居間の長椅子にぼんやりと横たわっていた。何もしたくなかった。目を閉じることもできない。ただずっとそうしているだけだった。
 開けたままの窓から時折、雨や風が吹き込んでくる。熱かった風は、いつの間にか涼しさを帯び始めていた。
 疲れて、ふと目を閉じてしまった。途端に浮かぶ人影。触れるほど近くに赤毛があるような気がしてしまう。はっとして目を開いた。
「リィ」
 違う名を呼んでみては嗤う。自分の愚かさに愛想が尽き果てたとでも言いたげに。
 開いた目に映るのは、師の面影。人間の魔術師と言うより、まるで戦士かと見紛うほどの体格。背の高い硬い体、愚かな人間の戦士のように無駄な筋肉などつけてはいなかった。短く刈った淡い銀髪。この指輪の瑠璃石の色をした目。
 幻覚だとわかっている。それでも別の誰かを見てしまうよりずっとよかった。
「リィ。何処にいるの」
 答えは知っていた。千年の昔に死んだ。自分が看取った。けれど会いたくて仕方なかった。
 サイファは嗤って水盤に手を触れた。水の感触が心地良い。冷たく澄んで何もかも忘れられそうな気さえする。
 不意に顔を上げた。何者かが塔に近づいている。扉の前、ためらっている。サイファは触れていた水面を一撫でしその姿形を映し出す。
 どこぞの兵士だった。武装し、手に持った槍で恐る恐る扉を叩いた。
「開けよ」
 叫んでいる。が、やはりそれは怯え声だった。サイファは薄く笑い、黙殺する。ここから開かない限り、彼らにはどうしようもない。立ち去るか、死か。選択は兵士に任されていた。
 漫然とそれを見ているのにも飽きたサイファは再び水面を撫で、別のものを映し出す。そこに存在するかのよう、男の姿が水盤から立ち上がった。
「リィ」
 現れたのは師の影。暇に飽かせて作り上げていた。特別難解な魔法ではない。だが手間はかかる。ひとつずつ組み上げ、構成し動かすだけでも普通の人間の魔術師にはできようもない。
 ましてサイファのしたよう、喋らせるなど。貴族や好事家の望むよう作り上げて売ればそれだけで人間ならば一生遊んで暮らせるだろう。
「サイファ」
 師の声が聞こえる。そう、作ったのだから当然だった。他にも色々言葉を組み込むことはできた。その昔、何度も言っていた言葉を今でもはっきりと覚えている。
 だがサイファは名を呼ばせることしかしなかった。他に何を言わせても虚しいだけ。つらくなるだけだとわかっていた。
「リィ」
 それでもサイファは己が作り上げた師の影に答えてしまう。
「あなたはどこ」
「サイファ」
「どうしたらいいの、リィ」
「サイファ」
「リィ。寂しい」
「サイファ」
 唐突な激しさで、サイファは水面を叩く。長椅子にうつぶせて、そのまま耐えた。何もかもがどうでも良かった。
 約束さえしていなかったならば。幻覚の中でした約束であっても、師とのそれだけは破れない。
 いっそ、シャルマークに旅に出てしまおうかとも思う。大穴は滅んだとは言え、まだ魔物は徘徊している。あれが大陸から一掃されるには、人間の時間でまだ何世代もかかるだろう。
 大陸有数の使い手とはいえ、魔術師だ。一人であのような場所を旅すれば危険とは隣り合わせ。容易に死と繋がる。
 それも悪くないような気がした。死にに行くのではない、旅に出るのだ。それならば師との約束を破ることはない。そう言い訳することもできる。
「無理だな」
 一人嗤って呟いた。そのような誤魔化しを許すような師ではない。生きていても死んでいてもサイファの行為を許すまい。
 いまも昔も師に見捨てられたならばサイファは真実一人きりだった。許されない、そう思うだけで迷子のような気持ちになってしまう。
「子供でもあるまいに」
 苦いものでも噛んだよう、サイファは唇を歪める。仰向けて天井を見る。季節が変わるほど見ていた天井は今日も何も変わらない。
 染みのひとつ汚れのひとつでもつけば掃除をしようという気にもなるが、仮にも魔術師の塔。その程度のことは魔力がすべて賄っている。おかげでサイファは横たわっているよりすることがない。
 いまでは目録作りの続きをしようという気も失せていた。膨大な書物を整理する気力がない。間違った目録を作るくらいならば放っておいた方がまだましだ。
「きっと、怒るな」
 こんな風に怠けている姿を師が見たならば。ずいぶん魔法の練習も怠っている。サイファは皮肉に思う。半エルフは便利だ、と。人間のよう、毎日食事を取らなくとも死にはしない。元々、半分方は魔法的な生き物のせいで人間ほど練習しなくとも腕が衰えることもない。
 両手を掲げてぼんやりと見ていた。この手を取って、たくさんの魔法を師は教えてくれた。それなのに知らないことがまだありすぎる。
「リィ」
 呼んだ途端、ローブの袖がずり落ちた。目に留まるのはくたびれた革紐。はっと目をそらし、サイファは袖を直す。見たくない。それなのに外せない。
「……またか」
 いぶかしげに身を起こす。水盤の水を撫でれば映るのはまたもや兵士。先程とは違う兵士らしい。
「一人で嗤うこともできないのか」
 苦々しげに呟いた。わずらわしくなったサイファはいっそ兵士を殺してしまおうかと思う。そうすれば当分、来ることはないだろう。
 手を上げ、だが思い直す。無意味な殺戮は師が最も嫌ったこと。あるいは自分が死ぬようなことがあったとして、そして死んだのちに師とまみえる機会が仮にあったならば。
 そう思えば兵士を殺すことがためらわれる。兵士は知りもしないだろう。遥か昔に死んだ一人の人間の面影が自分の命を救ったことなど。
 人間など、滅びてしまえばいい。サイファは今ではそう思っている。シャルマークの大穴は塞がった。元凶たる魔族はもういない。
 そして次に大陸を荒らすのは人間に他ならない。いままでも半エルフにとって暮らしにくい世の中であったことは確かだが、これからはそれ以上になることだろう。
 あの隠れ里を壊してしまったのが悔やまれる。滝の裏の魔法空間でひっそりと暮らしていた、人間を憎んでいた同族。彼らはいま、どうしていることだろうか。
 良かれ、と思ってしたことだった。だが、彼らを人間の間に放り出してしまったのは、災いでしかなかったのかもしれない。
 人間にも善い者がいる。あの時はそう思っていた。今も、少なくとも兄弟に寄せる信頼だけは変わっていない。だが、容易く信じられる種族でないことは、心底よくわかった。
 自嘲し、後悔する。あれから何度もアレクは手紙を送ってくれていた。返事など、ただの一度も出していないというのに。時折、シリルが兄の手紙に何かを付け加えてくる。
 それは頼みごとであったり、近況であったりした。仲間として扱うからこそ、特別なことは何も言わない。兄弟揃ってそうだった。
 二人が共通して避けている話題があるとすればミルテシアの王子のことくらいのものだった。ミルテシア王国のことは書いてくるくせに、それだけは避けている。
 それが少し、おかしかった。人間の不器用な優しさが身に染みるとは、ずいぶん気が弱っていることだと思う。
 たまには返事を書こうかとも考えた。会いたいと一言書けば二人は喜んできてくれるだろう。だが、サイファは一人でいることを選んだ。
 この状況を一人で乗り越えることを選んだ。師の影と共に過ごすとも言えない日々を過ごし、いつしか何十年も経ってしまうことを望んでいる。
 それは乗り越える、とはとても言えない方法かもしれない。けれどサイファには他にどうしようもなかった。若造が、確実に死んだと思えるその日まで、半エルフの最後の旅にすら出られない、そんな気がしてならなかった。
「うるさい!」
 また、塔の前に兵士が立っている。映し放しになっていた水鏡に目をやれば、違う兵士が扉を叩いている。
 今度こそ、少し痛い目にあわせるくらいはしてもいいような気がしてしまう。溜息をつき、開いた手を握った。
 すでに魔法は組み込んである。無理に扉を開こうとすれば、強い幻覚が彼らを襲う。あるいはそれは死をも招きかねない。
 だからそこまで待てばいい。選ぶのは彼らで自分ではない。鍵のかかった扉を勝手に開けようとする方が悪いのだ。
 サイファがじっと水鏡を見ているうちに兵士は立ち去る。それが少し残念だとサイファは暗い気持ちで考える。
 そして漸くおかしい事に気づいた。なぜ兵士がこうも度々現れる。人間の時間で言えば何日か置きではあるのだが、それにしても多すぎる。そもそも魔術師に用のある人間などそれほど多くはない。
「どうでもいいか」
 呟きサイファはまた横たわって水盤に触れ、扉の映像を消し去った。物珍しいから見ていたのであって、度々では飽きるだけだ。
 なにも映さない水盤の水に指先を触れさせる。滴り落ちる水がそこで堰き止められては二つに分かれる。他の指をつけてみた。水脈が変わった。
 変化する水の流れと煌く色を見ているだけで時間が瞬く間に経っていく、そんな気がした。窓から入り込む風はもうずいぶん冷たかった。
 立ち上がって閉めるのも魔法で閉めるのも面倒でそのままにしてある。どちらにしても魔法空間である塔の内部に雨風が吹き込んでも害はない。風で何かが吹き飛ぶことはなかったし、雨でどこかが濡れることもない。
 射し込んでくる朝の光の眩さ、夕陽のぬくもり、それが水盤に映ってはサイファの目を楽しませる。ぼんやりと過ごす半エルフにとって、日々の自然の営みは、呆れるほどに速いものだった。溜息をついて窓に目をやる。風が強いようだった。
 居間の扉が開いた音がしてサイファは半身を起こす。風で動いたのかと思った。その程度の緩みはある。が、そこに見たものにサイファは目を疑う。
 逆光に人影が浮かび上がっていた。じっと佇むその影に嫌になるほど見覚えが、あった。




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