光が闇へと変化する。暗黒を抜けた途端、背中に衝撃が走った。呻き声を上げたはずが声にもならない。 サイファは壁に叩きつけられていた。同時にその体の上にウルフが激突する。二重の衝撃に、サイファは仰け反り、そのままずるりと床に落ちた。 「サイファ!」 真の銀の鎧に守られていたのだろうウルフは慌てて起き上がり、サイファの体を揺する。 「触るな!」 絞り出した声。呼吸するだけで胸に激痛が走る。 「ごめん……」 急に、ウルフの声が覇気を失った。そのままがっくりとサイファの側に膝をつき、目をそらす。 「……違う」 「なにが」 「痛い。少し、待て」 「あ……」 振り返ったウルフの赤毛が跳ね上がる。何かができはしないかと手を伸ばしかけ、また引く。そのウルフのためサイファは魔法の光をひとつ、作った。 「サイファ!」 驚いた声を出すウルフに視線だけを送れば青ざめた顔。 「大丈夫?」 恐る恐る尋ねてくる。サイファは答えない。答えられない、と言った方が正しかった。 手で胸を探る。肋骨が何本か折れていた。幸い内臓には突き刺さっていないらしい。ほっと息をついてはその痛みに顔を顰める。 目を閉じた。覚悟を決めてゆっくりと息を吐き出す。そして鋭く吸い込んだ。嫌な音がして、骨が元の位置に戻る。額に汗が浮かんでいるのが自分でもわかった。 「サイファ……」 ウルフが手でそれを拭ってくれる。目を開ければ唇をわななかせたウルフがそこにいる。サイファは息を吐き、また吸う。鈍い痛みがあるが折れた骨は尋常の位置に戻ったらしい。 「骨が折れた」 「……そんな」 「いま戻した。少し経てば繋がる」 「無茶言うなよ!」 「大丈夫だ。魔力に満ちているのが幸いしたな」 真実だった。ここが通常の場所であったならば、いかにサイファと言えども身動きできなくなっていただろう。 「……ごめん」 「まったくだ」 「俺……」 「お前が死にたがるから、こういうことになる」 「え……サイファ……」 「わからないと思ったか。兄弟にだって、知れているはずだが」 少しずつ、痛みが引いていく。だがまだ起き上がれるほどではない。横たわったままサイファはウルフを見上げた。黙ったままのウルフ。否定を口にはしない。それが答えだった。 「なぜ、死にたがる」 「俺はここで死ぬ――」 「運命だからか? 馬鹿な」 「だって、そのほうがいい」 「なにがだ」 「誰にとってもそのほうがいいじゃんか。これ以上、サイファを傷つけずに、済む」 死なれるこちらの身にもなれ、怒鳴りかけては痛む胸に阻まれる。痛んだのは骨か、別のなにかか。 「俺、あんたが好きだ。一緒にいたらまた……。だから、死ねばいい。許してもらえないことしたんだ。繰り返したくない。でも繰り返しちゃうよ」 ウルフは膝を抱えていた。魔法の明りの中、ぼんやりと赤毛が見える。色を失ったようなウルフがそこにいた。 「なぜそう決める」 ぽつり、サイファが呟いた。その言葉にウルフが勢いよく顔を上げた。かすかに笑う。自嘲、か。彼らしくない顔をしていた。 「決めるもなにも!」 「そもそも許していないと誰が言った?」 「じゃあ聞くけど。俺のこと許せるの? あんたを強姦したんだよ。わかってる?」 わざとそんな言葉を使う。あっさり死ねと言われることを、あるいは殺されることを望んでいる。ウルフにとって、シャルマークの大穴に挑むと言うことは、今となっては緩慢な自殺に等しいのだろう。 「ならば私も尋ねよう。あのとき私が本気で抵抗したと、いまでもお前は思っているのか」 「抵抗したじゃん」 「最後までは、しなかった」 「そんなの……、そのほうが早く終わるからでしょ。そうじゃないの」 サイファは顔をそむける。ただ恥ずかしかった。こんなことをなぜ真顔で言わねばならないのか。口で言わなければ理解できないウルフがいまは恨めしくてならない。 だが、ウルフはその仕種を誤解した。サイファの顔を追うように見、そして笑い声を上げた。嫌な笑いかただった。視線を戻せば、涙も流さず泣いている。 「馬鹿か」 「馬鹿だよ、知ってるでしょ」 「お前な……。本当に嫌だったならばお前を殺してでも抵抗した」 「できるわけないじゃん。魔術師の非力さで」 「自分で言っていることがわかっているか? 魔法を叩き込む、と言っている」 「え。あ……」 「あの状態でも魔法を放つことはできた。多少、力の制御が心許ないが、そもそも殺すつもりだったら死体が肉片になろうとどうと言うことはないからな」 「サイファ……?」 「私は抵抗できなかったんじゃない。しなかったんだ」 「俺……じゃ……」 「許している。だから死ぬなと言っている。いい加減に理解しろ。この馬鹿!」 罵りに、返ってきたのは言葉ではなく。おずおずと手が伸びてくる。かすかに頬に触れた。サイファはその手に自分のそれを重ねウルフを見上げた。 「俺、側にいていいの」 サイファは答えない。代わりに少しだけ、笑って見せた。ウルフの表情から強張りが解けていく。 「サイファ」 名を呼ばれるだけで身の置き所がなくなりそうだった。視線を伏せてサイファは体を起こす。そして辺りを見回した。 「一階の小部屋だろうな」 狭い部屋に見覚えはないものの、構造を考えればそこに飛ばされたと見るが当然だった。 「サイファってば」 かすかな笑い声。ウルフが還ってきた。抜け殻ではない、生きたウルフが側にいる。それが例えようもない充足感をもたらしていた。剣に頼るまでもない、いまウルフが歓喜に包まれていることくらい、顔を見なくともわかる。自分もまた、同じだったから。 羞恥を払うよう、サイファは呼吸を繰り返す。胸の痛みが薄らいでいた。凄まじい速度で骨が繋がっている。 立ち上がった。ふらつきもしない。怪我は完全に治っていた。それを確認するよう、サイファは体を動かす。どこも痛みはしなかった。 「大丈夫なの」 「問題はない」 「良かった……」 ウルフもまた立ち上がり、軽く腕に触れて息をつく。自分が激突したせいだ、とでも思っているのだろう。あるいは死にたがったせいだ、と。 「行くぞ」 「ん……」 軽く答え、ウルフは剣を取る。先に歩き出したサイファを追い抜き、そしてウルフは立ち止まる。 「どうした」 怪訝な顔をしたサイファに向かいウルフは何かを言いかけ、けれど口ごもってうつむく。 「サイファ」 「なんだ」 「俺、馬鹿だから」 「よく知ってるが」 「あのね、サイファ。側に、いていい?」 ウルフが同じ問いをした。やはり、言わねばならないのか。天を仰ぎかけ、ウルフの懇願の目に気づく。 言葉などなんになる。そう思っているわけではない。仮にも魔術師。言葉という物の威力を誰よりも知っているのだから。 言いたくないわけではない。言う気がないわけでもない。言えないのは、ただ。 「サイファ」 泣き出しそうな顔をしていた。こんな人間のどこがよかったのだろうか、自問する。答えなどない。思いを寄せてしまったものは仕方ない。何がいいのかと問われても、ウルフがよかったのだから、どうしようもなかった。たとえたった数十年で死んでしまうとしても。 答えないサイファにウルフが目を瞬き、そしてうつむく。その頬に手を添えた。驚いて見上げてくる目。覗き込んだ。茶色の目に、自分が映っているような気がして、いたたまれない。サイファはわずかにかがみ、そしてそのまま軽くくちづけた。 「サイファ……」 「そう言うことだ。行くぞ」 「うん!」 赤く染まった顔を見られたくなくて、サイファは顔をそむけて歩き出す。扉を抜けた。慌ててウルフが追いすがり追い越した。やはりそこは一階の転移の罠のかかっていた廊下だった。 「俺が先に行くから」 後ろは自分で気をつけて、そんな頼もしいことを言ってのける。サイファは苦笑し、突如として立ち直ってしまったウルフの背中を見つめて歩いた。 あれだけのことでよかったのなら、もっと早くそうすればよかったと後悔しないでもない。そう思った途端、蘇るくちづけの感触。思わず唇に手を当てていた。 「サイファ」 「なんだ」 「あのさ……」 前を見たままウルフが話しかける。警戒はしているものの、一度歩いた場所だけに緊張の度合いは高くはない。 「俺のこと、ちょっとくらい、好き?」 そんな馬鹿なことを尋ねてきた。呆れて物も言えないとはこのことだろうか。サイファは内心で深く溜息をつき、そして言い放つ。 「嫌いだ」 「……ありがと」 「嫌いだ、と言っている」 「うん。俺もあんたが好きだよ」 「お前なんか、大ッ嫌いだ!」 「サイファ。好きだよ、あんたとおんなじくらい、俺もね」 嬉しげなウルフの言葉にサイファは、後ろから思い切りその赤毛を殴りつけた。 「痛いなぁ、もう」 そう言った声音さえ、ウルフのそれは嬉しそうだった。 |