何も考えたくなかった。だからサイファは書庫に入る。目録作りの続きでもしようと思って。何もせず座っていたらおかしくなってしまいそうだった。 淡々と筆記用具を操っていた。懐かしい本がたくさんある。師についたばかりの頃、基礎を習い覚えるのに何度も読み返した本。 ふと手にとってみた。自分以外にも師の弟子たちの多くがこれを使ったのだろう、手垢がついてすれている。 何とはなしにページを繰る。誰のものだろうか、いたずら書きがあった。サイファは知らず、微笑む。きっとこれを書いた弟子は師にきつく叱られたことだろう。 溜息をつき、本を戻したサイファの目に留まったのは見覚えのない本だった。 「これは……?」 いぶかしい思いで本を取る。表紙にあるのは凝った装飾体の文字。驚いて開いた。 やはりそれは師の本だった。彼の手に成る本は数多くここにある。だが、サイファが見た覚えのない本と言うのはさほどない。 「こんなことを」 それは師の研究書だった。今は残っていない魔法を深く研究してあった。内容からすれば師の晩年の本なのだろう。 「隠してたわけでもあるまいに」 少しばかりの苦笑が漏れる。まだ研究は完成していなかった。だからこそ師はこれをサイファの手に託さなかったのだろう。 完成していたとすればきっと練習するように、と渡したはずなのだから。そう思えば胸が苦しくなる。懐かしさがたまらない。 「過保護な爺め」 そうサイファは呟き本を戻しかけた。だが思いとどまる。どうせならばこれを完成させてみるのも悪くはない。時間は有り余るほどある。暇つぶしには最高だった。 書庫から出て、サイファは本を手に移動する。外から見ればただの高い塔であるが、内部は思ったよりずっと広い。 それは内部のほとんどが魔法空間で構成されているせいだった。師の残した書籍を収めておくだけで、通常の空間であったならば塔が丸々つぶれてしまう。 「さて」 気持ちも新たにサイファは腰を下ろす。書斎に向かったはずの足は、途中からそれ別の部屋に向かっていた。 サイファは気づいてはいない。書斎を避けたのは、はじめてウルフに会ったのがその場であったからであるなどとは。 普段ほとんど使ったことのない居間に移る。ゆったりとした長椅子に腰掛けて膝の上、本を開いた。大きな本の重みが心地良い。 目の前の水盤の縁から水があふれて滴っている。だがその水は床を濡らすことなく宙で消えていた。湧き上がる水の奏でる音が静寂の中で快く耳に響く。 「すごいな」 思わず呟いた。師がこんなことを研究しているなど、知りもしなかった。サイファ自身、現在ではおそらく大陸有数の使い手であることは確信している。 だが師の研究はそれ以上だった。今では使い手自体が少ない転移魔法の研究もある。サイファとて度々利用してはいる。 師の研究していた転移魔法はそのようなものの遥か上を行っていた。サイファの技量では生きた人間を運ぶことできない。自分ひとりが転移するので精一杯だ。が、師は複数の生き物を一度に転移させる方法をほぼ編み出していたのだ。 「まったく、教えてくれればいいのに」 つい、文句を言ってしまう。共に研究したならばはかどったかもしれない。それは驕りだろうか。そうは思わなかった。 これが晩年の研究書であるならば、充分に師の手助けができたはずだ。それを思えば哀しかった。師にとって自分はまだ未熟な使い手でしかなかったのだろうか。 サイファは首を振りそれを否定する。師は、自分を甘やかしていただけだと古い記憶が言っている。どこまでも過保護で、だから完成していない研究書になど触れさせもしなかった。間違ってサイファが傷を負ったりしないように。 ページに手を触れ、溜息をつく。神殿の施療院で見た幻を思い出してしまった。きっとあれは死の縁で見た幻覚なのだろうとは思う。だが、やはり記憶の中の師はあのようなことを言ったはずだとも思う。 再び溜息をつき、サイファは視線を本に戻した。複数転移の方法論をさらに読み込む。意外なことに師は実際に試行できるよう、人造生命の研究までしている。 確かに本物の生き物、ことに生きた人間を使うわけにはいかないな、サイファは苦笑する。確実に転移できるとわかっていない魔法ならば、そうやって人造生命でも使って試すより他にない。 「ホムンクルスを作っていたとは驚いた」 研究書には、人造生命を作る魔法は確実に発動した、とある。サイファも知らないことだった。 知らないことばかりで情けなくなってくる。師の筆跡を追い、サイファは少しずつ研究を読み取っていく。 あるいはこれならば完成するかもしれない、そんな考えが閃いては口許に笑みが浮かんだ。今だからかもしれない。師が亡くなってからおよそ千年。その間に積んできた経験があるからこそ、思いついたのかもしれない。だが、師の研究を完成させることができるかもしれない、それはサイファに思いのほか強い感動を与えた。 本を手に再び移動する。今度は呪文室へと。むやみやたらに魔法の練習をするわけにはいかない。いくら荒野に出たとて、炎の魔法など他者に迷惑がかかりすぎるのだ。 だから魔術師の塔には呪文室がある。魔法によって閉鎖された空間は、そこで発動させたいかなる魔法も外に漏らすことはない。心ゆくまで練習ができるのだった。 一見、何もない空間に見えるそこでサイファは本を広げ腰を下ろしては、もう一度丹念に読み込む。 師は、いったいどんな思いでこれを研究していたのだろうか。不意にそんなことを思った。そして唇がほころんだ。自分と旅をするために違いない。 「サイファ、俺が運んでやろう」 そんな得々とした声が聞こえてくるようだった。完成していたならば、きっと驚くサイファを有無を言わさず転移させただろう。そして共に転移した、と言って目を細めて笑うに違いなかった。 笑い声が、今も聞こえる気がする。知らず天井に目を向けていた。施療院で見た幻のせいだろう。なぜか師のことばかりを考えている。 サイファは幻を振り払うよう本に目を落とし、そして急速にその目が焦点を失う。なぜ、こんな魔法を研究するのだろう。 馬鹿らしくなってしまった。師の研究を引き継ぎたい、その思いは確かにある。だがサイファには共に転移する人間など、否、半エルフでさえいない。 実用することのない魔法をこれ以上研究するのは虚しかった。それだけを胸に本を閉じる。 本当は、考えたくないだけだった。複数転移と言うことは、どうしても一人を思ってしまう。二度と会うことのないだろう相手を思い出してしまう。 王位を狙うために自分を利用した彼を許せはしない。だが嘘だと思いたい。少なくとも、旅の間に見せた顔のすべてが嘘だったとは思いたくない。 サイファは目を閉じる。使うことのない魔法以上に、虚しい思いであることは、わかっていた。 嘘でないならば、なぜ連絡をしてこなかった。待っていたのはわかっているはずだった。いかに、馬鹿な若造であろうとも。自分がどこにいるかはわかっているはずだった。 それなのにただの一度も手紙すら、届かなかった。まさか監禁されていたわけでもあるまい、それくらいできないわけがない。サイファの唇が歪む。 だからつまり、そういうことなのだと思うより他にない。彼は会いたいと思ってはいなかった。シャルマークの危険を最小限にするため、サイファの魔法が必要だった。それだけなのだろう。 「馬鹿だな」 誰に言ったのだろうか。 若造にかもしれない。あのような手段に訴えなくとも素直に言えば手を貸してやったかもしれない。 自分にかもしれない。ほだされて、心を許すなどという過ちを犯してしまった。無邪気な笑顔が瞼に浮かんで、サイファは唇を噛みしめた。 「なにか、腹に入れなくてはな」 あえて口に出し、サイファは本を手に立ち上がる。そんなことでも言わなければ心が挫けそうだった。いつから自分はこんなに弱くなってしまったのだろうか、そんな苦笑が漏れるけれど今はまだどうしようもなかった。 居間に戻ったサイファは果物を齧っている。甘味より酸味のほうが強い。決して好みではないが、今の気分にはちょうどいい。 知らず、手の中の果物に目を留めていた。どこかで見覚えがある。ずいぶん昔の記憶で、中々思い出せなかった。 「あ……」 ようやく記憶が何かに引っかかった。それは本当に古い記憶だった。まだ師と出会ったばかりの頃。髪も肩にかかるほどしかなかった、若い記憶。 「懐かしいな」 呟いて再びじっと果物を見た。師の好みであった覚えがある。齧りながら色々な話をしてくれた。 「お前も食べるか?」 「酸っぱいから嫌」 「子供だな」 「あなたより年は上だ」 「そう言う問題じゃないんだな」 仰け反って笑う師の姿を今もまざまざと思い出すことができる。そうしてひとしきり笑った後、果汁に濡れた手で嫌がらせのよう、髪をかき回すのだ。 いつの間にか顔を片手で覆っていた。蘇ってきた記憶が優しすぎて今はつらくてならない。震えていても、大丈夫だと請合ってくれた師は遥か昔にいないのだ。 「リィ……」 会いたかった。教えを受けたいことがまだたくさんあった。ありすぎて、なにを尋ねたいのかもわからないほどに。 魔法のことも人間のことも、まったく中途半端なまま放り出されてしまった。今ならば師が亡くなる間際まで心配していたその気持ちが良くわかる。 なんと愚かだったのだろうか。若い人間と侮って偽りを見抜くことすら出来なかった。師が見たら何と言うだろう。 サイファは笑った。きっと、お前は悪くないよ、そう言うに違いないのだから。果実は手から零れ落ちていた。果汁に濡れた両手で顔を覆う。強いその香りが師の記憶ばかりを呼び覚ます。 「リィ。会いたい」 そう言っていれば、嫌なことはすべて忘れられるとでも言うように。師が何もかもを解決してくれる。子供のように師の腕の中に包まれていれば自分を苦しめるものなどどこにもなくなってしまう。 師が生きてさえいれば、こんな思いをすることもなかった。きっとあの若造に会うことなどなかった。師が生きてさえいれば。まるで呪文のよう、サイファは呟き続ける。現実から逃げているだけではないか、そんな声がどこからともなく聞こえる。サイファは耳を閉ざしていた。 |