闇の中、眠れなかった。サイファは一人、何度も寝返りを打っては眠りに入ろうとする。溜息だけが耳障りだった。 「馬鹿か」 言ったのは、誰に対してだろう。自嘲かもしれない。ふっと笑ってサイファは起き上がった。知らず、ローブの胸元をかき合わせる。そして立ち上がった。 扉を抜け、もうひとつの扉の前、立ち止まる。ためらった。苛立ちが募ってどうしていいかわからない。唇を噛んでうつむいた。 大きく息を吸う。苛立ちがなにに基づいたものか、悟った。サイファは黙って扉を開ける。多少、乱暴だったかもしれない。 「誰?」 暗い部屋の隅、壁にもたれてウルフが座っていた。眠っているだろう、と思ったのに彼はそうしていなかった。ぼんやりと、なにを考えていたのだろう。 「サイファ……」 無言でサイファは突き進む。ウルフの傍らに立ち、そのまま手を伸ばす。ウルフの腕を取った。引き倒す。ぐらり、揺れて彼は倒れた。 「なにするの」 口先だけの抗議。抗議ですらなかった。ただ確かめているだけ。あるいは習慣に従って問いかけただけ。 サイファは答えない。目をつむって息を吸う。吐く。決心して、その場に座り、そして。 「サイファ!」 ウルフが驚いて声を上げた。あれからはじめての、生気ある声だった。 サイファは目を閉じたまま、ウルフの腕の中にいる。温かいのに、少し震えた。悔しくて、ウルフの背中にまわした手を握り込む。 「無理、しなくていいよ」 硬い声に戻ってしまった。違う、と全身で言っているのに通じない。胸に額を押し付けた。 「サイファ……」 「寒いだけだ」 「え……?」 「寒いんだ」 「……そっか」 緩く、腕がまわってきた。けれど声は強張ったまま。どうしたら通じるのか。アレクの言うよう、口にすればいいのか。ウルフがそれで信じるとも、思えなかった。 「サイファ」 ただ呼ぶだけの声。自分を呼んでいるとは思えない声。言葉が音の連なりにしか、聞こえない。 「様子がおかしい、とアレクが気にしていた」 自分も気にしている。素直に言えばいいのに言えないでいる。こうやって胸の中で唇を噛む以外に何をしていいのか、サイファにはわからない。 「アレクが、か」 ぽつり、言ってウルフが笑った。それから気にしないで、と言うよう背中を軽く叩く。 「俺、死んでこいって言われたって、言ったよね」 「あぁ」 「もうちょっとちゃんと言うとね、シャルマークに行って死ねって、言われてたんだよ。少しでも魔族討伐して、死ねってね。そのために剣、習わされたんだよ」 「そんなことが」 愕然としたサイファにウルフは淡々と続ける。 「あるんだよ。だから、シャルマークで死ぬのはやっぱり俺の運命なんだな、と思って。そんなこと考えてたから、変に見えたんだと、思うよ」 「死なせない」 「サイファの目の前では、死なないよう努力する」 「そういうことを言っているのではない」 「サイファに、嫌な思いをさせたくないからさ」 「死なせないと言っているッ」 噛みあわない会話。ウルフが静かに話す分だけ、サイファは激高する。やはりウルフは馬鹿だ。死なせない、どういう思いで言っているのかまるでわかっていない。 腹立ちまぎれ、背中を殴りつけた。ウルフは冗談の抗議さえ、しなかった。 「お前は死なせない」 「……それもいいかもね」 「なにがだ」 「サイファが自分で殺せるように」 見えないウルフが笑った気がした。怒る気にもなれなかった。唇がわなないていた。悟られたくなくて、顔を埋めた。無意味な体温が、伝わってくる。 「ごめん、サイファ。やっぱり――」 「うるさい!」 「ごめんね」 「寝ろ。うるさい。黙れ。お前なんか、知らん」 言葉とは裏腹に、サイファはウルフの背中を抱きしめる。きつく抱いた体が遠くて仕方ない。こんなに温かいのに、ウルフはここにいない。 こんなことならば、苛々しながら一人で眠ったほうがずっと良かった。唇を噛んだのは声が漏れないようにするため、だった。 「おやすみ、サイファ」 ウルフの心がここにない。あんなにあからさまだったウルフの感情がどこかに行ってしまった。サイファは答えることもできず、うなずくことも出来なかった。 破れた窓から射し込む朝日。目覚めてサイファは半身を起こす。ウルフはもう、起きていた。 「おはよう」 かすかに浮かんだ笑顔。それでもサイファは内心で溜息をつかざるを得ない。ウルフはまだ、ここにいなかった。 黙って起き上がり、なにも言わずに部屋に戻った。荷物をまとめる間、ずっとウルフのことを考えていた。 あのままでは死ぬ。死にたがってさえいる者をどうやって止めればいいのか、師は教えてくれなかった。 「どうしたら、いいの」 知らず語りかけていた。千年も前に死んだ人間に。そしてサイファは苦く笑った。これがあるから、信じないと言うのか、ウルフは。 思い出は、思い出でしかない。過去は変えられない。過ぎて来た道があってこその、自分だ。それがウルフにはわからない。 あるいは。まだ思いを残していると誤解している。指輪のことで誤解は解けた、と思ったはずなのに、まだ何か抱え込んでウルフは離さない。 サイファは荷袋の紐を締めながら深く吐息をつく。懐旧と愛情の区別もつかない馬鹿に思いを寄せてしまったのが運の尽きだった、と。 荷物を下げて、ウルフの部屋を覗きに行く。馬鹿はまだぼんやりしていた。サイファは頭を振って髪をさばく。 「ほどけた。直せ」 言ってサイファは例の革紐を突き出した。 「あ……」 「早くしろ」 「直して、いいの」 「やれ、と言っている」 言うだけ言ってサイファはウルフに背を向け腰を下ろした。おずおずと近づいてくる気配。そっと髪に触れた。 不器用な手が、髪を梳かしている。どうやったらこれほど拙い手になるのか、理解できない。何度も引っかかりながら梳かした髪を、これ以上ないと言う無様さで戦士の指が結ぶ。結んだ革紐がきちり、と鳴った。 「ありがと、サイファ」 ふわり、背中から抱かれた。決してきつくは抱かない。以前だったら、傍若無人に抱いてきた腕。今はまるで別人のよう。 「礼を言うのは私のはずだが」 「違うよ、俺だよ」 なぜだ、問い返しはしなかった。サイファは聞こえよがしの溜息をつき、ウルフを促す。そろそろ階下に降りなければ。兄弟がもう待っているはずだった。 茶化しもせずじゃれもしないウルフが隣を歩いている。やはりまだおかしい。一晩で治るような性質のものではないのだろう、とは思う。 だが、ならばどうしてやればいいのかサイファにはわからない。時間が解決するものなのだろうか。時間は、あるのだろうか。ぎゅっと胸をつかまれたような感覚に襲われた。 「サイファ?」 「なんでもない」 今の扉をくぐれば兄弟はやはりもう、待っていた。二人ともすっかり準備を整えている。朝食の支度をしているシリルの横、呆れ顔でアレクが振り返った。 「なによ、坊や。まだそんな格好してるの?」 「え、あ……ごめん」 「さっさと着てしまえ」 アレクに言われ、サイファに促され、ウルフは武装を整える。慣れた手が、着実に準備をしていく。心ここにあらずであっても、誤ることなく。 衣服の上から革の鎧下をつける。見つけたばかりの真の銀の鎖鎧をまとう。ずいぶん昔のことの気がした、それを見つけたのは。確かめるよう、籠手をつけきっちりと紐を締め上げる。剣帯を直し、剣を佩く。最後に額冠を戴いた。 「ごめん」 「なに謝ってんのよ?」 「だって」 「もう! じれったいわね! なにぐずぐず言ってんのよ?」 半ば茶化したアレクの言葉にウルフはうつむいて答えない。ちらり、こちらを見たアレクの視線をサイファは無視し、ウルフの頭に手を伸ばす。 「サークレット。曲がっている」 「え?」 「額冠」 「あぁ……」 言われてウルフがいい加減に乗せていたそれを手で直す。これでいい、と言う風に見るのにうなずいたけれどサイファは手を戻さなかった。 「じっとしていろ」 「なに?」 答えず。ゆっくりと魔法を紡いでいく。この魔法を自分が誰かにかけるとは思わなかった。密やかにサイファは微笑みウルフの頭に、頬に触れていく。そのサイファの顔が引き攣った。 「抵抗するな」 「なんの、こと?」 「受け入れろ。力を抜け」 ウルフが体を緊張させているおかげで魔法がかけにくくてならない。軽く頬を叩けばウルフが深呼吸する。ほっと息を抜いた所で力も抜けた。 それでいい、と言うよう、サイファは彼の頬を撫で魔法を続ける。守護の、魔術だった。懐かしい日々を思い出す。師が、何度もかけてくれた魔法。あの温かい師の魔法の感覚を、今もまだ覚えている。まるで彼そのものだった、サイファは思い出しながらウルフに触れていく。この、守り包まれている感触がウルフにわかるだろうか。どれほど心安らぐことか、理解できるだろうか。できることを信じるしかなかった。 「これでいい」 「……他は?」 短い言葉だったけれど言いたいことがわかってサイファは薄く笑う。 「シリルは私同様、魔法に耐性がある」 「アレク、は」 かすかに言いよどんだ。サイファは半ばウルフを睨むよう見据える。言い返すこともなく、うつむいてしまった彼にサイファは天を仰ぎたくなった。 「アレクはシリルが守っている。だから必要ない」 「どういうこと?」 「アレクには常にシリルの守護がある。それが『定めし者』と言うことだ」 よくわからないなりにうなずくウルフを見ていた。シリルのように自分がウルフを守った、その意味が彼にわかるだろうかといぶかしみながら。 「相変わらず良くご存知ですね」 沈みかけた空気をシリルが救う。明るく笑ってアレクが食事、と騒ぎ出す。いつもならばそれは、ウルフの役目だった。 |