神官長はまだ顔をめぐらせ何かを探している。サイファはわずかにうつむき彼から目をそらした。そっと肩の怪我を押さえる。まだ血が滲み出ている。 「あぁ、いた。こちらへ」 ほっとしたよう、ジーニアス神官長が言ってサイファに目を移し、そして傷に驚いたか目を見開いた。 「いかん、酷いものですな」 そう顔を顰め口の中で何事か呟く。と、サイファの肩が温かくなる。気づいたときには完治していた。 「ジーノ」 「これでも司教ですからな、この程度は」 照れた顔をして彼は言い、そして見つけ出した者を改めて呼んだ。 「かの青年のことは、彼が」 そう言って引き合わせたのはまだ若い神官だった。緊張を隠せず、強張ったまま神官は一礼し、そして頬を紅潮させてサイファに相対する。 「蘇生の儀式は、成功いたしました」 一瞬、サイファには彼がなにを言っているのかわからなかった。信じられなかった。 「私がこの神殿に来て六十年余、初めての成功例ですな」 神官長がそう晴れやかに笑う。 蘇生魔術が成功するなど、サイファだとてほとんど例を知らない。それほど儀式が難しい、と言うより地上の生き物が生死を操るのは不可能に近いと言ったほうが正しい。 だから覚悟をしていた。負けるとわかっている賭けにサイファは賭けその時を待っていただけだった。呆然としてしまうのもだから致し方なかった。賭けに勝った、その思いがじわり染み通る。 「私は見ました。あの青年の側に銀の髪のサール神が立たれるのを。サール神はそっと青年の額にお触れになって、そして儀式は成功しました」 若い神官が興奮もあらわに言うのを、サイファは黙って聞いている。なにも言葉が浮かばなかった。ウルフが生きている。それだけでよかった。 少し離れたところから、大きな物音がした。振り返ればあの騎士が廊下に崩れ落ちている。うずくまり、顔を覆っていた。 泣いているのだろうか、安堵に。そう思えばあのような無礼も気にならなかった。ウルフの無事を喜んでいる人間がいる。それはどこか心温まる思いだった。 「そうか、よかった」 ようやくサイファはそれだけの言葉を絞り出す。若い神官は飛び上がるようにサイファの言葉を受け取った。 「神の一族に連なるあなたが心にかけるお方に、サール神が恩寵を賜ったに違いありません」 サイファはかすかに嗤った。真面目な神官には微笑んだようにしか見えなかっただろう。 人間はいつもこうだ、サイファは思う。あの騎士のように半エルフを憎むか、この神官のよう崇め奉るか。どちらにしても不愉快だった。いずれにしても同じ地上の生き物に違いはないものを。 だが、神官の言う言葉もあながち間違いではないのだ。神人は幼き神とも呼ばれた神の一族。その子であるならば半エルフもまた、神の一族と言うことになる。サイファ自身にとってはどうでも良いことではあるが。 「賛辞が過ぎるな」 それだけ言ってサイファは目をそらした。まだ若い神官は強い憧れの目でサイファを見ている。ジーニアス神官長がたしなめるよう、彼の肩に手を置いた。 そうだ彼がいる。そう思う。このジーニアスは子供の頃も今も変わらずサイファをただのサイファとして扱う。そういう人間もいる。だからサイファは人間を嫌いになりきれない。 そしてウルフもまた。何よりも、師が。サイファは恵まれているのかもしれない。数人とは言え、半エルフを特別視しない人間を知る機会を得たのだから。 視界の端に騎士が映った。神官の方をぎょっとした目で見ている。神の一族などと言う言葉は彼にとっては刺激が過ぎただろう。かすかに同情する。自分が心底嫌う種族を賛美する人間の言葉を聞くなどと言うのはどんな気持ちなのだろうかとも思う。 そう思っているうちに騎士は立ち上がり、側の神官に何事かを尋ねる。そして足早に立ち去った。おそらくウルフの元へと行ったのだろう。 「リィ・サイファ?」 若い神官が一礼して下がるのに上の空でうなずいていたサイファに神官長が言葉をかける。 「あぁ、すまない」 「どうしますか」 「どう、とは?」 「彼の部屋にご案内しましょうかな、と聞いているのですよ」 そう神官長が笑った。あからさまに話を聞いていなかったことをそのような形で咎める彼にサイファは苦笑を見せ、それから首を振る。 「後にしましょうかな」 わかったような顔をして彼はうなずく、けれどサイファはそれを遮った。 「塔に、戻る」 「……おや?」 「あの騎士を、刺激したくないからな」 「お気になさることはあるまい」 「そうもいかんよ」 苦く笑った。ウルフの身を案じる人間ならば、ウルフにとっても大事な者なのだろう。その人間と還ってきたばかりのウルフの前で口論をしたくはない。 「もう意識は?」 「いや、まだですな」 「どれほど」 「そうですなぁ。意識が戻るまでに十日ほど。動けるようになるのは一月ほどでしょうかな」 「そうか」 改めて死んでいたのだな、そう思う。あの馬鹿みたいに丈夫なウルフがそれほどかかるとは、意外にも思う。 「顔を見ていかれませんか」 神官長の言葉に一瞬、従おうかと思った。だが、サイファは首を振った。 「ガストン卿なら追い出しておきますよ」 「よせ」 「お気になさることはなかろうに」 「あれを案じる人間ならば、できれば敵対したくはない」 「ガストン卿はそうは思っていませんよ」 「それでも、だ」 そうサイファは微笑んだ。今になって喜びがあふれてくる。ウルフが生き返った。もう死んではいない。そう思うだけであの騎士の無礼が今は許せる。殴られたことも気にならなかった。 「まぁ、あなたがいいならばそれでいいでしょう」 子供の頃のまま、きかん気な顔をして神官長はそう言葉を結ぶ。それをなだめるようサイファは老神官長の肩に手を置いた。細い萎れた肩だった。 「あれは私の塔の場所を知っている」 どこに、いるのだろうか。心を探ればウルフの居場所が判る気がした。 「いずれ、会いに来るだろう」 会いたかった。本当ならば騎士などどうでもいい、そう彼のところへ行くべきなのだろうとは思う。 だがサイファはためらった。あの騎士がウルフにとって大切な者ならば、そうわずかでも思ってしまったら動けなくなった。 「それまで、頼む」 神官長に頭を下げながらサイファは思う。理性など、どこかへ置いてきてしまえばよかった、と。そうすれば今すぐ会いに行かれたのに、と。わずかに唇を噛む。もう、そうするには遅すぎた。 送りに出た神官長に礼を言い、サイファは神殿の外に出る。冷たい空気が肌を刺す。遥か昔は好んでいたくせ、いまは見るのもつらい白いローブが風にはためいた。 と、嘶きが聞こえた。驚くサイファの前に一頭の馬が駆けてくる。 「お前……」 積もった雪を蹴りたてて駆け寄ってきたのはあの若い野生馬だった。 「その野生馬を厩にいれることはできなかったのですよ」 後ろで神官長が笑っている。振り返ったサイファに彼は世話をしようとしたけれど受け付けなかったことや、サイファを案じて神殿の側にずっと立っていたことなどを語って聞かせる。 話が進むうちにサイファの目が少しずつ開かれていった。冷たい鬣を撫でれば溶けた雪が馬の首筋に滴る。 「まだ、乗せてくれるのか?」 そっと語りかければ高らかに嘶きを上げる。サイファは笑い、そして軽くその背に飛び乗った。その動きの確かさに、馬がまた喜ぶよう、嘶く。神官長がそれを見ては笑う。 空気は冷たかったが、サイファの心は温かい。ウルフの儀式は成功した。野生馬は自分を待っていてくれた。神官長は、ずっと以前に別れた人間の子供だった。意外な出来事が続く。それも人間に関わってしまった、そのせいに違いない。 塔にこもる変化のない時間もよいものだが、こうして急激に流れていく時間を実感するのもまた悪くはない、そう思っていた。 神官長に手を上げ、サイファは馬を駆る。遠く、姿が見えなくなるまで彼は手を振っていた。サイファも、また。 雪を蹴立てて馬に乗るのは心地良かった。野生馬は気ままに走っている。簡単な指示だけを出すサイファに従っているようでも、自身の楽しみのようでもある走り方だった。 見えてきた、塔が。ずいぶん長く留守をしていた、そんな気がする。懐かしい、とは違うなにかしらの感慨があった。 馬の背を降り、ねぎらってやれば嬉しげに嘶く。どうしようか、と逡巡している間に馬は駈け去ってしまった。 「まったく気が早い」 苦笑するサイファだったが、あの野生馬は呼べばまたきてくれる、と確信していた。サイファのほうに用がなくとも、暇であれば遊びに来るだろう。そう思えば一人、友ができた気分だ。 かすかな微笑を口許に、サイファは塔の封印を解く。軋みを上げて扉が開いた。 そこには変わらない時間がある。出て行った時と少しも変わらないサイファにとっての安寧があった。 ゆっくりと階段を上がる。はじめてウルフが上がってきた部屋の中に立つ。少し、埃が積もっていた。あるいはあの時もそうだったかもしれない。 そっと窓を開けた。ウルフが、歩いてくるのを見ていた窓。あの時はこのようなことになるとは微塵も思っていなかった。 目を閉じれば様々なことがよぎる。長い旅だったとも短かったとも。後はウルフの回復を、そしてまたこの窓の下に立つの待つだけ。 その日から窓の側に立つのがサイファの日常になった。神官長は一月、と言った。だがあのウルフのことだ、もっと早いかもしれない。気ばかりが逸って窓を見つめ続けた。 そして一月が経ち、二月が経つ。半年余の後、サイファはもう、窓を見なかった。 |