ウルフの、規則正しい鼓動が聞こえている。胸に顔を埋めてサイファはそれを聞いていた。いつの間に自分より背が高くなったのだろう。不思議でならない。
 こうしてみれば背が伸びるほどの時間、離れていたなど信じられない。人間にとっては、長い時間だろう。およそ一年ほどか。サイファにとっても、それははじめて経験する長い時間だった。
「サイファ、好きだよ」
「しつこい」
「だって好きなんだもん」
 明るく笑う彼の声を聞いている。まるでシャルマークへの旅の途上のようだった。ここにいるのはカルム王子ではなく、ウルフ。
 そう思ったとき、すべてが腑に落ちた。なぜあれほど怒り狂ったか、今ならば良くわかる。
 ウルフが言ったことが正しかったのだ。あれは図星だった。
「サイファ、ずっと一緒にいるから」
 心の内を察したようなことをウルフが言うのに、サイファは知らず笑ってしまう。馬鹿なふりをし続けていたウルフ。けれどこちらの考えだけはよくわかるらしい、と。自分がなにを思っているかもわかっていなかった馬鹿のくせに、そう思えばおかしかった。
「信じない」
 言いはしてもサイファはすでに信じようと努力していることを知っている。王家の者だと知った日。もう共に生きることはできない、と知った。
 人間である彼と歩く日々は短いものだろう。いつか彼を失うだろう。それでもいい、共に生きたかった。
 そう決心したのにそれは失われた。生死とは別の形で。それが堪え難かった。裏切られたのがつらくて、それを認めることさえ出来ず、怒りに代えた。
 ただ、寂しかっただけだ。今になってよくわかる。
「別にいいけどさ」
 ウルフは信じろ、とは言わなかった。不思議に思って顔を上げれば、口許が微笑っている。すぐ目の前にある目を見ているだけでどこかが温かくなる。
「なぜだ」
 それが恥ずかしくてサイファは目をそらす。きっとウルフはもう悟っていることだろう。二度と彼に向かって魔法を放つようなまねはしないことを。
「別に信じてくれなくってもいいから」
「だから、なぜだ、と聞いている」
「だってさ」
 言ってウルフが言葉を切った。それにつられてサイファは彼の目を見てしまった。真正面にいるウルフ。そっと目を伏せれば額にくちづけられた。
「ずっと一緒にいる。だから、嫌でもいずれわかるでしょ」
 言葉を証し立てるよう、ウルフは腕の中にサイファを抱き込む。すっぽりと包まれて気づく。成長したのは背だけではないらしい。旅の途中より、ずいぶん逞しくなっていた。
「あんたが信じたくなくったって、離れないから」
 囁き声。それは誓いなのかもしれない。腕の中でサイファは微笑む。もうこの男を離したい、とは微塵も思っていなかった。
「サイファ」
「なんだ」
「その……」
「早く言え」
「だって」
「なんだ、と聞いている」
「まだ……怒ってる?」
 魔法を放つことはない、と思った途端にサイファは後悔した。やはりこの馬鹿は死んでも治らないらしい。呆れて溜息をつけばウルフががっくりと肩を落とす。
「怒ってる、よね?」
 恐る恐る問うのに、サイファはついそうだ、と答えたくなる衝動をこらえるのに必死だった。
「やっぱり」
「なにがだ」
「まだ怒ってるな、と思って」
 再度、溜息をつく。それからわずかに体をそらし、ウルフの顔を見据えた。
「お前の馬鹿は演技だと言った」
「うん」
「訂正する」
「どこを?」
「本物だ」
「サイファ!」
「なぜ怒る。馬鹿を馬鹿と言ってなにが悪い」
「ちょっと、酷くない?」
 落胆を隠せない様子のウルフをサイファは鼻で笑い、それからあらぬほうを向く。少しばかり、照れくさかった。
「私の気持ちがわかるのでは、なかったのか」
 サイファにしては直截的と言っていい、それは肯定だった。ウルフがどう感じたか、見るまでもない。腕に力が入り、息苦しいほど抱きしめられた。
「サイファ」
 震える声が名を呼んだ。サイファは答えず。黙って彼の肩に額を寄せる。ぬくもりが心地良かった。不安になる。また失うのではないだろうか、と。次はないような気がする。いくら師との約束があろうとも、次は生きてはいられないような気がする。
「一緒に旅に出よう」
「……どこへ」
「半エルフの最後の旅ってやつ」
「旅……」
「そこだったら俺とあんたと、一緒にいられるかもしれないでしょ」
「そうではなかったら?」
「だったら、別のどこかを探しに行けばいい」
 単純にして明快だった。サイファは微笑み、この馬鹿な男が自分を裏切ることは二度とない、否、裏切ったことなど一度もない。不意にそれを確信した。
「ずっと、着かないかもしれない。どこにもないかもしれない」
「そうだね。でも俺はあると思うよ」
「根拠は」
「あるわけないじゃんか」
 あっさり言って頬にくちづけ。嫌がらないのをいいことに、額にも。それからまるでそのことに照れたよう、ウルフはサイファの髪に顔を埋める。
「俺が死んじゃうと思ってる?」
 ウルフがそう言ったのは、それからしばらく経ってからだった。サイファは認めたくないことを知らせるよう、渋々うなずく。
「俺と別れたくない?」
 今度の問いは笑いを含んでいた。抗議半分、からかい半分。サイファはウルフの背中に爪を立てる。そして返事の代わりに額を彼にすり寄せた。
「もし、どこにもなかったら。もし俺の寿命がきちゃったら」
「いい、言うな」
「黙って」
 言ってウルフは腕を緩めた。吐息がかかる距離で見つめられた。羞恥に目をそらしたくとも、ウルフの視線はそれをさせない。黙ってどれほど見詰め合っていただろう。
「そのときは、俺があんたを殺してあげる」
 サイファは微笑んだ。ウルフに向かって。何よりも甘い、最上の言葉だった。
 一瞬、ウルフは驚いたよう目を見開き、次いで応えて笑う。会わないでいた時間にウルフは変わったのかもしれない。ずいぶん、男らしい顔をするようになった。サイファは思い、そして内心で否定する。
 旅の間からずっとそうだった。自分にだけは、彼は大人の顔を見せた。兄弟と話しているときには決して見せない顔を、二人きりの時にはしていた。
 あの頃から、ウルフが意識していなかったときから、彼は変わっていない。サイファだけを一心に追っている。いままでも、たぶん、これからも。
「それはいいな」
 ウルフに自分を殺せるはずはなかった。もしもその時が来たならば、彼は生きろと言うだろう。だが、なぜかサイファは漠然とした思いを抱いていた。
 二人で暮らせる場所が見つかるような気がする。半エルフと人間と。流れる時を同じくしない生き物が、共にいられる場所。あるのだろうか、そう自問すればある、と答えが返ってくる。
 それは心躍る思いだった。
「サイファ」
 呼び声に目を向ける。呼んだのではなかった。ウルフの無言の要求に、サイファは応えて目を閉じる。唇が触れ合う。
 軽く、そっと。問うように触れすぐに離れた。もう一度。嫌がらないのを確かめるよう、ウルフはくちづける。
「サイファ」
 掠れた声が彼の心を物語っていた。少し早まった鼓動を聞いているのが嬉しい。自分の耳に届いているよう、彼の耳にも自分の鼓動は聞こえてしまっているのだろう、そう思えば身の置き所がなくなりそうだったが、それでもいい、そう思えるだけウルフを愛しく思う自分がいる。
「嫌じゃない?」
 わざとらしく問うてはウルフが笑う。照れ隠しにしては酷いやり方だった。腹立ち紛れ、サイファは彼の背中を殴りつける。それほど強くはなかったはずなのに、冗談なのだろう、ウルフが悲鳴を上げて痛がった。
「嫌じゃなかったよね?」
 しつこい、怒鳴りかけて気づいた。真実、不安なのだろうと。だからサイファはうなずいた。かすかではあったけれど、確実にウルフには伝わっただろう。
 それを証明するよう、ウルフの指が顎先を捉える。今度のくちづけはもう遠慮などなかった。舌が唇を割る。這入り込み、絡みつく。ウルフの腕が腰を抱き、サイファの腕は彼の首を巻く。
「サイファ」
 ゆっくりと、名残惜しむよう唇が離された。濡れたそれをもう一度吸われた。途端に羞恥が蘇る。が、サイファは顔をそむけたりはしなかった。ただ少し、伏せただけ。
「お願いがあるんだけど、いい?」
「なに」
「あれ、すごく落ち着かない。消してくれるとありがたいなぁって」
 言ってウルフが指差した先にあったものは。水盤。サイファは声にならない悲鳴を上げて、ウルフを突き飛ばす。
 いまだ水盤の上に浮かんで微笑んでいる師の顔をまともに見ることができない。手の一振りで幻影を消した。
 背後から聞こえる笑い声もそのままにサイファは窓辺へと歩み寄る。火照った体を冷やしたくて大きく窓を開いた。と、目に飛び込んでくるのは萌え出たばかりの青い草。
「あ、綺麗だね」
 背中からウルフに抱かれていた。全身を包み込むぬくもりを感じながら、訪れたばかりの春の風に吹かれる。かつて覚えた例のない、それは幸福だった。



 馬の背に揺られていた。サイファはあの野生馬に、ウルフは別の一頭に。サイファが風の娘、と名づけた野生馬は、すでに数年前に仔を産んだ。すっかりと落ち着いて大人になった今も、サイファの声に応えて背を貸してくれる。
「いいの?」
「あぁ」
 遠く、ラクルーサの王宮へ続く街道が見えている。サイファは街道の果てに住まう兄弟を思う。こうして黙って旅立ったことを知ったら、きっとアレクは怒るだろう。そう思えば知らず苦笑が浮かぶ。
「元気でね!」
 突然、ウルフが馬上に立ち上がり手を振った。驚く馬に振り落とされそうになり、ウルフは慌てて手綱を取る。そんな彼をサイファは笑って見ていた。
「行くぞ」
 風の娘の鬣に指を絡ませれば彼女は勢いよく走り出す。ウルフの馬がそれを追い、二人して遊ぶよう、駈けては止まり、また駈ける。
 何度かの夜明けと夕暮れの後、二人は海辺に立っていた。人気のない、寂しい場所だ。かねて用意の小船を浮かべたウルフがサイファを振り返る。
「行こうか」
 サイファは答えず、ウルフが押さえる船端を軽く飛び越えれば、ウルフがすぐさま続く。二人して自分たちの稚気がおかしいと笑った。
 船は進む、青い海の果てへと。それがどこへ続くのかは誰も知らない。繰り返す波に揺られるのも、穏やかな海風に吹かれるのも心地良かった。体を寄せ合って眠るのも。
 いつのことだろうか。目覚めればそこは深い森だった。サイファは驚き、飛び起きる。夢の中なのだろうかといぶかしみながら。ずいぶん前、あの神殿の施療院で見た夢の森に、よく似ていた。
「起きた?」
 ウルフがそっと体を抱いた。彼がいることに安堵する。けれどそうであるならば、これは夢ではないということになる。
「ここは、どこだ。何が……」
「俺にもわかんないって。目が覚めたらいきなりこれだもん」
 言ってウルフは大仰に両手を広げて肩をすくめては笑う。サイファは呆れ、軽くウルフの肩を小突いた。
 辺りを見回す。鮮やかな緑の広がる大地にいた。艶やかでこれ以上ない生気にあふれている。垂れ下がる蔓が風もないのに揺らめき、ぽってりとした果実がたわわになっている。花は蜜を滴らせ、濃厚な香りを放っていた。
 サイファは深く呼吸をする。徐々に湧きあがってくる思いが次第に確信に変わる。ウルフを振り返れば、彼は微笑んでサイファを待っていた。
「着いたみたいだね」
 サイファが言うより先にウルフが言う。甘い木々の香りがする。サイファはウルフの胸に顔を埋め、信じ難いとばかりに首を振り、そしてまた森を振り返る。
 半エルフと人間と。共に暮らせる場所はあるのだろうか。そうして出た旅。旅は終わった。それより長い旅が、ここから始まる。
 二人の目が見開かれた。視線の先に白い獣が。二頭の雪よりもなお白い一角獣が遊び戯れ、光に躍る。木漏れ日に、木下闇に、一角獣は様々な光の模様を描き出す。そんなある日の事だった。




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