このような場所で無様をさらすことだけはできない。サイファは必死になって耐えていた。王子の声など聞こえない。兄弟が、何かを言いかけて口をつぐんだなど、見えない。
 努力の甲斐があったのか、そもそも人間は半エルフなどに興味がないのか、王も廷臣も誰一人サイファの異常には気づかなかった。王の喜びにあふれた声が続いている。
「あれを持て」
 歓びに、顔をほころばせた老王が侍従に何かを言いつけ、そしてすぐに言いつけられたものが運ばれてくる。
「カルム王太子に授ける」
 王の言葉に侍従は彼の額冠をはずし、新しい身分に相応しい小冠に取り替えた。赤毛に、金が鈍く光った。
「ところでリィ・サイファ殿」
 老王がサイファに目を向けた。このまま注目されずに立ち去りたかったものを、そう願っていたのは叶わないらしい。内心で溜息をつき、サイファもまた視線を上げる。
「なにか」
「我が宮廷魔導師の職をお受けいただけぬか」
「残念だが」
「カルムを導いて欲しいもの、と思っておるが」
「お断り申し上げる」
「……理由を伺ってよいかな」
 王子が、見つめている、その視線を感じていた。サイファには、けれど見えない。そこにいるのは、誰でもなかった。
「人間の間にいるのを好まない」
「だが王子たちと旅をしたではないか」
「彼らは私を知っている。だが」
 サイファは言葉を切り、わずかに視線をめぐらせて例の騎士を見た。
「あのような態度を度々取られて黙っていられほど、温和ではない」
 はっとしたよう、騎士が肩を震わせた。彼は彼なりに、王子のことを案じているのだろうことくらい、サイファにだとて見当はつく。だがそのことによって反って王子に不利をもたらした事を悔いているのだろう。
 今でなかったならば。この王子がいなければ。サイファも思う。これほど騎士に辛辣な口をきく気はなかったものを。
「カルムを思うゆえ、と思っていただきたい。もちろん、教育はする」
「残念だが」
 サイファは言葉を続けず黙って一礼した。この人間の王に真実を言う気など決してなかった。ただ、留まりたくないだけだった。早く塔に戻りたい。人間から逃れたい。
「そうか。残念だな」
 言葉面だけは丁重に、けれど王は度重なる要請にサイファが応えない、そのことに対する不快も露にそう言った。
「人間と共に過ごすことが苦手のようだ。退出されるがよかろう」
 ミルテシア王はラクルーサ王と相談することもなく一方的に言う。サイファはかすかに笑った。これでは共に手を携えて、など言ってはいるがいつまで持つものか、と。そしてこれこそが人間だ、とも思う。
 人間の約束など、信じない。口先ばかり、都合のいいことだけを言う。真実など彼らにはもう、求めない。
「では」
 サイファも多くは言わず、一礼して下がろうとした。
「そこまで共に、良いだろう?」
 と、アレクが微笑んで肩に手をかける。有無を言わさぬやりかたが多少不愉快ではあったが、サイファは黙ってうなずく。
「サイファ――」
「カルムはここに居れ」
 老王は王子の言葉を封じ、言いつける。よほど機嫌を損ねたらしい、サイファは内心で苦笑する。だが、いまとなってはどうでもいいことだった。
「ならば僕は王子のお相手を勤めましょう、よろしいでしょう?」
「頼むよ、サイリル」
「行ってらっしゃい、兄上」
 言われたアレクが笑ったままかすかにシリルを睨んだ。また、兄弟の掌の上にいる。旅の間もずっとそうだった気がしてならない。
 人間などどうでもいい、そう思っているにもかかわらず、サイファはこの兄弟に寄せる信頼だけは捨てられずにいる。
 それはこの状況においてさえ、彼らが自分を労わってくれている、それを肌身に感じるせいだろう。
「行こうか」
 アレクに促され、サイファはもう振り返らず退出した。王子が、どんな顔をしているのか、ついに真正面から見ることはなかった。
 不審にならない程度、足早に歩く。アレクがそうしていた。だからサイファも黙って歩く。玉座の間を離れ、衛兵からも離れた。もう誰もいない。廷臣たちはこれから催される宴のことで頭が一杯だろう。
「サイファ」
 足を止めてアレクが振り返る。強張った顔をしていた。
「連絡取れなくてすまなかった。坊主と一緒だとばっかり、思って――」
「いい」
「こんなことだと知っていたら……」
「もう、いい」
「どういう意味だ」
 言葉少ないサイファにアレクはいぶかしげな顔をした。サイファは微笑っていた。こんなときでも笑えるものだと自分を不思議に思いながら。
「もう、どうでもいい。塔に戻る」
「ウルフは……」
「死んだ」
「おい」
「私のウルフは、シャルマークで死んだ。あそこにいたのは、別人だ。そう、思うことに決めた」
「ちょっと待て」
「待たない」
「あのな、サイファ」
 アレクが掴みかかってくる。サイファはよけもしない。黙ってされるままになっているなどらしくはなかったが、抗う気力もなかった。
「あれが坊主の意思だと思うか」
「思う」
「本当に?」
「あれは……シャルマークに行くのが運命と言っていた。平定して、世継ぎとなった。つまり、そういうことだ」
 利用されたのだとは口が裂けても言いたくなかった。それでも側にいてくれるならばいい、そんなことを思いそうになる自分が許せない。
 だが決してそうはならないだろう。王太子となった彼は、王国を継ぎ、そしていつか后を娶る。それが人間の慣わしだ。
「旅に出るなど、言って欲しくは、なかったな」
 サイファは微笑った。アレクを見ているのがつらくて、視線を遠くにさまよわせる。美しいはずの三叉宮が、急に忌まわしいものに思えてきた。
「坊主が嘘ついてたって言うなら、俺もシリルもそうだろうが」
「お前たちは違う」
「一緒だ」
「違う、アレク。お前たちには国を出なければならない理由があった。そうだろう」
 痛いところをつかれた、そんな顔をする。同じだと言ってくれるアレクの優しさが突き刺さる。サイファは軽く目を閉じ、差し伸べられた手を払う気持ちで言ったのだった。
「坊主だって、アンタに会いたいから生き返った。そう思ってる」
「それも、どうかな」
「サイファ!」
「……この半年、どこにいるのかも知らなかった」
「そんな……連絡くらい」
「なかった」
「……まぁ、俺たちも同じだがな」
 まだ、そう言うのか。こんなに手酷く拒んでいる自分に。サイファは薄く笑う。
「アレク。何らかの理由でシリルと離れたとする。お前たちはどのような手段であっても連絡を取ろうとはしないだろうか」
「それを言うなよ」
「……だから、もういい。ウルフは死んだ。私は塔に戻る、それだけだ」
 アレクと口論をしたくはなかった。軽く目を閉じ、開いたときにはもう、何も見ていなかった。
「サイファ……」
 声に応えて視線を向けはした。けれどアレクも感じただろう。サイファがどんな言葉も聞く気がないことを。
「たまに、遊びに行ってもいいだろう?」
 だからせめて、そんな言葉をかけるしかないのかもしれない。アレクが手を握っている。懐かしい手とは違う感触にサイファは体を震わせた。
「すまないが、しばらくは……」
「そうか。気が向いたら連絡くれ。いつでもいい」
 言ってアレクはそっと肩を叩いた。気遣いにあふれたやり方に、早くその場を逃げ出したかった。サイファは仄かに口許を緩めるにとどめ、うなずいて呪文を紡ぎ始める。
「お前に会えてよかったと、思っている。元気で」
 転移の瞬間、サイファはそれだけを言い笑って手を振った。
「待て、サイファ!」
 アレクの伸ばした手は空を掴み、サイファはすでにかき消えていた。だから、その言葉はサイファには、届かなかった。彼の声も表情さえも。
 アレクがその後、どれほどの罵りを上げたかなどサイファは知らず、塔にいた。ぼんやりと、窓を開けようとして手を止めた。
 代わりに魔法の明りを灯す。飛びまわる実体のない明りの方が今の気分には相応しい、皮肉に唇を歪めてサイファは歩いた。
 乱暴に、足音を立てて歩く。そうでもしなければ立ち止まったまま百年でも過ぎてしまいそうだった。礼装のローブを脱ぎ落とし、いつもどおりの物に取り替える。
 それだけで少し気持ちが安らいだ。それからサイファは銀の耳飾りに触れた。思い出しそうなものは何も手元に残しておきたくなかった。
 そっと外す。掌に乗せしばし見つめた。忌々しかった。あの時のあの表情さえも偽りだったのか、と思う。
 嘘をついている、確かにそう言っていた。けれどこれほど酷い裏切りだとは思いもしなかったものを。身分を偽るだけではなかった。それくらい、許してしまえる。
 だが彼は。王位欲しさにすべてを偽った。世継ぎ、と告げられたときの彼の顔を見なくてよかったと、心から思う。どんな顔をしていたかは知らないが、確実に殺していただろうから。
 サイファは唇を噛み、装飾品をしまった引き出しに区別もせず投げ込んだ。他のどうでも良いものと同じように。
 それから髪を結んだ革紐も解く。じっと見た。何の役にも立たないもの。捨ててしまおう、そう思った。投げ捨てようとした手は誰かかが止めでもしたように動かない。
 手の中、革紐を握りこむ。嫌な物でも見るように、けれどサイファはそれを手首に結んだ。ローブの袖に隠れて自分にも見えないよう心がけながら。
 笑ってしまった。馬鹿らしさに。己の顔を覆う。何も見ずに済むように。
 そしてサイファは塔を封印した。サイファ自身の意思に反して誰一人扉を開くことができないように、と。サイファには、どのような人間も入れる気はなかった。




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