう。
 諦めて天井に目を向けた。肩をすくめて取り掛かる。サイファは本を手に取ることもせず、目録を作っていく。いまの所、よく知っている本ばかりのおかげで内容を確かめる必要がない。
「次は神話か」
 こんなものまで師は集めていたのだな、といまさらながらに感嘆する。見れば、アルハイド大陸の創世神話ばかりを蒐集した書架がひとつある。高い天井まで届く書架一杯にそれが詰まっている様は圧巻だった。
 シリルが見れば喜ぶだろうな、ふとそんなことを思っては口許が緩む。あれから二度ばかり兄弟から手紙が来た。そこには今まで決して触れられなかった話題が記されていた。
 ウルフのことだった。本人の弁は嘘ではなかった。兄弟がウルフに騙されているというのは考えにくいことだから、やはり国外追放は真実なのだろうとサイファは思う。
 そして、だからなんだ、とも同時に思う。もう関わりたくないと決めてしまったのだ。兄弟は仲間を案じていたから、無事でいることだけは知らせてある。
「やっぱりそこにいると思っていた」
 その後アレクからはそう喜ばしげな手紙が届いたが、サイファは言下に否定している。ウルフ本人に言ったよう、目の前で殺されては後味が悪いから滞在させているだけだ、と返事を送っておいた。もっとも、アレクがそれを信じるとは思ってもいない。
 旅の間ずっとウルフと自分がそういう関係であることを疑わなかった彼のことだから今回もすんなり信用はしないだろう。きっとその内どうにかなる、とでも思っているはずだ。
 知らず苦笑が浮かんだ。今度は、決してそんなことにはならない。それを知ったときどんな顔をするのだろうか。
「人間を信じないって、俺だって人間だぜ」
 にやりと笑ってそのくらいのことは言いそうだった。その辺り、サイファは突き詰めて考えないよう努めていた。
 なぜといえば、兄弟は信頼に値すると今もなお思っているせいでもあったし、そもそも師も人間なのだから。
 人間ゆえに定命の定めから逃れられず、自分をおいて死んでしまった。サイファは溜息をつく。死んでしまった、逝ってしまった、そう自分は言うけれどこのような自分を残して逝かなければならなかった師はどれほど心残りだったかと思う。
 人間は死ぬとどうなるのだろう。そんなことを最近のサイファはよく考えるようになっていた。今まであまり意識したことがない。
 死と言う現象は半エルフにとってもっとも馴染みの薄いものであるからだった。師の最期を看取ったときにも、考えなかった。
 それがなぜ今になって、そう疑問には思うが考えてしまうものはそれで仕方ない、とサイファはそのままに目録を作りつつぼんやり考えている。
 死後、魂が宿る場所があればいい。そんなことを夢想する。そして師がそこから自分を見守っていてくれるならばどれほど心安らぐだろうか、と。
 ずいぶん情けないことを言うようになった、そう師は苦笑いしているかもしれない。呆れているかもしれない。
 それを思うだけで心が温かくなる。不意に疲れているのだろうか、そんなことを思った。あるいは旅に出る日が近づいているのか、と。
 半エルフの最後の旅。どこに向かうか知る者はいない。帰ってきた者もいない。そこが居心地のいい場所であればいい。
 そこに師がいてくれたら、どんなにか。サイファは顔を伏せ微笑んだ。また教えを受けることができるだろう。側近くあることができるだろう。日に日に師を求める気持ちが強くなっている。
 だが旅立ち、と考えてもまだその日が来ているとは感じない。近づいてはいても今ではないのだろうか。
 ふと、手が止まっていたことに気づいては苦笑して作業を再開する。と、また手が止まった。
「紙が切れたか」
 苦々しげに言って立ち上がった。ずいぶんたくさん用意したはずなのに、ぼんやりしながらでも目録作りは進んでいた。
 神話の書架の下から目の高さほどまで終わっている。もう少しは机に座ったまま作業ができるだろう。それ以上の高さは梯子を使わざるを得ない。不安定な姿勢で書き物をすることになるが、机に移動させてするよりはずっと楽で早い。
「ここに、置くよ」
 はっとして振り返った。ウルフが紙を手にしている。机に置こうとしてためらっているのか、それとも話しかけてしまったことを悔いているのか。
「なぜここにいる」
 問いかけではなかった。言外に出て行け、と言っていた。ウルフが少し怯んだ顔をする。通じているということなのに、彼はそこに立っていた。
「サイファ、ずっとこもってるから……」
「だからなんだ。お前には関係ない」
「心配、だった」
「お前がどう思おうと私の知ったことではない」
「ずっと食べてないし」
「半エルフは人間ほど食物を必要としない」
「だって、旅の間はずっと」
「ただの付き合いだ」
 なぜか、傷ついた顔をした。人間ほど食べなくともまったく問題ないことは事実だった。旅の間は、そうして拒むのは仲間に悪いかと思って食べていただけだった。
「サイファと俺と、いろんなことが違うね」
 ぽつり、ウルフが言う。視線はサイファを見ず床の上をさまよっている。
「なにをいまさら」
 冷笑し、ウルフとは逆に彼を見据えた。面窶れしていた。人間の時間でどれほどが経ったのだろうか。数日、とは思えなかった。
「ここの扉の前でさ、ずっと待ってたんだ」
「なんのために」
「二三日して、出てこなかったから。心配で」
「不要だ」
「わかってるよ、そんなことは」
「ならば、なぜ」
「俺がそうしたかっただけ。サイファが出てくる気配がしたら、すぐ消えるつもりだったよ」
「つもり、ね」
 鼻で笑ってしまった。消えるつもりが笑わせる。いまそこに立っているのはなぜだ。紙を持ち出して渡そうとしたのはなぜだ。こちらの気の緩みを突こうとしているとしか、思えない。
「声が、聞こえたからさ」
 さまよっていた視線が不意に上がってサイファを捉える。何事かを言いたげな目にサイファは自分の視線を外せなくなってしまった。逃げるような気がして、嫌だった。
「俺、なんか手伝えないかな」
 言い出したことの意外さに、サイファは口もきけない。何ができるというのか、この人間に。
「黙ってろって言うなら、できるだけ黙ってる」
 サイファの口許が歪んだ。できるだけ、など信用できない。
「今の俺、無駄飯食らいだし」
 自己嫌悪の響き。それがどこに由来するのかサイファにはわからない。わかりたいとも思っていない。だが、その言葉の響きは気に入った。退屈しのぎにいたぶるくらいの役には立つだろうと。




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