気づけばシリルが側にいた。アレクが必死になって彼を止めている。シリルはかまうことなくウルフに呪文をかけ続けていた。
「無駄だ」
 感情のこもらないサイファの言葉に、シリルが目を上げる。腕に抱いたウルフの体はもう、冷たくなり始めていた。治癒呪文など、意味がない。
「サイファ」
 なにを続けるつもりだったのだろうか。言葉半ばでシリルは力尽き、倒れ伏した。その体をアレクが支えた。
 轟音が聞こえる。宮殿が崩壊を始めていた。悪魔の体はかき消えてすでにない。滅びはしなかったのだろう。ただこの世界から消えただけ。本来の住処である場所に戻った、それだけだろう。
 どうでも良かった。悪魔が滅びようが世界が救われようが、サイファにはどうでも良かった。
「サイファ!」
 アレクが悲鳴を上げる。床にひびが入り、壁が崩れる。天井からは巨石が降り注いできた。意識もせず、サイファは結界を張る。守らねばならないものなど、なにもないというのに。
 ウルフの傷からは、もう血も流れない。膝の上、生命を失った体が重たかった。サイファは目を上げる。アレクがじっとこちらを見ていた。
 サイファは微笑った。なぜ、笑ったのかは誰にもわからない。アレクは悲痛な顔をして、それでも目をそらさずサイファを見つめた。
 だからかもしれない。サイファは決心した。この上アレクまで自分と同じ目にはあわすまい、と。ローブの襟元から首飾りを取り出し、引きちぎってアレクに投げる。
「シリルは」
「まだ、生きてる」
「首飾りに、転移の呪文がこめてある。お前でも使える。握って、行きたい場所を強く意識しろ。シリルをつれて、行け」
 サイファはアレクの言葉にうなずき、そう続けた。アレクが何かを言いかけるのを封じるよう、彼を見据える。
「早く行け。結界はそう長くもたん」
「サイファ……」
「行け、と言っている」
「アンタ、死ぬ気か」
 言われて気づいた。ここで王宮の崩壊と共に死ぬ道がある、と言うことに。いかに半エルフとは言え、この崩落に巻き込まれたならば生きてはいられまい。
「いや、そんなつもりはない」
 だがサイファは言って微笑んだ。あるいはそれはアレクを行かせるためだけの言葉だったかもしれない。
「でも……! じゃあ、アンタはどうするんだ、ウルフ連れて転移なんか無理なんだろうが!」
「そうだな。アーティファクトの力を借りずに二人分転移させるのは、無理だ」
「だから!」
「……物ならば可能だ」
「え?」
「死体は物だ。一人で、運べる。だから、行け」
 口にするのがつらい。ウルフが死んだと言いたくない。切れ切れの言葉が、喉に詰まってうまく出てこなかった。
「賭けてみろ、サイファ。神殿に行け」
 アレクが首飾りを握ってサイファに言う。サイファはわかっている、とばかりうなずいた。賭けに負けることを考えれば、恐ろしい。今ここで共に死んでしまったほうがずっと楽だ。だが。
「サイファ、誓え」
「なにをだ」
「死ぬな、生きろ」
 シリルを抱えたまま、アレクが泣いている。それをサイファに無理強いするのが、どれほどつらいことかアレクにだとてわかっている。わかっていてなお、アレクはそう言う。だから。
「誓う」
 サイファはうなずき、微笑んだ。崩壊が、激しくなった。天井からは絶え間なく岩が降ってきている。それを見上げ、サイファはアレクに視線を戻した。
「行け」
 黙ってうなずきアレクが首飾りを強く握った。口を開きかけ、そしてつぐみ、アレクは物言いたげな目を残してシリルと共に、消えた。
 命を失ったウルフと二人きり。シャルマーク王宮の崩壊の場にいる。皮肉だった。
 ウルフはここに来るのが運命だと言っていた。ここで死ぬのが、とも。あれだけ言ったにもかかわらず、ウルフは死んでしまった。あれだけ死なないと言っていたのに。
 不思議と涙も出なかった。呆然としているだけかもしれない。結界に当たる岩の音が激しくなる。薄く輝く結界の中、死体を抱いてサイファは一人だった。
 やはりこのままここにいようかとも思う。血液を失いすぎた。結界を長くは維持できないだろう。この輝きが消えたとき、自分はウルフと共に死ねるのだ。
 それは甘美な思いだった。ちらり、アレクの泣き顔がよぎった。サイファは首を振る。短い命の友を、悲しませることもできない。まして、ウルフを賭けている。
 成功の見込みのない蘇生魔法。だが、万が一にも成功すれば、ウルフは戻ってくる。生きて、また馬鹿なことを言うだろう。わずかな望みであっても、それに賭けるしかなかった。
「馬鹿が……」
 冷たい死体を抱きしめた。頬に頬が触れる。ぬくもりのない肌。もう一度ウルフが帰ってくるならば、悪魔に魂を売り渡してもかまわない。
 サイファは嗤う。まさしくブレズ・フェビア魔道王を笑えない。師に会わねばあのようになっていた、と思ったこともあった。ウルフに会ったからこそ、彼のようになってもかまわない、そう思った。
 ウルフの胸を貫いた剣をゆっくり抜いた。固まった血は、流れもしない。冷たい腕に剣を抱えさせ、自分のマントで体を包んでやった。砕けた肩がようやく痛んだ。
 顔を顰め、サイファは辺りを見回す。時間はもうなかった。転移魔法をどこまで行使できるか。後はそれにかかっていた。アレクに首飾りを渡してしまった今、残るは自分の体力のみ。時間がかかればかかるほど、蘇生の見込みは薄くなる。
 一度大きく呼吸する。ウルフに視線を落とした。強張った唇にくちづけサイファは呪文を唱え始めた。体中が悲鳴を上げる。痛みに怯んでやめるわけには、いかなかった。
 辺りを圧する音がする。宮殿が基礎から崩れ始めた。闇が晴れる。結界が壊れる、涼やかな音。そして次の瞬間、ウルフを抱いたサイファは影もなかった。


 無様に倒れた。冷たい大地に叩きつけられる。呪文の制御に失敗したのではなく、体力が追いつかなかった。
 雪が、降っていた。一面の白い大地に、赤い模様が印される。砕けた肩から血が噴き出していた。王宮の、濃い魔力の中だからこそ、治癒が始まっていた肩だった。当たり前の大地に立てば、こうなるとわかっていたこと。
 サイファは意に介した様子もなく、周囲を見回す。まだ、シャルマークの内だった。遠い。再び呪文。
 血の跡だけが残り、サイファは消える。


 倒れたまま、今度は起き上がることも出来なかった。呼吸ができない。ウルフの死体にしがみつくよう、サイファは息を整える。
 急激な咳の発作に見舞われ、サイファは口許を押さえた。指の間からあふれるのは、血。立て続けの転移魔法に体が持たなかった。だが、かまってなどいられない。
 見覚えのある土地だった。遠く遥かに山々の影。サイファはミルテシアとシャルマークの国境付近にある神殿を目指している。自分の塔からも遠くはないその神殿ならば位置が特定できる。特定できれば、そこに直接転移ができる。そのせいだった。
 が、もう魔法を行使するだけの体力がない。ウルフの体はサイファの流した血で血まみれだった。失いすぎた血液に、体が冷たい。
 雪の中、赤いものが広がっていく。このままここで倒れるのか、そう思えば口の中が苦くなる。ウルフを助けられない。賭けに乗せることもできない。なんのためにここまできたのか。魔術師リィの高弟が、聞いて呆れる。
 サイファは笑う。唇が震えた。それは絶望だった。もう、できることが何もない。雪の中で死体を抱えるくらいならば、あのまま王宮に留まっていればよかったとまで思う。
 そのサイファの視界の端に動くものがあった。
「まさか……」
 知らず言葉が零れた。目に映るものが信じられない。この時期に、この場所に。
 遠く駈けていくのは野生馬の群れだった。サイファは呼ばわる。声の限りに。半エルフの、人ならざる声が届くよう。
 野生馬が、遠くなる。それでもサイファは呼んだ。失いすぎた血に、意識を失うまで、呼んだ。野生馬には、届かなかった。
 雪が、頬で融けていた。体の上、降り積もっている。どれほど気を失っていたのかわからない。ウルフの体だけが冷たくなっている。雪を払って体を起こす。それほど積もっては、いなかった。
 そしてサイファは見つけた。目を覚ます原因となったものを。
「お前……」
 それはまだ若い牝の野生馬だった。鼻面でサイファの体を押している。目にあるのは賢い光。
「乗せて、くれるか?」
 立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。馬は軽くローブの襟元を噛んでサイファを助けるよう、引き上げる。
「ありがとう」
 雪の積もった鬣に頬ずりをした。冷たさが、この上ないものに感じられる。馬を見れば乗れというよう、首を振っているではないか。
 なにに感謝していいかわからない。偶然か、必然か。考えるのは後でも出来る。サイファは意を決してウルフを馬の背に乗せ、自分の体も引き上げる。
 ウルフを包んだマントを自分の体に縛りつけた。砕けた肩から流れる血が、馬の背に滴る。残る片手で鬣を掴んだ、と思う間もなく馬は疾駆しはじめていた。
 素晴らしい足だった。風のよう、駈ける。だが楽しむことは出来なかった。温かい馬の体に意識が途切れそうになる。
 意識が途切れたとき。それはウルフの死が確定するときだ。それだけを思ってサイファは懸命に馬を駆る。
 鬣を掴む指の感覚など、疾うにない。目で確かめなければ、握っているとわからなくなっている。それでもサイファは姿勢を低くし、馬の背に乗り続ける。少しでも早く、一歩でも近づくように、と。




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