あまりのしつこさに、サイファは小さく罵り声を上げる。念のため、と水盤に近づいたときウルフがちらりと苦笑を浮かべた。
「もう来たみたい」
 言って、窓に手をかけようとする。それをとどめて水盤の前、連れてきた。不審げな視線を意に介さずサイファは水面を一撫でする。塔の扉の正面が映し出された。
「へぇ、便利だね」
 サイファは答えず、そこにまた兵士の姿を確認した。いったいなんだと言うのか。こうも魔術師に用のある人間がいるはずがない。
「俺をね、捜してるの」
「どういうことだ」
「変なところで世間知らずだね、サイファ」
 かすかにウルフが笑う。サイファは睨みつける手間もかけず、魔法を放つ。途端に彼の呼吸が浅くなり、締め付けられたような喘ぎが上がる。
「強引なんだから」
 解放されたウルフが軽く非難をこめて言うがサイファは聞いてもいない。それに彼は溜息をつき、話を続けた。
「国外追放ってね、普通は追手がかかるの」
「追手?」
「うん。殺した方が都合がいいでしょ」
 あっさりと言う。自分のことだろうに、彼は他人事のようだった。
 サイファはなぜか背筋が冷たくなるのを覚えた。シャルマークで、ウルフは死にたがった。許されないと思い込んで、死んだ方がいいと馬鹿なことを言っていた。いまもそうなのかもしれない、不意に思う。自分が許さないと知っているから、あの時と同じ選択をしたのかもしれないと。
「サイファ」
 気を抜いた一瞬の隙をつかれた。緩く、腕に抱かれている。もがこうにも強い腕に阻まれて動けなかった。
「あんたが好きだよ」
 耳許で聞こえる声。少し掠れているのは二度と会わないと決心したせいだろうか。腕の温かさが嫌だった。
「これ以上いたら迷惑かけちゃうからね。もう行くよ」
 未練など微塵も感じさせずウルフは腕を離した。口許に笑みが浮かんでいる。
 嘘つきだ。サイファは思う。出て行きたいなど少しも思っていないのは明白なくせに、いまさら何を言うかと腹立たしい。
「サイファ」
 頬を唇が掠めた。咄嗟のことに反応もできないサイファに、ウルフはわずかばかりの微笑を浮かべそれから背を向けた。
「ここにいろ」
 誰が言ったのだろう。サイファは何が起こったのかわからなかった。はっとしてウルフが振り返り、ようやく自分が口にした言葉の意味を知る。
「……みすみす見殺しにするのは後味が悪い」
「サイファ……」
「追手がかからなくなったとわかるまで、留まることを許可する」
「そっか」
「私の目に触れないよう注意しろ」
「うん」
「無闇に近づいたらその場で叩き出す」
「ん」
 たどたどしい返事。扉の前、ウルフは顔を覆っていた。掌からのぞく口許は、笑っているのか泣いているのかわからない。
「こい」
 苛立たしい気持ちがどこから来るのかわからないまま、サイファは背を向け、別の扉を抜ける。ウルフがついてくるのを確かめもしなかった。
 そこにいるのはわかっていた。背後に、懐かしい気配がある。そう思うことをサイファは心の底から嫌悪した。
 二度と関わりたくないと思っているはずなのに、自分が口に出した言葉が信じられない。口許を強張らせたまま進んだ。
 普段使っている部屋を彼のために明け渡す気はさらさらない。移動経路にある部屋も論外だった。だからウルフの部屋は塔の中でも日常サイファが近づかない場所になる。
 なぜそこまでして留めようとするのか。出て行かせればよかった。今になって後悔の念がふつふつと湧き上がる。
 無論、あの場で行かせればウルフは殺されただろう。胴着しか身につけていない。剣すら持っていない。短剣くらいは持っているのかもしれないが、それで兵士たちと渡り合おうとするのはいくら彼でも無理だというのはわかっている。
「リィ……」
 師に尋ねたかった。自分がいま何を考えて彼に滞在の許可を与えたのか、聞きたかった。師ならば自分の知りたいことを何でも答えてくれる。会いたくて、たまらなかった。
「サイファ、何か言った?」
 唇を噛んで黙殺した。ウルフに彼の名を聞かれたのがどうしようもなく嫌だった。戸惑いのあまり師の名を呼んでしまった。それを知られるなど、許せない。
 単純な木の扉を開け、サイファは中を見渡す。当面、必要なものは揃っているだろう。背後の気配をうかがって舌打ちをひとつ。聞き取られないよう注意しながら呪文を詠唱し、着替えの類を用意した。無論、ウルフの視界から遮られた場所に。そしてこれほど気遣う必要がどこにある、と内心に罵り声を上げる。
「ここを使え」
「ありがと」
「この廊下をまっすぐ行くと厨房がある。反対側に浴室。勝手に使え」
「うん、サイファ」
 物言いたげなウルフに背を向け、サイファは立ち去る。会話をする、そのこと自体に嫌悪が湧き上がる。
 サイファの背中で扉が閉まった。一切が、閉ざされた、なぜかそんな気がして、振り返る気などなかったのに振り返っていた。
 そこには装飾も何もない、木の扉があるだけだった。
「リィ、どこにいるの」
 天井に向け、サイファは溜息をつく。疾うの昔に死んだ師を今になってこれほど求めるとは、思ってもいなかった。
 あの頃、もっとずっと一緒にいるのだった。どれほど悔いても足りない。独り立ちなど、許されてもするのではなかった。
 共に師の塔で暮らすのだった。そうすれば、いまの戸惑いも苛立ちも師から教えてもらえたような気がする。
「引き止めてくれればよかったのに」
 言っても仕方のないことを思い出して師を非難してもいまさらどうしようもない。わずかに苦笑が浮かび、サイファは足早にそこを立ち去った。
 彼の元を離れて旅に出る、と決めた日。塔から出て行く自分を寂しそうに見ていた師の顔を思い出していた。どこか少しばかり切なげ顔。それでも独り立ちするまでに育った自分を誇ってくれていたことは、確かだった。
「あなたがここにいてくれたら」
 そう思わずにはいられなかった。あの日、引き止めてくれたならばウルフと出会うことなどなかったものを。いまは朽ち果てた師の塔を、ずっと守っていたかもしれない。
 サイファは長い溜息をつき、その連想から書庫へと向かう。久しぶりに目録作りを再開する気になった。
「あ……」
 不快さに眉を顰めた。また人の気配がする。念を入れるため、サイファは一度居間に戻り水盤の前に立つ。
「しつこい」
 やはり兵士がいる。集団になっていた。いままでは槍で叩いていたものを、今度は拳を振り上げている。無理に破ろう、と言うのだろうか。サイファの唇に薄い笑みが浮かぶ。
 兵士が棍棒を持ち出した。返答がないのに業を煮やして叩き破ろうというのだろう。止めてやるのが礼儀かとも思うが、礼儀知らずはどちらか、とサイファは放置することに決めてしまった。
 兵士が棍棒を一度、二度と扉に叩きつける。と、その手が硬直し棍棒を取り落とす。指揮官だろうか、偉そうな男が兵士を叱咤するが彼には聞こえてもいないらしい。
 見守るうちに別の兵士が扉を破壊する作業を続行した。その男も先の兵士と同じ道をたどる。怒り狂った指揮官が棍棒を持ち、扉に殴りかかり、そして叫びを上げた。
 この世の物とは思われない声だった。サイファの笑みが深くなる。何物も見えなくなった指揮官がわめきながら走り出せば、恐慌に駆られた兵士たちもわらわらと逃げ出した。
「馬鹿が」
 冷たく言い放ち、サイファは水面を撫でてそれを消した。
 塔の封印は完全だった。サイファの意思に反して入ろうとする者がいれば、強力な幻覚がその者を襲う。本人が最も恐ろしいと思っている物を目の前に出現させる。
 サイファにとっては手間のかからないやり方だった。これならば細かく幻覚の内容を考える必要もない。不届きを働く者の内にこそそれはあるのだから。
「……なぜ」
 そしてサイファはまたわからなくなる。どうしてウルフは入ってくることができたのか。いまの兵士たちを見れば封印が緩んでいるわけではないことは確認できる。
「リィ、どうして」
 自分の魔法に何か不備があったのだろうか。いまだかつてそのようなことはなかったはずだ。少なくとも、師より独立を許されて以来、魔法を失敗したことなど一度たりとてありはしない。
 そうでなければあの過保護な師は一人になることを許したりはしなかった。だから魔法を失敗したのかもしれない、その考えはサイファを想像以上に動揺させていた。
「教えて欲しいことが、こんなにあるのに」
 どうして死んでしまったのか。いまさら、いまさら。泣いても恨んでも師は帰ってこない。それでも会いたいと思う気持ちは募るばかりだった。
 知らず水盤に指が触れていた。見るともなしに視線を走らせていたそこに、不意に師の姿が浮かび上がる。
 唇を開きかけた。声など出なかった。これほど頼りない思いをするのは、何世紀ぶりだろうか。師の最期の息を確かめた、あの日以来かもしれない。
 泣き出したいような思いに、サイファは師の影を消し去ろうと手を伸ばした。微笑む師の姿がそこにある。手を伸ばせば触れられそうなほど、現実めいた姿でそこにあるのに彼は生きてはいない。
「サイファ」
 自分で組み込んだはずの師の声に、サイファの伸ばした手が止まる。指先が震えていた。深い呼吸を一度。ゆっくりと目を閉じ、そして開ける。そして断固としてサイファは師の影を消した。
 またいつでも呼び出せる、そう念じながら。




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