夏の熱気が塔にこもっていた。習慣として、そんな言い訳をしながらサイファは窓を開ける。なるべく外を見ないようにしながら。
 窓を開けてもほの暗い塔の一室でサイファは本を広げた。師の残した書籍のうちの一冊だった。至るところに師の手になる書き込みがある。
 懐かしい字だった。かすかに微笑み、そして顔が強張る。もう一人の人間を、思い出してしまった。
 あれから半年。ウルフはこない。それとなく神殿に連絡を入れてみた。順調に回復し、やはり一月で動けるようになったあと神殿を出たと、ジーニアス神官長は知らせてくれた。
 ならば、ウルフはもう自分の故郷に帰った、と言うことなのか。探しにくる気はない、会う気はないということなのか。
 考えても仕方のないことばかりが浮かんでは消える。溜息をついてサイファは本に目を落とした。
 知らず、手が耳飾に触れていた。ウルフから贈られた、旅の途中で手に入れたあの耳飾り。シャルマークへの旅の間、身につけていた他の装身具はすべて外してしまった。
 元々サイファには体を飾る趣味はないのだ。装身具、とは言え魔法をこめた工芸品として身につけていただけ。自衛のための武器に等しい。
 だから、旅が終わったあとは外してしまった。この耳飾りを除いては。まるでアレクの癖のよう、気づけばいつも触れている。
「馬鹿は、私かな」
 自嘲を漏らす。いつまでも待ってもしかたのない男を待っている。あの、ウルフが結んだ革紐さえ、外さずに。
 そっと手を触れた。革紐の、硬い手触り。それにウルフの荒れた戦士の手を思い出す。手を握り込んだ。もう、忘れてしまいたかった。
 きっと何かの事情があるのだ、そう思おうとした。サイファの中の誰かが問う。どんな事情だ、と。あの男ならば、なにをおいても自分に会いにくるはずだ、そうも言う。
 サイファは首を振り、目を閉じた。何度も自問し、自答した問いと答え。いずれにしても確かなことは、ウルフがここにいない、それだけだった。
 アレクとの約束も、気になってはいる。以前、言っていたラクルーサの乙女の祈り亭とやらにでも行けば、兄弟の消息もわかるだろう。
 アレクはそういうところは気が回る。どこで会う、と言っていなかった以上、サイファが探せる場所は限られている。ならばきっと口にしたことのあるたった一つの場所に連絡を残しているはずだった。
 だがサイファはこの半年、自分の塔を動いていなかった。ウルフを待っていたのははじめの三月ほど。それからは動くだけの気力が湧かなかった、と言うのが正しい。
 兄弟に、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。あの王宮から、無事に脱出しているのは確信している。もうとっくに二人の怪我は治っているだろう。
 あるいは、自分を探しにこの塔までくるかもしれない。そう思いはしたが、兄弟もここには訪れはしなかった。
 一人に戻っただけだ。彼らと会う前はずっとこうしていた。以前の生活に戻っただけだ。本を開き、空を見上げ、星を読む。魔術師としての当たり前の生活。
 時折、風が窓を鳴らした。ぎょっとするほど大きな音にサイファは苦笑する。以前は気づかなかったことのひとつだった。
 一人でいると、物音が耳につく。前ならばこんなことはなかったものを、そう後悔に似た思いがよぎることもあった。
 こんな思いを抱えるくらいならば、サール神殿に行けばいい。神官長に聞けば、ウルフがどこの誰だか、教えてくれるだろう。そうすれば捜すこともできる。
 けれどそれもできない。捜す気がないのではない。ジーニアス神官長の性格を考えれば、不可能なことはわかるのだ。彼はウルフ本人がサイファに明かさなかったことを、あえて横から知らせるような人間ではない。
 ある意味では、信頼できると言える。だが今はもどかしかった。ウルフを捜す手立てがない。まず兄弟を捜そうか、動きかけ、腰を下ろす。
 そうして溜息ばかりをついて時間が流れていく。このままずっとこうなのかもしれない。ウルフが確実に死んだとわかるまで、一世紀ほどここに座っているのかもしれない。その後は。
「旅にでも、出るか」
 口にした途端、胸が痛む。ウルフと約束していた。一緒にどこかに行こう、と。最初は師の墓参り、そう彼は笑っていた。
 一人でどこかに行かれるのだろうか。半エルフが行くという最後に旅にすら、不安がある。朽ち果てるまで、座っているのも悪くはないか、自嘲してサイファは本を閉じた。
 ゆっくりと立ち上がり、本を戻した。師の手になる本もずいぶんある。いずれ整理しなければと思いながら出来なかったことをするにはちょうどいいのかもしれない。
 しばらくの後、筆記用具を手にしたサイファの姿が書架の前にあった。自分しか見ないのだから、目録など作っても意味はない。どの本がどこにあるかはよくわかっている。闇の中でも見つけられるほどに。
 けれど気を紛らわせるという意味ならば、こんなに適した作業はない。黙々と書き込みを続けていく。少なくとも、何かをするだけの気力が湧いてきた、そのことをサイファは喜んだ。
 当然のことだが、それを知っていたわけではなかろう。だが得てして変化と言うものはそういう時にこそ起こるもの。
 書架の前、はっとしてサイファは顔を上げた。塔の前に何者かが立っている。扉を叩く音。サイファは意識を凝らす。
 すぐに悟った。落胆が顔に出ないよう、心してサイファは階段を下りていく。師の書籍のある部屋で来客と会う気はない。塔の下部の部屋、招き入れて置いてサイファもそこへと進んで行った。
 扉を開ければ見知らぬ人間が立っている。それは予期していたこと。問題はこの人間が何をしにきたのか、それだった。
「何者か」
 サイファは来客に向かって問うた。顔の前には深くフードを下ろしている。人間だと悟ったときから、そうしていた。神殿であった騎士とのような悶着は願い下げだった。
 サイファが入ってきたのに気づかなかったのだろう、人間は驚いたよう振り返る。恐怖と言うよりは純粋に驚きの表情だった。
 そして畏まって一礼する。どうやら騎士の同類ではないらしい。それを知ってサイファは息をついた。
「魔術師リィ・サイファ殿とお見受けします」
 本人の塔に来ておいて見受けるも何もないものだが、これが人間の礼節と言うものだと知っているサイファは黙ってうなずく。それに意を強くしたのか人間は胸をそらして言葉を続けた。
「私は王の使者として参りました」
 それにサイファがなんらかの感銘を示すのを待っているのだろう。だが、そこまで付き合う気のないサイファは手で先を促すだけだった。
「王の使者、と申しましても実に異例なことにミルテシア国ヴェルーラ国王陛下ならびにラクルーサ国サジアス国王陛下、両国王の使者なのです」
 だからなんだ、とサイファは思う。人間の王国など、半エルフの身にはなんの係わり合いもない。いささか、飽きてきた。早くこの芝居かがった人間を追い出して書庫に戻りたかった。
 使者はサイファの反応がないのに落胆を隠さず、それでも精一杯に胸を張って用向きを伝えた。
「リィ・サイファ殿に置かれましては、ぜひ両陛下のご招待に応じてくださいますように。両陛下はシャルマークが平定されましたことを殊の外お喜びでございます。この機会に両国の親交を深め、手を携えて大陸の平和を築き上げていこうとのご意向でございます」
 暗誦でもしてきたのだろうか、長い口上をつかえもせずに言った使者にサイファはかすかに微笑む。もっともフードの影の顔は見えなかったはずではあるが。
「つきましては、両陛下の主催なさる式典にご出席賜れば幸甚にございます」
 言って使者は頭を下げた。なぜ、自分を招きたいなどと言うのか、人間の意図がわからなかった。シャルマークが治まったことが自分と仲間の手柄であるなどと喧伝した覚えはない。
 だが、とサイファは思い直す。あるいはその場に行けば兄弟に会えるかもしれない。あえてウルフに、とは思わなかった。
「承知した」
 短い言葉を発すれば、半エルフの声に驚いたのだろう人間が顔を上げる。だがその顔に恐れはない。半エルフの声にではなく、サイファが言葉を発したこと自体に驚いたのだろう。
 充分に躾けられている使者を見て、サイファは行く気になっていた。この人間を使う者がいる場ならば、あからさまな非礼が行われることはあるまい、と。
「ありがとう存じます」
 笑みを浮かべて一礼した使者が困惑の表情を浮かべた。よほど困ったことを言いつけられているのだろう。それと悟ったサイファは気持ちを楽に、とでも言うよう軽く片手を広げて続きを促した。
「式典の日程なのですが……まことに申し訳ないことに、明後日なのです。リィ・サイファ殿のお住まいに中々辿り着くことができなかった私の不手際にございます」
 使者が迷った道が手に取るようにサイファにはわかる。およその場所を聞いて旅に出たのだろう。近くに来たならば正確な場所を聞けばよい、と。だが塔の近くに来れば来るほど、人々はそれを口にするのを嫌がる。使者が迷ったのも無理はなかった。
「場所は」
「は……場所は、ハイドリンの三叉宮、とのことにございます」
「三叉宮……」
「はい、そこにて両陛下ならびに各位がお待ち申し上げております」
 使者の言葉のうち、もっとも驚かされたのがそれだった。よもや三叉宮で待つなどと、思いもしなかった。サイファだとて足を踏み入れたことのない、かつての至高王の宮殿。興味が湧いてきた。
「おいでいただけるのでしたら、失礼ながら乗馬をご用意申し上げております」
 あるいは、相応しいのかもしれない。使者の用向きを考えれば、至高王の玉座の前にて平和を誓うというのは。人間の性癖を考えればよく持って二世代、と言うところではあろうが。
「必要ない」
 見てみたくなった。三叉宮然り、このような壮挙を考え付いた人間の王たち然り。
「は、しかし」
「使者殿は、真っ直ぐ戻られるがよい。時間は、いつか」
「は、正午ごろ、と。ですが……」
「ならばそのころ、私は三叉宮にいるだろう」
 それだけ言ってサイファは後を続けなかった。あの野生馬に乗って行くという手もあったが、サイファは転移魔法を使うことを選んだのだ。
 至高王の宮殿を訪れるには、そのほうが相応しい、と。サイファの口許には半年振りに笑みが浮かんでいた。




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