シャルマーク最後の王はそうして倒れた。残骸が、風もないのに吹き飛んで灰となっては消えていく。悪魔がそれを歯軋りしながら睨みつけていた。
 あの悪魔フラウスの両手が焼けている。目にあった炎も燻っている。シリルの神聖魔法が効果を及ぼしていた。流れた血に豹の毛皮を染めて悪魔は立ち上がる。ウルフが対峙しては牽制した。
「よくぞ、よくぞ……」
 口調とは裏腹の歓喜の表情。千年の間、持て余していた倦怠を今こそ振り払うに相応しい、と。
「ウルフ!」
 魔道王を片付けたシリルが駆けつける。アレクも少し遅れて従った。二人とも、血だらけだった。ウルフも同じく。そしてサイファでさえ例外ではない。
「生きて帰れると、思うな……!」
 再び悪魔の足元から結晶化が始まる。シリルの魔法にのた打ち回りはしたものの、サイファの魔法が効力を失ったわけではない。
 不潔な緑の光に水晶が妖しく反射する。悪魔は投げ槍を掲げ、ウルフに向かい振り下ろす。力のこもった一撃に見えた。ウルフは剣でそれを払う。が、そこに投げ槍はない。頭上から降ってくるはずの悪魔の武器は空中で反転し、ウルフの腹を狙う。
「坊主!」
 アレクの悲鳴めいた絶叫。サイファは目を疑った。腹を破る一撃は、確かに見えた。が、ウルフは傷を負ってはいない。それどころか淡い光が彼を包んでいる。
「シリル!」
 アレクの歓喜。それで悟った。シリルの治癒魔法が飛んだのだ。素晴らしい力だった。致命傷であったはずの傷は一瞬にして完治している。
 また、シリルが呪文を唱える。高速詠唱ではないものの、充分に速いそれは言葉として聞き取れない。見る間に一行の体が光に包まれる。それが消えたとき、傷のほとんどが治っていた。
「手ごたえのあることよ」
 悪魔が言い放つ。そして槍を投擲した。魔法を放ち終えた瞬間の、無防備になったシリルに向かって。
「ちっ」
 絶望的な舌打ちはアレクのもの。小剣で打ち落とそうとしたものの捉え切れない。シリルの体を抉るのは確実と見えた。
 だがサイファがそれを阻む。掌を突き出しただけに見えた。が、そこにあるのは魔力の流れ。ある意味ではこの場所だからこそできる魔法にサイファは笑う。魔力の塊がシリルに突き刺さる寸前だった槍を砕いた。
 悲鳴でも怒号でもない。声ですらないのかもしれない。力を伴った音が一行に向かって叩きつけられる。サイファの結界が一瞬でも遅れたならば、吹き飛んでいただろう。
 それは悪魔の怒声とも言うべき何か。怒り狂う悪魔が両手に無数の槍を持つ。それが動いた、と見える間もなく一行に向かってくる。
「……くッ」
 飲み込んだ悲鳴。誰のものかはわからない。治ったはずの体は皆、傷だらけだった。結界などなんの役にも立っていない。槍が当たった瞬間に、壊れ砕けた。
「死ねぇッ!」
 悪魔が笑う。目には炎が戻っている。結晶化は腿まで進み、けれどその体勢で更なる槍を投げつけた。その槍が燃え尽きるのを目にした悪魔フラウスの気持ちはいかばかりであったか。わずかな時間ではあったが、確かに呆然としたのだ。
 戦士たちの背後、サイファが肩で息をしていた。立て続けの大きな魔法に体力が持たない。いかに魔力の濃い場とはいえ、神人でも悪魔でもないサイファには限界がある。
「そこまでか?」
 けれどフラウスの言葉にも焦りがあった。たかが人間がここまでやるとは思ってもみなかった、と。娯楽、とは言いがたい脅威を感じていることだろう。
「貴様を滅ぼす、と言った」
 サイファが腕を掲げる。戦士たちが牽制する。動けない悪魔に向かって剣を振り下ろし、切り刻もうとする。だが悪魔の体につく傷は微々たる物。シリルの聖別された剣を持ってしても致命傷には至らない。ましてアレクやウルフは掠り傷をつけるのが精一杯だった。
「邪魔だ!」
 腕の一振りで三人が薙ぎ倒される。その時サイファと悪魔は正対した。悪魔がこの時を待っていたとばかりにサイファを見据える。
 準備動作のない魔法が飛んでくる。サイファによける術はない。ましてすでに詠唱に入っている。サイファは、死さえも覚悟した。そしてそのまま詠唱を続けた。
「いい覚悟だ」
 言った悪魔にサイファは笑う。傷だらけの体、頬に流れた血。来た、と自覚する間もない。魔力の流れがかすかに変わったと、思った途端に爆炎がサイファを襲う。
「サイファ!」
 ウルフの悲鳴など耳に入らない。詠唱を続ける。ただそれしかなかった。だから気づかなかった。炎は体を焼いていない。幻覚ではなかった。確かに物の焼ける臭いがする。
「やった!」
 アレクの声がした。彼がサイファの元に這い寄ろうとしている。骨の一本や二本、折れているのかもしれない。シリルが浅い呼吸を繰り返し、兄に続く。シリルの治療魔法が間に合ったのだった。
「あ……」
 油断、とは言えないだろう。悪魔がにたり、笑う。二段構えの魔法はサイファの肩を貫いた。衝撃に体が飛びそうになるのを必死でこらえる。詠唱は途切れなかった。
 驚愕に目を開いた悪魔が再び槍を構えた、そこに剣が突き刺さった。傷にもならないほどの弱い衝撃、だが悪魔の意識はサイファからそれる。跳ね飛ばされたウルフの剣が床に当たって音を立てる。
「があ……っ」
 悪魔が喉を押さえた。サイファの魔法。放ち終えた途端、サイファは膝をつく。呼吸さえもままならない。喉が空気を求めて鳴っていた。
 サイファも、そして悪魔フラウスも。悪魔のそれは疲労からではない。魔法によって空気を遮断されていた。ぼこり、悪魔の血が泡立つ。沸騰していた、悪魔の血液が。
「サイファ……」
 ウルフが這い寄ってくる。その手に剣はない。大丈夫だとうなずいて、サイファは再び呪文を唱える。ようやく辿り着いた兄弟とウルフがサイファの周り、立ちはだかる。再び魔術師を無防備にはしないと。
 だが、サイファは間に合わなかった。詠唱半ばで悪魔がその圧倒的な力を持って呪文を破ったのだ。それを見た瞬間にシリルが飛び出す。剣の効果があるのは彼くらいのもの。ウルフは剣を拾い、アレクと二人すぐにシリルを援護した。その間に少しでもサイファに時間を与えようと。
 悪魔の力を見くびっていたのかもしれない。腰まで結晶化しながら悪魔は腕を振り、槍で戦士たちを打ち払う。弾き飛ばされた仲間たちの苦鳴が聞こえる。嫌な音がしていた。ウルフの剣が折れた、とサイファは繋がったその感触から知る。速く、そう思っても時間だけはいかんともしがたい。
 砕かれた肩から流れる血に体力が失われていくのがわかる。時間はもうないと言ってよかった。悪魔の無限の魔法が仲間を襲う。サイファは動けない。シリルの障壁がわずかに間に合い、そして砕かれる。声もなく、倒れ伏した。まだ、生きてはいる。が、時間の問題。
「ここまでか。よくやった――」
 フラウスはまた無数の槍を手にし、戦士たちに目をやる。詠唱は終わっていない。やはり、間に合わないのか。絶望がサイファを捉える。
 が、槍を手にしたまま悪魔は止まった。結晶化は腹まで進んだ。だがそれゆえではないことをサイファはよくわかっている。
「ぐ。あ……く……」
 腹に剣が生えていた。それをありえない物があるとばかりに悪魔は見ている。目を見開き、呆然と。そこに叩き込まれるサイファの魔法。仰け反った。声にならない絶叫を悪魔が放っている。
 サイファは仲間たちの元、駆けつける。誰も皆、酷い傷だった。シリルが治癒魔法を放つが完治には至らない。かろうじて、動ける所まで治ったのみ。そのシリル自身の傷が最も重かった。
「シリル」
「大丈夫です」
 青い顔をして微笑う。言葉通りとは思えない。だが、今は余裕がなかった。悪魔を滅ぼさねば全員の命がない。
「サイファ」
 守るよう、ウルフが隣に立つ。ふらついていた。シリルが一番酷いとは言え、ウルフも大差はない。その顔でサイファに向かって笑って見せる。
 悪魔は剣を抜こうとしていた。腹に生えた剣。それはウルフが投擲した神人の王の剣。相反する性質を持った剣に悪魔は苦痛をこらえ切れなかった。
「き、さま……ァっ!」
 悪魔がウルフを視認した。憎悪だけで殺せるものだろうか。悪魔ならばあるいは。神聖な剣に両手を焼かれながら悪魔が体に埋まった剣を抜く。血の焦げた臭い。流れ出る血は焼け焦げていた。
 ウルフがシリルの剣を奪い取るよう借りては掲げ、相対した。ぬたり、笑う悪魔。双方とも血にまみれて凄絶だった。
 悪魔が剣を掲げる。投げ捨てる、その動作。それは渾身の一撃となってウルフを襲った。
「あ……」
 悲鳴にも、ならない。空気の抜けるような声がした。背中まで突き抜けた神人の剣。ウルフはそっと手で触れ、そしてサイファを見た。
「ウルフ……?」
 目の前にあるものが信じがたい。腹から、血が流れている。焼け焦げはしないウルフの血。手ですくった。元に戻そうとでもするかに。熱かった。
 ウルフの唇が動く。聞こえない。
 衝撃音がした。悪魔が、倒れ伏していた。ぶすぶすと青い炎を上げ、神人の剣に焼かれた体が燃えている。目だけはかっと見開いて、ウルフを睨んでいた。けれどその目に燃える炎はすでにない。
「ウルフ……」
 膝をつきそうな体を支えた。サイファの砕かれた肩から血が流れる。不思議と冷たかった。悪魔が滅んだことなど、意識にも上らない。崩れ落ちそうになるウルフを支えることしか考えていなかった。兄弟が何かを言っている。聞こえない。
「返事を、しろ」
 ウルフの唇が動く。声にならなかった。かすかに浮かんだ微笑、あふれる血は、勢いを失った。また、唇が動く。何度も同じ言葉を形作ってた。ごめん、と。
「馬鹿か、お前は!」
 サイファは罵り、体を揺する。そうすれば流れる血を止めることができるとでも言うように。ゆっくりと上がったウルフの腕が、サイファの頬に触れた。冷たい指先に体が凍る。
「サイファ」
 呼吸のようなかすかな音。腕が落ちる。そしてウルフの目から光が失われた。




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