ハイドリンの三叉宮。かつての至高王の居城だった。ミルテシア、ラクルーサ、そしてシャルマーク。その三国が国境を接する場所にあり、各国に小宮殿があった。小宮殿から宙を渡って伸びる回廊の中心点、そこにあるのが花開く三叉宮。
 すでに小宮殿は毀たれて現存してはいない。三叉宮だけが、ハイドリンに寂しく建っていた。それでも三叉宮は美しかった。
 透き通る、人間にも半エルフにも建材のわからないもので作り上げられた宮殿は、光を透して青く輝く。朝日には白いまでに煌き、夕陽には仄かな赤みを差して柔らかく燃える。
 それはまるで巨大な木蘭の花。巡る季節に花開くのではないかと思えるほど精巧でこれが何者かの手によって作り上げられたものであるなど、信じがたいほどだった。
 その三叉宮の前にサイファは立っていた。大きな花を見上げる。口許には笑みがあった。まだ若かりし頃、神人たちの宮殿に入ってみたくてこうして覗いたものだった。
 衛兵の前、通り過ぎる。事前に通達してあったものと見えて、深くフードを引き下ろした姿のサイファを止めるものはいなかった。
 三叉宮の中は青かった。目が慣れるまでは物も見えないのでは、と思うほど光にあふれている。神人の宮殿である証のよう、床は青いタイルが敷き詰められていた。
 濃淡を様々につけた青いタイルが何かの文様を描いている。神人には、意味のある意匠だったのだろう。サイファにもそれがなにを表しているのか、わからなかった。
 ゆっくりと足を進めていく。こんな機会でもなければ入ることはなかっただろうが、かといってのんびり見物もしていられない。
 大きな扉の前にまた衛兵がいた。硝子に似た扉だった。透き通っているのに、向こうは見えない。不思議な扉はサイファの前、大きく開かれる。衛兵が恭しく頭を下げた。
 サイファは進んだ。そこは至高王の玉座の間だった。正面に黄金の玉座が安置されてある。千年間、誰一人として座るもののなかった椅子だった。
 至高王の玉座の両脇に、二つ新たに玉座が設えてあった。老人と、若い男と、二人の人間がそこに座していた。室内は人間で一杯だった。老いも若きもが詰め掛けて目を輝かせている。
 と、驚いたことに二人が立ち上がる。人間の王にそのような習慣はないはずだった。たかが一介の半エルフを迎えるのに玉座から立ち上がるとは。このまま帰りたくなる気持ちを抑え、サイファは玉座の前まで進み足を止める。
「無礼であろう!」
 その時だった。横手から突然、男の手が伸びてきてはサイファのフードを剥ぎ取る。ざわめきが起こった。流れる黒髪に、半エルフの横顔に、人間たちが声を上げている。
「控えろ、ガストン卿」
 サイファが反応するより先に、男が飛び出し手を上げる。フードを剥ぎ取ったのはあの騎士だったか、サイファは驚き、そして遮った者を見た。
「ですが、このような格好は無礼でありましょう」
 跪いた騎士が、男を見上げていた。サイファの目が見開かれた。震える唇を隠すよう、サイファはマントの留め紐に手をかける。
 サイファも三叉宮に足を踏み入れるのに、非礼を働く気はなかった。だが人間の反応が気にかかった。彼らが敵対しない、とわかるまで顔を隠しておくつもりでいたのだ。だが今となっては。
 滑るよう、マントが落ちた。夜のように青いローブを着ていた。彼の種族に相応しいローブを身につけている。縫い取られた銀の文様は、人間の目にはなんの意味もない。半エルフには、神人には意味のある礼装としての模様だった。
 だが、意味などわからなくともどよめきは上がる。人間の手では決して再現できない華麗さに。それは文様ひとつのことではなかった。同じローブを人間が身につけたとしても、このような嘆声が漏らされはしないだろう。
「無礼はお前だ」
 若い男の声がする。サイファは閉じそうになる目を必死に保った。
「そなたも控えるがよい、カルム王子」
 どこか楽しげな声がした。見ればそれは玉座に座った老人の声。
「は」
 従順に彼は一礼し、そしてサイファに目を向けた。絹の軽い衣装を身にまとっている。施された刺繍も半エルフのそれには劣るが王子と呼ばれる者に相応しいものだった。そして燃える赤毛の間から、身分を表す額冠が覗く。
「サイファ」
 聞き慣れた声。耳を塞ぎたかった。なぜここにいる、そのような格好をしてここにいる、問い詰めたい思いだけがサイファを圧倒していた。
「久しぶりだな、元気そうでよかった」
 不意に後ろから肩に手を置かれた。振り返ったところに立つのは金髪の男。やはり額冠をし、長い髪は綺麗に編み込まれ、肩から胸にとまわしてある。そのマントを留めるピンに紋章。ラクルーサ王家の物だった。
「会いに行かれなくて申し訳ありませんでした」
 そしてもう一人、微笑んで立っているのは神官の正装をした若い男。同じよう、ラクルーサの紋章を身につけていた。
「……王家の守護者か。納得が行く」
 絶句していたサイファが発した言葉に神官服の男が困ったような表情を浮かべ、何でもご存知ですね、そう呟いた。
「三王子本人たちが自分を探してシャルマーク行きとは、とんだ茶番だな」
 唇を歪め、サイファは金髪の男にそう言った。皮肉に他ならない。なぜ彼らがここにいるのか、理解できた今では裏切られたような気さえしているのだ。
「まぁ、そう言いなさんな」
 にやり笑ったアレクが小声でサイファだけに聞こえるよう、囁く。反駁したい気はあったが、こんな所で騒ぎを起こす気は毛頭ない。友人たちの和やかな再会、とでも思っているのだろう両国王が目を細めて見ているのにサイファは視線を合わせた。
「リィ・サイファ殿。まず礼を言う。長く行方不明であったカルム王子を救出してくれたとのこと。親として礼を言う。末の子は可愛いとはよく言うが、余にとっても例外ではないらしい。カルムは我が子の中でもっとも愛しき者」
 視線がサイファからそれ、ミルテシア王はカルムと呼んだ我が子に目を移す。
「私からも礼を言う。サイリルは我が王家の守護者。あなたによって救われなければ私の首も危うい所であった」
 若いラクルーサ王はそう言ってかすかに笑う。そして言葉を続けた。
「もっとも、そのようなことがなくともサイリルは大切な弟。無論、アレクサンダーもだが。あなたの手を借りることができなければ、大切な弟を二人同時に失うところであった。礼を言う」
 どこか屈託のある言い様に、サイファは眉を顰めたくなる。まるでサイリルと呼んだシリルだけが大切で、アレクなどどうでもいいと言いたげな。
 二人の王に見えないよう、サイファの手にアレクが触れた。いつものことだから気にするな、とそんな目をして困っていた。仄かに微笑み返す。これでは王宮を逃げ出したくなるのも無理はない、と。
 アレクが出て行けば、当然シリルも従う。王家の守護者としてのそれよりアレクの定めし者としての義務と権利の方が遥かに優先したのだろう。
 シリルが王家の守護者であるならば、何もかもが納得できる。若くして司祭になろうかと言うことも、武闘神官として認められたことも。ラクルーサ王家には、何世代かに一人、生まれながらにして神のお召しを受けたものが生まれるという。言葉を発するが早いか神聖魔法を使いこなし、長じるに従って王家を守るのだと。
「では、はじめようか」
 ミルテシアの老王が玉座を立つ。次いでラクルーサの王も。
「カルム、剣をこれに」
「弟たちよ、王冠を」
 二人の王の言葉に三王子が至高王の玉座の許、彼の剣と王冠を捧げ持つ。
「シャルマークの災いを滅ぼした者らの手によって成されるのが相応しい」
「リィ・サイファ殿。彼らがここに安置した剣と王冠を封印していただきたい」
「何人の手にも渡らぬよう」
「そして我ら両国の友好の証として」
「シャルマークの災いのなくなった今こそ、我ら人間はやり直さねばならない」
「我らの手によって、秩序を確立せねばならない」
「大陸の、平和を」
「いかがか」
 両国王の言葉にサイファは黙ってうなずいた。どこか馬鹿馬鹿しさが付きまとう。このような儀式をしたとて、人間はすぐに争うに決まっている。そして人間だけが友好を証し立てたとて何になる。
 シャルマークの大穴を塞いだ者の手によって。王はそう言った。では自分はどうなのだ。人間の手によって成し遂げられる秩序とやらに半エルフの居場所があるのだろうか。サイファは皮肉な思いで彼らの言葉を聞いていたのだった。
 サイファのうなずきに、三王子が玉座に進み、剣を置きそしてその上に王冠を安置する。サイファもまた進み出て封印のため、詠唱を始めた。おそらくここにいる人間の誰にも理解のできない長い言葉。
 ふっと玉座が輝いたかに見えた。それに目を奪われた人々は次の瞬間、玉座を包み込む金剛石を見ては感嘆の声を上げる。透き通るそれの中、至高王の玉座に剣と王冠は封印された。
「――何人も、触れることあたわじ。至高王アザゼル・グレゴリ還りますその日まで」
 呪文の最後を人間たちに通じるよう、普通の言葉に直しサイファは繰り返す。それに応えて玉座が再び輝いた。
「リィ・サイファ殿に感謝を」
 代わる代わる両国王が礼を言うのに、サイファは上の空で答えていた。早く、塔に帰りたかった。人間に囲まれて居心地が悪い。それだけではなく、何か嫌な予感めいたものがあるそのせいでもあった。
「さて、宴の前にもうひとつ。よろしいかな、サジアス王」
「もちろん構いませんとも」
「ではすぐに済ませてしまおう」
 言ってミルテシアの王は我が子に向き直った。咄嗟に、何か言い訳を見つけて退出しようとした。が、遅かった。王は口を開いてしまった。サイファはかすかにうつむき唇を噛む。
「カルム王子に申し渡すことがある。どうかサジアス王も証人となってくださるよう」
 ラクルーサ王のほうに首をかしげ、ミルテシアの王はそう言って返答を求める。応えて若い王はうなずいた。
「かねてからの約定、ミルテシアの平和に貢献した者をこそ我が世継ぎとする、その約定に従い余はカルム王子を世継ぎとする。王子はミルテシアのみならず、シャルマークの災いを滅ぼすことによってアルハイド大陸の平和に寄与した者である。これ以上、新しい世に相応しい者がおろうか」
「父上……!」
 やはり嫌な予感は当たるものだろうか。サイファは目の前が暗くなるのを覚えた。自分の足で立っていることが、信じられなかった。




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