扉を開けるのに一瞬ためらった。決心したものの、やはり恐ろしい。サイファは大きく呼吸し、一息に扉を開けた。 神殿の施療院なのだから当然なのかもしれない。廊下は塵ひとつなく白かった。どちらに向かえばいいのか見当がつかない。方向感覚を失いそうな白さだ、そう思ったが実際はただ体がふらついているだけだった。 サイファは苦笑し、とにかく誰かに行きあわないものかと歩き出す。程なく話し声が聞こえ、これで尋ねられるとほっとする。 神官と、この場にそぐわない武装をした男が会話をしていた。神官のほうが責められているよう、サイファには見える。 いささかばつが悪く立ち止まろうとしたとき、武装した男、おそらくは騎士がこちらを向いた。 「貴様か――!」 サイファは怒声に唇を噛む。着替えさせられたせいでフードがない。半エルフの顔を見られたのは迂闊だった。 騎士が突進してくる。サイファはよけようと後ずさりしながら異変を感じていた。半エルフを嫌う者は多い、中には憎む者もいる。だが騎士の動向はあからさまに半エルフ、などと言う漠然とした対象への憎しみではないようだ。 「化け物め、貴様があの方を!」 まだ完治していない体では避けきれなかった。騎士に殴りつけられたサイファは壁に激突し、塞がりかけていた肩の傷がまた破れた。白いローブにじわり、血が滲んだ。 「おやめください、騎士殿!」 肩を押さえるサイファにまだ向かってこようとしている騎士を必死で神官が止めていた。だが、聞く耳持たず、騎士はサイファを殴る。 「この化け物が、これさえいなければ」 そう口走る騎士は何物かに取り付かれたよう、サイファに向かう。神官が悲鳴を上げていた。サイファにできることなどなにもない。魔法を編み上げるだけの時間を騎士は与えてくれそうになかった。 「控えなさい、騎士殿」 廊下の向こうから、声が聞こえた。老人の声ではあったが、凛と張りがある。 「神官長様」 はっと騎士が腕をとめた。その間にサイファは追い詰められた壁際から抜け出し、息を整える。 「この化け物のせいで……」 「控えなさい、と言ったのが聞こえなかったか」 「ですが」 「よい」 手の一振りで老人は騎士を抑え、不快も露にサイファに向かってきた。そして驚いたことにサイファの手を取ったのだった。 「覚えておいでですかな」 背の曲がった老人がサイファを見上げて微笑んでいた。覚えなどない、言いかけたがどこかで会ったような気もする。首をかしげたサイファに神官長と呼ばれた老人はいたずらめいた表情を浮かべて見せる。 「ジーニアスですよ」 その名に一瞬にして時が戻った。確かに記憶にある名だった。サイファは微笑む。完全に思い出した。 「ジーノか? あの小さなジーノが神官長だったとはな」 「時が経つのは早いもの」 「まったくだ」 かつて捨て子の面倒をみてしまったことがあった。目にとまってしまったものを見捨てることもできず、ほんのしばらくの間ではあったが手許に置いた。その後、学問好きなことを知ってサール神殿に預けたが、まさかそのまま留まって神官長になっているとは思っても見なかった。 「もう六十年も前になりますかな」 言って神官長は笑い、背後に従えてきた神官たちに向かってサイファのことを話し始めた。 「この方は私の命の恩人でな。リィ・サイファと仰る、偉大な魔術師だ」 なるほどとうなずく神官たちに混ざり、騎士が顔を青ざめさせた。 「神官長様、あなたのような方がなぜ、化け物に」 そう呻いた騎士にジーニアス神官長は冷たい目を向け言い放つ。 「あなたの指導騎士はどなただったか」 「は……?」 「騎士叙任には、礼儀作法や歴史の教養も必須のはず。あなたにはそのどちらもが欠けているとしか思えない、ガストン卿」 「どういう、意味でしょうか」 「そのままの意味に他ならない。私の客人を侮辱なさるか。あなたは歴史を学びはしなかったのか」 「学びました。ですが、偽りとしか思えません。このような化け物――」 「ガストン卿」 神官長は騎士の言葉を遮り、断固として宣言する。 「今後再び化け物、と口にして御覧なさい。あなたをこの神殿に招き入れることはない、と思っていただいてけっこう」 「神官長様……」 「リィ・サイファは私の客だ。彼がどのような種族であれ、旧知の友人であることに違いはない。我が友を侮辱なさるか?」 騎士は答えず。神官長の口調の激しさに過ちを認めたのでは決してない。ただ議論することの無駄を悟ったに過ぎない。 サイファは冷たく騎士を見ていた。これがごく当たり前の人間の反応。やはり人間の住む場所では暮らしにくい、そう考えざるを得ない。思えばシャルマークでは幸福だった。気のあった仲間に囲まれて軽口を叩きながら旅をするなど、あのように巻き込まれなければ知ることのなかった世界の一面だった。 「リィ・サイファ?」 「どうした」 「友人、と言ってしまったが、良かったものかと思いましてな」 「かまわんよ」 老いた人間が気遣わしげに覗き込んでいる。旅に出る以前ならば、今の世の人間に友などと呼ばれても不快だっただろう。今は違う。そのことが嬉しくもある。 「……この魔術師がいなければ、あの方が死ぬような目にはあわなかった、違いますか神官長様」 わずかに言葉を言い換えて騎士が老人に問う。詰め寄っていく目は血走っていた。不意に気づいた。騎士はウルフの縁者なのではないか、と。そう度々、人間の死体を持ち込んで蘇生させようと思う者がいるとも思えない。まず間違いはないだろう。 そしてサイファは顔を曇らせる。騎士はあの方、と言った。それがウルフであるならば彼は騎士が仕えるに値する人物と言うことになる。それが不安でたまらなかった。 「違いますな」 「どこがです!」 「リィ・サイファが運んでくださった」 そう、ジーニアス神官長は言った。間違いない、サイファは確信し、そして内心でおののきを感じていた。 「運んでくださらねば、儀式にかかることもできなかったでしょう。その辺りがどうもおわかりではないな」 「殺して、死体を持ってきただけとも」 「種族の相違はあれど、わざわざ殺した相手を神殿に連れ込んで蘇生を頼む馬鹿がいるとは思えませんな。それに彼自身、死にかけていた。命をかけてまでしたことを疑えるという神経がわからない」 神官長は溜息をつき、そして神官たちを振り返る。彼らは皆、一様に神官長の話にはうなずき、騎士には反感を持った目を向けている。 「演技だと言うことも」 「何のために? もうお話しすることはありませんな。お引取りいただこう」 「だが、神官長様!」 「神殿から出ろ、とはまだ言ってはいません。どうぞお部屋にお戻りを」 「……あの方がどなたかご存知なのでしょうな、そこのお前も」 騎士は唇を噛み、神官長とサイファに目を向ける。憎しみに凝り固まった目をしていた。 サイファは答えないことに決めていた。あの方と言うのがウルフであるのはわかっていたが、明らかに偽名であるのは最初から知っていた。だからサイファはジーニアスの後ろで黙っている。彼が言うことを肯定するふりをして。 「もちろん存じてますが。だからこそあなたをお呼びした」 「ならば……」 「口論は無用です。私はこれでも忙しい身でな、お引取りを」 取り付く島もない神官長の言葉に騎士は憤然と顔を上げ足音高く歩み去る。サイファの横を抜けるとき、故意か偶然かぶつかっていくのがわずらわしかった。 だが、サイファと神官長の話を聞きたいのか騎士はその場から少し離れた場所で立ち止まる。神官長はそんな騎士を無視しサイファに微笑みかけた。 「さてさて、リィ・サイファ」 まるで自分の無礼を許して欲しいとでもいうような顔がつらかった。悪いのはあの騎士であってジーニアスではない、それがうまく言えずサイファは彼の肩に手をかけ軽く叩いてみせる。神官長が驚いたよう、笑った。 「体の具合はいかがかな」 「完治はしていない」 「当然ですよ、死にかけてたんですからなぁ」 「まぁ、そのうち治るだろう。……あれは、どうだった」 口にするのが難しい。喉まで出掛かっている言葉が出てこない。ウルフ、と言って通じはしないのだろう、と思えばなおのこと。 「あなたがウルフ、と呼んだ青年ですな?」 だが神官長はいたずらをする子供のような顔をしてにやり、笑って見せる。それほどサイファが見せたのは驚いた表情だったと言うことかもしれない。 「うなされていましたから、聞くともなしに」 「……なるほど」 「その青年ですが」 一瞬、言葉を切った。不安が的中したのか、とサイファは後ずさりする。背後は壁だった。 「いやいや、そうではなく。あなたはご存知なのか、と思って」 神官長は声を潜めてそう言った。まるで周りの神官に聞かせまいとでも言うような態度が解せない。だがサイファは黙って首を振る。それにうなずき返した神官長はならば黙っています、と言って微笑んだ。 あの小さかった子供が、あっという間に大きくなってしまった。そして今こうして自分を助けてくれている。騎士からも神官の詮索からも。時の経つのは早い。蘇生が成功したとしてもいずれ、そう思えば背中が冷える。サイファはその思いに目を閉じて耐えた。それでもいい、今はウルフに会いたかった。 「ジーノ」 「えぇ、あの青年ですな。それですが……」 言ってジーニアス神官長は目をそらす。何かを探すように。その視線の先になにがあるのか考えたサイファはぞっとする。なにもなかったら、と。 |