雲がよぎったのだろうか、逆光が消え、陰の姿が現れる。灰色の、ありふれた胴着を身につけた体。少し、背が伸びた気がする。燃えるような赤毛が風に吹かれて揺れていた。
「どうやって、入った」
 言葉に詰まった。封印は完全のはずだった。何度も侵入を試みた兵士たちは無駄を悟っているのだから。
「普通に、扉開けて」
 質問の意図がわからない、そんな顔をして彼は言う。サイファは起こしていた半身を長椅子から持ち上げ、立ち上がる。
「さっさと出て行け」
 それだけ言って背を向けた。部屋を移動している間にいなくなればいい、と。
「サイファ、待って」
 返事もせず、彼が入ってきたのとは別の扉に手をかける。
「サイファ!」
 開けた扉からすり抜けようとした体が掴まれた。背後から腕が回される。強張って、動けなくなった。
「その手を離せ」
「いやだ。話し聞いて」
「私に触れるな」
「サイファ……」
 呆然とした声。耳に馴染んで懐かしい。その思いを振り払ってサイファは毅然と立つ。微動だにしなかった。
「頼むから、話し聞いて」
「出て行け、と言っている」
「サイファ」
「気安く呼ぶな」
 腕にこめられた力が強くなった。逃げるなど、決してそんなことはしない。自分で離させてやる、そうサイファは心に決めている。前を向いたまま、開いた扉に手をかけて。
「会いたかった」
 その言葉が、どんな効果をもたらすかウルフはわかっていたのだろうか。サイファは嗤った。
「今度はなんだ? どんな頼みごとだ? シャルマークは平定した。次はラクルーサか?」
「サイファ! 違う、聞いて」
「利用されるのは御免だな。出て行け」
「違うんだって。聞いて」
 サイファは腕が緩んだ一瞬の隙をついて振り返る。そのまま口の中呪文を唱え、ウルフの胸に向けて魔法を放つ。
「……くっ」
 空気の塊に胸を強打されたウルフが呻く。いい様だ、冷笑しながらサイファは一歩下がった。
「出て行け、と言っている間に出て行くがいい。次は本気だ」
「サイファ」
 胸を押さえ、青ざめたウルフが体を折って見上げている。その顔に浮かぶのは愕然とした表情。まさか魔法を使うとは思ってもいなかったのだろう。
「俺のこと、嫌い?」
 この期に及んでそのようなことを言うとは。サイファは唇を歪めて見返した。
「どうでもいい」
「……そっか」
「興味がない」
「うん」
「出て行け」
 追い討ちをかけるよう、畳みかけたサイファの言葉にウルフがうつむく。泣けばいいと思う。無様をさらして出て行けばいいと思う。
 だがウルフが再び視線を上げたとき、そこには笑みが浮かんでいた。
「前に、言ったよね。俺、嘘ついてるってさ、絶対サイファに嫌われるって言ったよね」
 浮かぶ笑みが深くなる。サイファは口を挟めなかった。当然だと思っていた、それもあるが何よりどこか齟齬がある気がする。
「身分を偽ってたのは、悪いと思ってる。でも俺ね、ほんとにシャルマークで死ぬつもりだった。って言うか、生きて帰れると思ってなかった。だから、旅の間サイファと一緒いたかった。もし帰れたら、国には戻らないでずっとサイファといたかった、ほんとに」
「出て行け、カルム王子」
「それ、やめて」
「本名だろう。なにが悪い」
 言った途端、ウルフが仰け反って笑った。背筋が寒くなるような声だった。
「本名ね。うん、そうだね」
 含みのある言い方にサイファは眉を顰める。だが、関わりたくなかった。視線をそらし、目を閉じる。目を開けたときに消えてしまえばいいのに、そう願いながら。
「あそこで死ななかったら、国に帰らなくて済んだ。馬鹿だね、俺」
「なにをいまさら」
「うん、自分でも間が抜けてると思うよ。おかげで欲しくもない地位を押し付けられて、ほんと馬鹿だ」
「欲しくもない? 王位が目的だったくせに何を言うか」
「ちょっと待って、サイファ。それは違う」
「どこがだ」
「俺は王位になんかつきたくない。父王の跡を継ぐなんて冗談じゃない。絶対に嫌だ。そもそも俺は末っ子で、余計な子だったんだ。それがシャルマークから帰ってきたらあの始末じゃんか。余の愛し子だ? 笑わせるよ」
 吐き出すよう彼は言う。また、騙されるのかもしれない。警戒が湧き上がる。だがそれが嘘だとはサイファには思えなかった。
「俺は父王にシャルマークで死ぬよう命ぜられた。軍隊率いて行けってね。巻き添えで他人殺すのなんか嫌だから、一人で行った。ミルテシアはそれほど豊かじゃない。ラクルーサだって状況は大して変わんないけどね。それなのに王には馬鹿みたいにたくさん子供がいる。俺、誰が兄弟だかよくわかんないくらいだもん。だからね、どっかで戦って死んでくれれば好都合なの。帰ってくるなんて、これっぽっちも思ってなかったはずだよ」
 視線がそれたのだろうか、感じていた圧力が薄れる。サイファはそっと目を開けウルフを見た。彼はどこか遠くを見ていた。
 窓の外、風が強くなってきていた。サイファは意識せず動き、窓を閉めてからそんな必要がなかったことを思っては唇を噛む。
 自分ひとりであったなら、窓など閉めない。この程度で体調を崩したりしない。人間ではないのだから。
「世継ぎになんか、なりたくなかった」
 遠くを見たまま彼は言う。そこにあるのは真実の響きとしか思えないもの。
「ならば、なぜあの場にいた」
「サイファに会えると思ったから」
「なるほど、シャルマークの大穴を塞いだと、どうしてわかったのか不思議に思っていた。お前が話したというわけか」
「言わなきゃ解放してもらえなかったからね」
 言ってウルフは疲れたよう、長椅子に腰を下ろす。ぼんやりと座って顔を覆った。
「儀式に出ればサイファに会えると思った。そこから一緒に逃げちゃおうと思ってた。まさか、王があんなこと言い出すとはね」
 渇いた笑いが唇から漏れている。サイファは壁際に立ち尽くし、そんな彼を見ていた。目を、そらせなくなっていた。
 ここにいるのは誰なのだろうか。ウルフらしくはない。かといってカルム王子らしいのかと言えばそれも違う気がする。
「会いたかった」
 視線を上げたウルフの目の中にある冷たいものにサイファはぞっとする。シャルマークで絶望しかけていたときの表情によく似ていた。
「神殿を出てから半年。連絡ひとつしてこなかったくせによく言う」
 言い返すつもりなど、なかったというのに。話したいだけ話せば出て行くだろうと思うからこそ、勝手に喋らせているのに。
「サイファ。ガストン、覚えてる?」
 力なく笑うウルフにサイファは黙ってうなずく。返事などしたくなかった。正面から見るのも嫌だった。
「俺ね、何度も神殿から手紙出した。王宮に戻ってからもたくさん書いたよ」
「それで」
「全部、ガストンが握りつぶしてた」
 ウルフはうつむき髪の中、乱暴に両手を差し込んだ。赤毛が跳ね回っている。そのままじっとしているウルフを見ているのがつらかった。
 信じていたのだろうと思う。例の騎士を。騎士は騎士なりに王子を大切に思うからこそ、そうしたのだろう。だが愚かな人間に、振り回されるのはもういやだった。
「逃げ出すよりなかった。ガストンのこと知ってから、頑張ったんだけど、すごい時間かかっちゃった」
「逃げ出す?」
「逃げてきた……って言うか、追放された、が正しいかな」
「どういうことだ。王太子」
「それやめて。だいたいもう俺、王太子じゃないし」
「説明しろ」
「王位を継ぐなんて絶対いやだってね。こっちの言うことなんか聞く耳持ってないから、仕方なかった。王を脅したんだ」
 一度言葉を切り、ウルフは顔を上げサイファを見た。少し、笑っていた。どことなく満足そうに見えるのは気のせいだろうか。
「王を殺して王位について、そのあと王国ごとラクルーサに渡してやるってさ、脅した。おかしかったな、赤くなったり青くなったり。で、俺は国外追放。無事に王太子の地位からは逃げ出せたってわけ」
「馬鹿かお前は」
「それしか方法がなかったの」
 どこまでが嘘なのだろう、サイファは戸惑う。あるいはすべてが真実なのだろうか。笑い顔のままぐったりと疲れている彼を見れば、追放は本当なのかもしれない。そんなことを思う。
 世継ぎになりたいがために騙していたのだと思っていた。その地位を擲ってきたというのか。ならば、真実と偽りの境界はどこだ。
 サイファは首を振る。追放の話も所詮、ウルフ一人がしているに過ぎない。それだとて、真実とは限らない。もう信じたくなかった。人間に関わるのに、疲れた。
「話が終わったなら、出て行け」
 だからサイファには他に言うべき言葉がなかった。平穏で、つまらない毎日に戻りたい。腑抜けたように師の影を追っているほうが遥かに楽しい。どれほど馬鹿らしくとも。
「そうだね」
 反論もせず、ウルフが立ち上がる。諦めたような表情が浮かんでいた。それでいい、これでもう乱されなくなる。ほっと息をついたとき、音がまたしても聞こえ始めた。




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