戦士たちが剣を構えたまま立ち止まる。慎重に近づいた。ゆらり、玉座から人影が立ち上がる。 どす黒いローブに施された黄金の刺繍が緑の明りに明滅する。酷く痩せていた。一行に向けて伸ばした手はまるで枯れ木のようだ。 「よく、ここまで来たものよ」 人影が口を開く。嘲りが滲む声、目にあるのは紛れもない狂気。 「ブレズ・フェビア……」 シリルが呆然とした声を上げた。まさしくそこに立っているのは最後のシャルマーク王。千年も前に滅んだはずのブレズ・フェビア魔道王だった。 「余こそこの世のすべてを治める者。下賎な人間ごとき、こうしてくれるわ」 仰け反って王が笑う。狂気に支配された笑い声は聞く者の心を凍らせる。王が伸ばした手の先がかすかに光った、と見る間にそれは爆炎となり一行を襲う。 だがその炎が彼らを害することはなかった。髪一筋すら、燃えてはいない。戦士たちの後ろ、サイファが仄かな笑みを浮かべた。 「なるほど。この程度で倒すことはできない、と言うことか」 声が、聞こえた。王ではない。王は玉座の前に立ち尽くしているのみ。動く気配も今はなかった。 戦士たちの足が一歩、下がった。サイファがその背を支え押し戻す。魔力の流れが押し寄せてくる。圧倒的で邪悪な。人間はおろか半エルフが持つこともかなわない、かろうじて神人だけが対峙できるであろう魔力。 王の背後、玉座の後ろの闇が晴れる。そこから姿を現したのは一匹の獣。闇が凝ったかと思うほど黒い豹が悠然と歩いてきたのだった。 「なによ、これ」 驚愕したアレクが誰にともなく言う。シリルが答えると意識せず答えた。 「魔族だ」 その言葉に反応したわけではないだろう。が、黒豹は玉座の前で立ち止まりそして身震いした。次の瞬間、そこに立っているのは一人の男。 否、男に見えた。豹の毛皮をまとった精悍な男に。片手にどこからともなく現れた投げ槍。明らかに人間ではなかった。魔力も然り。そして何より、目には赤く炎が燃え盛っている。 「……悪魔フラウス」 「ほう、私を知っている者がいると見える。そこの魔術師か?」 問われたサイファは答えない。おおよそ、シャルマーク王国崩壊がなぜ起こったのか、わかりかけてきた。 フラウスと呼ばれた悪魔が笑う。戦士たちの背中に怯えが走る。背後から肩に手を置き、励ますよう叩いた。それを悪魔は面白げに見ていた。 「くだらない人間に召喚されて千年以上。ここにたどり着いた人間はお前たちが初めてだ。歓待したいのは山々だが、生きて帰す気はない」 笑いを収め悪魔は言う。それは突然きた。魔法の準備動作など微塵もない。襲い掛かられてはじめて気づく炎。焼ける瞬間、ようやく間に合ったサイファの対抗呪文がそれをかき消す。 「ほう」 興味深げに悪魔は声を漏らし、そして続けざまに魔法を放つ。サイファの高速詠唱をして、やっと対応できる。それでも仲間に傷はつく。弾ききれなかった炎が、氷が彼らの体に細かい傷を作った。 「敵とするには、惜しいな。望みがあれば言うがいい。我が仲間とせん」 からかいか、甘言か。人間の言う意味での声音がない言葉に意味を求めるのは無駄だった。そしてなにより、悪魔の言葉を聞く耳など、持ち合わせていない。 「お前を倒し、大陸に平和をもたらすことこそ、望み」 言い切った声。はっとサイファは彼を見る。ウルフが剣を構えて言っていた。最前までの怯えなど、どこにもない。毅然と背を伸ばし彼は言う。 「倒す? 私を?」 謁見の間に響き渡る哄笑。ゆらり、ブレズ・フェビアに生気が戻る。 「試すがいい。できるものならば」 挑発だった。が、シリルを中央にウルフとアレクが両側に展開する。背後ではサイファがすでに魔法を発動させるばかりに準備していた。 すっと、悪魔が下がった。と、襲いかかってきたのは王。ローブの裾をはためかせ、剣を取って切りかかる。激しい金属の音。ウルフが止めていた。 悪魔は見物でもするつもりか。サイファは見据える。違う、何かをするつもりでいる。ならば先にと魔法を叩き込む。けれどそれはわずかに毛皮を焦がすのみ。 舌打ちひとつ。サイファは次の手段を取る。王に切りかかったアレクは自身の剣がまったく王を傷つけないことに苛立っていた。その剣に魔法。突如としてアレクの小剣が輝く。炎の色に。 「ありがと!」 振り向きもせずアレクは言い、再び切りかかる。今度は切れた。王が、叫び声を上げた。 シリルは一歩下がって呪文を唱えていた。サイファにはなにを言っているのかわからない。無防備なシリルを守るよう、王に悪魔に次々と呪文を放つ。 シリルの言葉が旋律を帯びる。歌っていた。戦を司る神たるマルサドに仕える神官の特殊魔法。戦いに臨む戦士の歌。響きが高まり、そして。 シリルが雄叫びを上げた。謁見の間に反響したそれは敵の意気を挫き、味方の戦意を鼓舞する魔法の乗った鬨の声。ウルフが、アレクが身震いし、そして重たい一撃を敵に加える。 「ウルフ!」 シリルの声にウルフが体を入れ替える。王にはシリルが相対した。 「中々やる」 悪魔の嘲笑に、ウルフは反応することなく剣を構え、じりじりと間を詰める。 「サイファ!」 アレクの悲鳴にサイファが意識をそらした瞬間、悪魔が投げ槍を放った。はっとした。だがしかしウルフは軽く剣を振ってそれを叩き落す。 「ほう……」 感嘆の声と思しき物を上げた悪魔の手の中にはすでに新しい投げ槍が出現していた。 サイファは振り返りもせず、背後の気配だけで魔法を放つ。後ろに突き出したサイファの手から延びる火線。魔道王に突き刺さる。シリルに向けて剣を振るいかけていた腕が止まった。 シリルがまた、呪文を唱えている。ゆらり、揺らめく魔道王。生きた人間ではありえなかった。ならば役に立つ呪文がある。 「猛き戦の神よ。命なき哀れな者を受け取りたまえ」 還魂の呪文。この程度で消えるとは思っていない。ただ、少しでも効果があればいい。事実、魔道王はぐらり、姿勢を崩した。 もう一度。そして揺らぐたびに剣を振る。額に汗が浮かんでくる。アレクが彼を助けるよう、小剣を果敢に振っていた。王の振る剣でアレクはすでに傷だらけだった。それを気遣うシリル自身、無数に傷がついている。 兄弟の背後で炎が猛り狂っていた。サイファの放った呪文が悪魔に命中する。今度は毛皮が焦げただけ、とは行かなかった。ウルフが牽制する間にサイファが唱えたのは長い詠唱を必要とする大きな呪文。それだけに力は凄まじい。一瞬、謁見の間が赤く輝いたほどだった。熱気が一行の頬を打つ。 「貴様……ッ」 猛る悪魔が前に出ようとするのをウルフが防ぐ。剣で切りかかり、掴みかかろうとする腕をかいくぐり。そうしている間にサイファの魔法が完成することを願って。 「くっ」 投げ槍を短く構えた悪魔がそれをウルフに叩きつけるよう、刺した。体をひねったばかりのウルフは避けきれず、肩を抉られる。熱い血がほとばしった。 詠唱中で悲鳴も上げられないサイファはこらえて呪文を続けるのみ。完成。放つ。聞こえたのは悪魔の怒号。 「ウルフ!」 「大丈夫」 短いやり取りの間も視線は敵から離さない。悪魔は足を取られていた。単に動けないのではない。足元から徐々に上っていくのは水晶か。 「よくぞ――」 にたり、口を広げて悪魔が笑う。足元が少しずつ結晶化していく。止まれ、動くな。願わずにはいられない。 「動けなくとも魔法は放てるのだぞ」 負け惜しみになどとても見えなかった。背筋が寒くなる。来る、思ったときには炎が二人を襲う。サイファは咄嗟にウルフを庇う。 「サイファ!」 押しのけようとする腕ごと、有無を言わさず抱きかかえた。 「……う」 押し殺した悲鳴。ウルフが炎に焼かれている。額に額を押し付けた。 「幻覚だ。気づけ!」 サイファの背中は熱くない。熱などどこにもない。あるのはただ圧倒的な魔力の波。一度、背中を掴まれた。ウルフの手。安堵させるよう、サイファの背を叩く。 「もう平気」 言ってウルフは再び眼前に剣を構えた。悪魔がさも楽しげな笑い声を響かせる。 「千年ものあいだ囚われていた甲斐があったと言うものよ」 「召喚者たる王を倒せば、貴様は消える」 「そうは行かないな、魔術師よ」 「ならば貴様も滅ぼすまで」 「よかろう、それも!」 投げ槍を構え、悪魔は足を覆いつつある水晶を弾き飛ばしウルフに突進する。サイファがさっと青ざめた。ウルフは向かってきた悪魔に驚きもせず体を開いてかわすと見えて、背後から切りかかる。悪魔はそれを許さない。入れ替わった悪魔とウルフが激しい戦闘を繰り広げた正にその時。 「マルサド神に願い奉る。光もて邪悪を打ち払いたまえ。我、この地を浄化せん!」 シリルの声が響き渡った。あたり一面に広がる純白の光。清浄この上ない光が謁見の間を満たす。悲鳴が二つ。悪魔が喉をかきむしり、のた打ち回る。すでに結晶化していた足が血にまみれた。そこにウルフが剣を落とした。ざくり、肉がはじけて血がほとばしる。 もうひとつは魔道王。この世の物とは思えない絶叫を上げ硬直した王の体に光は容赦なく浴びせられ。そしてずぶり、腐り果てた王の右腕が落ちた。 「がぁ……っ」 喉はすでに声を発する器官ではなくなっていた。続いて左腕が落ちたと見る間もなく足が崩れ、腰から先に床に落ちていく。最後まで呪わしげに一行を見ていた眼球が床で潰れ、頭蓋骨が転がり、それですべてだった。 |