走り続けた。前だけを見て馬を駆り続けた。目の前が暗くなってくる。意識が途切れようとしているのが自分でもわかる。 まだ、だめだ。ウルフを神殿に連れて行くまでは。サイファの意識にあるのはそれだけだった。闇が迫ってくる。 舌打ちをする気概も溜息をつく気力もない。馬の鬣を握り、急がせることだけしかできない。馬の吐く荒い息さえ、聞こえない。 だがら、それが見えたときには幻覚だと思った。ぼんやりと灯る赤いもの。それが何か認識できなかった。 そしてサイファは馬が足を止めていたことに気づく。焦りが馬の腹を強く蹴らせる。馬は、動かなかった。 「あなた、大丈夫ですか!」 「酷い怪我だ」 「早く、中へ」 口々に言う声。ようやくわかった。目を上げる。白い建物がそこにある。 「着いたのか……?」 掠れ声にさえ、ならない。馬の周りには白い服をまとった人間が群れていた。シャルマークと国境を接したミルテシアのサール神殿。シャルマークから最も近い神殿に、到着したのだった。 「これは……!」 神官がウルフの死体に手を触れる。咄嗟に叩き落とそうとした。ウルフに触られたくない。そしてここに来た目的を思い出す。 「蘇生を……」 口にしたサイファは急激に意識が薄れていくのを感じていた。 「わかりました、もう大丈夫――」 神官が何かを言っている。安心させようと言っているのだろう言葉はサイファには届かない。ウルフを包んだマントがサイファから外される。温もりを失った重たい体がなくなった途端サイファは落馬し、最初の賭けに勝ったことを知る。そしてそれきり闇に呑まれた。 なにもなかった。ただ体が熱い。傷が治っていくのだな、とぼんやりサイファではないサイファが考えている。 ここはどこだろう、とも考えている。見まわそうにも体が動かない。薄い紗がかかった窓から景色を眺めているよう、何もかもが定かではなかった。 「馬鹿だな」 誰かの声がした。懐かしい声だと思う。誰かはわからない。 「でも、よく頑張ったね。お前らしい」 大きな手が、頭を撫でている。その柔らかさに、思い出した。 「リィ……あなたなの」 「薄情な子だよ。忘れたか? 俺を?」 「でも、あなたは……」 師の笑い声。千年も前に失った温かい声が聞こえる。ならば自分は死んだのかも知れない。どこかで思った。 半エルフと人間と。死した後に行く場所は同じなのだろうか。そして死後の場所と言うものは存在するのだろうか。殺されでもしない限り死なない半エルフの身にはわかりようもなかった。 靄が晴れてくる。鮮やかな緑の広がる大地にいた。艶やかでこれ以上ない生気にあふれている。垂れ下がる蔓が風もないのに揺らめき、ぽってりとした果実がたわわになっている。花は蜜を滴らせ、濃厚な香りを放っていた。 とても死者のいるべき場所とは思えない景色にサイファは笑った。ここがどこなのかはどうでもいいことのように思える。あるいはいつかウルフが言っていた、半エルフと人間が共に暮らせる場所があるというなら、こんな所なのかもしれない。 師がここにいて、自分を待っていてくれることも、だからあり得そうでサイファの気持ちは安らいだ。 「疲れただろう? おやすみ、サイファ」 「だめ、まだ。まだ、眠れない」 「どうしてだ? うん?」 「あれは……ウルフは……」 「もう、いいだろう? お前はよく頑張ったよ。眠っちまえよ」 「嫌」 答えに師が笑う。からかって悪かった、といつもしたようサイファの頭を軽く叩いた。覗き込んでくる目の青さ。このまま師の言うとおり、眠ってしまいたくなる。そうすれば、あのころのよう安らいだ気持ちになれるのだと。けれど彼はなぜか切ない顔をしていた。 「お前は会ったんだね」 「なにに?」 「……大切に思う者に」 わずかに言い淀んだ気がした。まだ何か別のことを言おうとした、そんな気がする。けれど問い詰めても師は笑ってはぐらかすばかりだろう。 「サイファ」 横たわっているとばかり思っていた体に師の腕が回される。抱きしめられた師の体は覚えていたよりずっと温かかった。 「生きるんだよ」 髪を撫でる手。はじめて会った頃はもっとずっと短かった。 「心配で、心配で」 「リィ」 「死んでも死に切れんよ、俺は」 「でも」 もう、死んでしまっている。ここに師がいるのに、サイファにはわかっている。それは師の姿形が、若かったあの頃のそれであったからかもしれない。不思議と恐ろしくもなんともない。 あるいは自分も死んでいるのかもしれない。だからここに師はいて、疲れたから眠ってしまえと言うのかもしれない。 「もう、お前は大丈夫だな」 「どういうこと?」 「きっと、生きていられるな」 「私は、でも」 「いいから約束しなさい、生きると」 「……はい」 子供の頃に帰ったようだった。師の腕の中、好きなだけ言いたいことを言っていたあの頃。ウルフが妬くのは無理もない、苦笑してサイファは思う。 そして思った。生きていたい。ウルフが生きている限り、死なない。だが。ウルフは。 「リィ」 「うん?」 「私の……」 口ごもった。師になんと説明していいものか惑う。だが師ならばきっとわかってくれる。だからサイファはそこで言葉を切ったままあとを続けなかった。 案の定、師は大きな笑い声を上げサイファの髪をくしゃくしゃにする。機嫌のいい彼の癖。それから頬をつまんでサイファの目を覗き込む。 「言いたくないなら、是非にも言わせたいもんだな」 「絶対、いや!」 「言うと思ったよ」 まだ、笑っている。サイファは自分を抱いた師の体が笑いの衝動に激しく揺れているのを懐かしく思っていた。 あの頃もそうだった。過保護で優しくて、大きかった師。独り立ちしたあと取った弟子とは、あからさまに待遇に差があった。 そのことに、苦言を呈したこともあった。けれどいつも笑ってはぐらかしてこちらの言うことなど聞いたためしがなかった師。 「リィ」 見上げてサイファは言うべき言葉を探す。けれど師はその頭を抱え込み、なにも言わせない。わかっている、と。ゆっくりと、腕が離れていった。また独りだ、そんな思いに囚われる。 「行けよ、サイファ。お前のいるべき所へな。俺をおいて行っちまえよ」 「リィ!」 「だって、行くんだろう?」 笑っていた。この因業爺め、そう思っても憎めない。目の前にいる師は若かりし日の姿ではあったけれど。見た目などどうでもよかった。サイファにとって師はただ一人の、ウルフとは別の意味で大切な者。 「ほらほら、行けってば」 くっと笑って師が腕を突き出す。体を突かれた、思ったときにはサイファは暗黒へと落ちて行った。 「生きろよ」 どこからか、師の言葉が聞こえた。落ちていく。恐怖感はなぜか沸かない。ただ、体が重たかった。 はっと息を呑んだ。急激な目覚めに意識がついていかない。ここがどこだか、わからなかった。 ゆっくりと見回す。白い天井、白い壁。装飾はほとんどない。目に入るものに自分が横たわっていることを知った。 「私は……」 なんだというのだろうか。無意味な言葉を口にして、声を出せることに気づく。 「夢?」 それにしては実在感のありすぎる感触だった。師はまだそこにいて、隠れて笑っている気がする。ゆっくりと体を起こす。肩に痛みを感じそっと押さえた。その視界に長い髪が入る。 「現実はこちら、か」 苦く笑った。あのままあの場所にいたならばどうなっていたのだろうか。体が治癒する間に見た夢。ただの夢とも思えなかった。 やはり師はあそこにいて、サイファを生きて帰してくれた。そうとしか、思えなかった。 「リィ……」 口許を覆う。誰もいないと言うのに目を伏せた。この世にいないことなど、死んでしまったことなどもうずっと前にわかりきっていることなのに、再び師を失った、そんな気がしてしまってならない。 現実を認めるのが怖かった。師を失った。今またウルフまで失うかもしれない。すでに、失ってしまったのかもしれない。 サイファは一人、寝台の上で震え続ける。もう、ここがどこだか思い出している。いまはサール神殿の施療院だろう。 顔を上げ、自分の体を確認する。完治はしていなかった。それほど時間が経っていないと言うことか、それともそれほど酷い傷だったのか、サイファにもわからない。 白いローブを着せられていた。ふと見れば、枕元に何かがある。手を伸ばす。それだけの行為に体が軋んだ。 手に取った。それは触れるだけで崩れそうな襤褸屑。なぜここにこんなものが、と不思議に思えば何のことはない自分の着ていたローブだった。 「酷いものだな」 声に出して笑ってしまった。あの時、夜の闇の中、野生馬に乗った半エルフが死体を運んできた。襤褸同然のローブを着て。よくぞ神官たちは助けてくれたものと思う。 サイファは傷ついた体を庇いながら寝台を降りた。神官に礼を言わねばならない。それ以上に、確かめなければならないことがある。 「約束なんか、するんじゃなかった」 ぽつり、サイファは呟く。最悪の場合アレクに誓ったことを破ってしまうかもしれないとは思っていた。 「リィに言われたんじゃ、破れない」 溜息をつき、サイファは背を伸ばす。打ちひしがれた様子など、誰にも見せない。 「それでこそ、俺の可愛いサイファだよ」 幻聴に違いない。けれど師の声が聞こえた気がしてサイファは微笑う。あの師ならば、きっと言ったはずの言葉。何度も聞いた言葉。 「馬鹿」 師といいウルフといい、よくぞ恥ずかしげもなくあのようなことが言えるものだ、サイファは天井を仰ぎそして足を踏み出す。 確かめるために。ウルフの生死を。 |