サイファを先頭に湖を渡る。やはり、以前と同じように水は割れ、わずかに濡れた大地を踏んで一行は対岸に足を踏み入れる。 「サイファ、見て」 「見張り、だな」 「そうね。壊れてるけど」 アレクの指し示す先にあるのは破壊された竜牙兵の残骸。粉々の骨片にまで壊し尽くされてはいたが、湖の向こう側で一行が遭遇したものと同じであることは明白だった。 「誰がやったと思いますか」 「魔族だろうな」 「やはり……」 「そう、思っていたのだろう?」 「えぇ。ですが、さすがに多少は怖いですよ」 言いながらシリルは笑う。言葉ほど、怖がっているようにも緊張しているようにも見えなかった。 「行こうよ」 焦っているのだろうか。ウルフが仲間を促した。珍しいものでも見るような目でアレクが視線を流し、なにも言わずシリルの腕を取る。 「そうね、行きましょ」 たいした距離は歩かなかった。なにしろ、湖の小島からも見えていたのだ。シャルマークの大穴は、目の前にあった。 ある、はずだった。視力が奪われたような闇がそこにある。濃密で濃い。夜の闇よりも遥かに暗くおぞましい。 「これ、どうしようかしらね?」 途方に暮れたよう、アレクが呟く。触れたならばねっとりと手に絡みつきそうな、現実感のある闇がそこにあることが信じがたいのだ。 「少し待て」 サイファは言い、闇の一歩手前にまで近づく。無言でウルフがついてきた。気配で剣の柄に手をかけていることが知れる。 サイファは目を閉ざす。視覚を遮断し、精神を凝らす。そこには目に映るのとは違うものがあった。 「わかった」 振り向き、仲間を呼び寄せた。ちらり、目の端で何かが動いた。見張りだろう、そう思う。手出しをする素振りはなかった。この期に及んで奇襲もあるまい、とサイファは黙殺することに努めた。 「どうよ?」 「幻覚、だな」 「なにそれ」 「大穴、と言われていただろう? どこが穴だ」 「そうね、言われてみれば……」 「おそらく、この闇の向こうにかつての王宮があるのだろう。変異はしているだろうがな」 「……ちょっと怖いわ」 アレクの口調はシリルより現実味があった。魔法的な耐性を持たない彼のこと、この場に満ちる物の正確な洞察ができないのだろう。だから、恐怖する。 「帰るか?」 彼の気持ちをほぐすよう、サイファは茶化す。案の定アレクはにやり笑って答えない。 「では、行こう」 軽いサイファの口調に仲間がうなずく。シリルが当然のよう、アレクの手を取る。ウルフがサイファの横に立つ。 「手を出せ」 戸惑うウルフの腕を強引に取った。引き寄せ、離さない。そのまま歩いた。 「前に進むことだけを考えろ」 サイファの言葉に前を向いたまま兄弟がうなずく。 闇に、足を踏み入れた。ずぶり、沈み込みそうになる。幻覚だ。自らに言い聞かせる。ウルフが倒れ込みそうになる。なにもない場所に足をとられたのだろう。強く腕を引いた。 「サイファ」 「黙って進め」 意外としっかりした声にサイファは安堵する。戦いを前にウルフが自分を取り戻してくれれば。そんなことを思う。 どれほど歩いたのだろうか。たった三歩かもしれない。十年も歩き続けたかもしれない。 「抜けた!」 シリルの、大きくはなかったが歓声が聞こえるまで、一行は時間というものを喪失していた。 「すごい、汗」 アレクが額を拭っている。見ればウルフの額にもじっとりと汗が浮かんでいた。ようやくサイファは思い出す。人間が闇を恐れる生き物だと言うことを。今のウルフには酷だったかもしれない。懸念を浮かべてウルフを見れば、頼りないながらも笑みが返ってきた。 ほっと息をつきかけ、こんなに心配させたウルフに対して怒りが湧いてくる。湧いた、と意識する間もなくサイファは体ごとウルフからそむけていた。 「アンタの言うとおりみたいね」 「なにがだ」 「王宮よ、ここ。たぶんね」 アレクの言葉にサイファをはじめ全員が改めて周りを見渡した。 ここはどこだったのだろうか。華美な装飾が施された巨大な空間。高い天井。朽ち果てた絨毯が奥に向かって伸びている。そしてそのすべてが重たい何物かに支配されていた。 「大広間への控えの間ってところかな」 「そうね、そんな感じ」 「と言うことは、王宮の門とかはどうなったんだろうね」 「どうでもいいじゃない」 「闇に飲まれたときに崩れたか壊れたか。邪魔だから壊したのか。大方そんなところだろう」 「なるほど」 サイファの答えにシリルがうなずく。そして思い出したよう明かりをつけかけるのをサイファが制した。 魔法の明りを灯す。白い、清浄な光に仲間がほっと息をつくのを感じた。そしてふと疑問に思う。この場所は暗いはずなのに、なぜ彼らに見えのだ、と。 サイファはぐるりと見回し、そして自分の思いを確かめた。室内が燐光を放っていた。光苔などではない、もっと魔法的なもの。薄い緑にかすかに光を放っている。どこか不安を誘う色だった。 「落ち着かないわね」 ぽつり、アレクが言う。そして自分を奮い立たせるよう、頭を振れば背中で金の綱が跳ね上がる。サイファは知らず笑みを浮かべかけ、そのまま凍った。 「どうしたの?」 「いや……」 「そっか」 「少し待て」 やっとまともに声をかけてきたと思ったらあっさり引き下がるウルフに苛立つ。別に答えたくないわけではない、考える時間が欲しいだけのこと。サイファはゆっくりと呼吸をする。それに自分の正しさを知った。 「当然と言えば当然だが。ここは非常に魔力に満ちている。多少の怪我なら瞬時に治りそうだ」 「便利ねぇ、アンタって」 「そんな言い方、しないでよ」 「一々突っかからないの、坊や。からかってるだけよ」 ふわり笑ってアレクがウルフの赤毛をかき回す。不快げに見たサイファに視線をあてればつられたようウルフがこちらを見るのに閉口する。 「サイファってば、焼き餅かしらー?」 「黙れ」 「はいはい」 「サイファ、大丈夫なんだね」 かすかに微笑ったのだろうか。ウルフの笑みが以前のもののように感じられ、サイファは胸が苦しくなる。こんな場所にいると言うのに。 「あながちアレクの言葉は間違ってはいないからな」 「どういうこと?」 「半エルフは半ば魔法的な生き物だ。魔力の満ちた場所にいれば治癒も早い。大きな魔法を行使しても疲れにくいしな」 「……安心した」 「するな」 「え?」 「魔力に満ちているということは敵もそれだけ強いと言うことだ。お前が防がなかったら私は死ぬ。覚えておけ」 「……うん」 うつむいたウルフの顔は見えなかった。けれど剣が伝えてきたもの。それは歓喜。必要としている、それを言えばいいのか。こんな婉曲な方法であっても。魔術師が、戦士を必要としている。それ以上のことは言っていない。言葉の裏にある意味など、彼は理解できない。それなのに。 「さ、ご招待に応じないといけませんよ、サイファ。行きましょう」 「どういうことだ?」 「だって、絨毯が敷いてあるじゃないですか。朽ちていますけどね」 言ってシリルが場違いなほど晴れやかに笑った。あるいはそれは、多少なりとも二人の関係が回復した、それを喜んでのことだったのかもしれない。 「なるほど、そういう考えもあるな」 サイファはこの破天荒に明るい考え方に呆れながらも気持ちが軽くなるのを否定できない。肩をすくめて兄弟に続く。 先頭を進むのはアレク。罠の有無を見定めながらゆっくりと歩いている。その足元にサイファは魔法の明りを飛ばしていた。そしてわずかに下がってシリルが行く。なにかあればすぐに愛する兄を守れるように、と。 サイファはその後ろ。体に満ちる魔力の暴力的なまでの心地良さに酔わないよう気を引き締めて。いつでも発動させられるよう、呪文を待機させていた。最後はウルフ。サイファの後ろは自分が守ると。真の銀の鎖鎧は音さえ立てない。静かな足音だけがウルフの存在を知らせていた。 「大丈夫そうよ」 絨毯の突端。扉を調べていたアレクが振り返って笑う。極度の緊張を強いられるせいだろう、拭ったはずの額にはもう汗が浮かんでいる。 「アレク、代わろう」 「よろしく」 「お安い御用で」 茶化してシリルが言うのにアレクが喉を鳴らして笑う。まるでアレクのような軽口にサイファも緊張を解いた。 「頼もしいね」 掠れ声。ウルフが笑ったのだと知れた。緊張がほどけていく。ウルフが元に戻れば大丈夫だ、そんな根拠のない自信が沸いてくる。 「そうだな」 真正面から彼を見る。はっとうつむきかけたウルフの顎先を指で捉えた。 「サイファ?」 「うつむくな。自信を持て。しっかりしろ」 「ん……」 仄かに明りが灯ったような、そんな笑み。いつかこれが輝くことがあるのだろうか。いま持ったばかりの自信がなくなりそうな気がしてならなかった。 |