話すでもなく、話さないでもない。一日、ずっとそうしていた。さすがにウルフが空腹を覚えただろうと階下に降りれば、シリルが食事の支度をしている。どうやら夕食の時間になっていたらしい。
「あら、話し合いは済んだの?」
 アレクが意地悪く笑って言った。ウルフがうつむく。そのアレクをたしなめるよう、シリルが彼の腕を叩いていた。
「坊主」
 低い男の声でアレクが言う。はっとしてウルフが顔を上げた。
「サイファを泣かすな」
 兄弟に歩み寄っていた足が止まる。サイファはウルフの腕を引き、そのまま歩かせる。暖炉の横、腰を下ろした。
「どちらかと言えば、泣かせたのは私だが」
 ぼそり、アレクに向かってサイファが呟く。滑り込んできたウルフの手が、震えていた。
「どういうことだよ?」
「まぁ、色々と」
「そうかい、そうかい。……まぁ、いいわ。伝言、受け取ったわよ」
 言ってにやり、笑った。ころころと変わる声音に久しぶりに眩暈がする。溜息をついたサイファの横で、ウルフが気配をうかがっていた。
「言うな。……言いたいことがあれば言え」
 前半はアレクに、後半はウルフに向かってサイファは言い、それからウルフの顔をじっと見る。
「伝言て、なに?」
「内緒だ」
「じゃあ……」
 意味がない、そう言いたいのだろう。けれどウルフは言葉を切ってしまう。
「サイファはねー、アタシの言うとおりだったって伝言、寄越したのよねー」
「アレクの言うとおり? なにが?」
「なぁいしょ」
「アレクまで……」
「坊やの悪口じゃないことだけは、確かよ。安心なさいな」
「……ない」
 かすかな呟きは、アレクの耳にまでは届かなかったのだろう。彼はそのままシリルの手伝いを始めてしまった。
 けれどサイファには聞こえた。安心なんかできない、と。
 一日一緒にいた。なにを問われても拒まなかった。側に、ずっといた。それなのに。ウルフは信じられないでいる。苛立った。
 いったい自分のなにが信じられないのか。わからないとは言わせない。あのようなことをして許さないだろう、と言っていた。けれど明らかに許している。それなのに。
 サイファは内心で嗤う。これほど自分が不器用だとは知らなかった、と。どうすればウルフが安心できるのか、わからない。なにをしてやればいいのかが少しも。
「サイファ」
「なんだ」
「おなか、すいたね」
 黙ってしまったサイファを気遣うよう、ウルフが言う。ウルフらしくなかった。口調も、態度も。そのためらいがちな笑顔も。
「そうだな」
 けれどサイファはそうやってうなずくことしか出来なかった。
「シリル」
 この緊張感から逃れたくてサイファはウルフから意識をそらす。
「それどうしたんだ?」
「あぁ……」
 言ってシリル微笑む。こちらの意図などお見通しなのだろう。隣でアレクが忍び笑いを漏らしていた。
 シリルが料理しているのは魚だった。小枝に刺して暖炉の側で焼いている。小振りの魚だったけれど、じりじりと音を立てて脂が焼けていた。
「湖で釣ったんですよ」
「釣った?」
「えぇ、天気も良かったので。アレクと二人でけっこうな釣果がありましたよ」
「シリル、器用だね」
「君は釣り、したことない?」
「ううん、やったことはあるけど、上手じゃない」
 ウルフがようやく話に参加しだした。普通に話しているつもりだろう。だがやはりサイファの目には様子がおかしく見えてならない。
「慣れもあるからね。アレク、もうちょっと薪がいるんだ。拾ってきてよ。すみませんが、サイファも一緒に」
「わかった」
 ウルフに有無を言わせないうち、サイファは立ち上がる。
 感嘆していた。同時に激しい思いが湧きあがる。羨ましかった、兄弟が。アレクが何かを話したがっているのはサイファもわかっていた。どうやって席をはずそうか、考えていたのだ。
 それをシリルはアレクを見ていたわけでもないのに察した。そしてあのようなことを言う。アレクの望みを叶えるために。
 振り返らず、居間を出た。ウルフの姿が見えなくなって初めて、サイファは溜息をつく。同じ嫉妬ならば、死んだ人間にするよりアレクにしたほうがよほど建設的だろうに、と。それならばそれで殴りかかるのは同じことではあったが。
「サイファ」
 静かに歩いていたせいで、アレクのことを忘れていた。彼が話したがった、と言うのに。上の空にもほどがある、と自嘲する。
「坊主となにがあった」
「シリルから、聞いたのだろう?」
「そのあと、だ」
「……と言うと?」
 外はすっかり日が暮れている。夜の柔らかに湿気を含んだ大気を深呼吸すれば体の隅々にまで精気が蘇る。
「坊主の様子がおかしい」
「わかっている」
「どうにか、ならないのか?」
「鋭意努力中だ」
 アレクが溜息をついた。どうも真剣に話していないと取られたのだろう。そうではないとの証し半分、サイファもまた溜息をつく。
「坊主、なにを悩んでるんだ?」
「私が許さない、と思っているらしい」
「違うんだろ?」
「許さなかったとする、どうなってると思う?」
「……いまごろ魚の餌だな」
「そのとおり」
 何度目かの溜息をつきながら、サイファは薪になる枝を拾う。意外と流木はたくさん落ちていた。
「念のために聞くが」
「なんだ」
「……言ったんだろうな?」
「なにを?」
「坊主に、それを」
 はっと目をそらした。やはり、言わねばならないのか。そんな恥ずかしいことはできない。思い出すだけで唇を噛みたくなる。
「やっぱり、言っていないな」
 呆れ声でアレクが言う。サイファはそらしていた目を戻しては苦笑する。
「……うまく、行かないものだな」
 思ったより、ずっと情けない声だった。アレクが眉を上げ、いぶかしげな顔をする。
「倫理観の違い、かな。そういうことを口に出すのが、恥ずかしい」
「まぁ、人間でもそうだけどだな」
「そうなのか?」
「アンタが思ってるほど、人間と半エルフとは違わないさ」
「……そう、だろうか」
「そ。どっちにしたってこの地上の生き物だからな」
 言ってアレクが晴れやかに笑う。それで少し、サイファの気も楽になった。それでいいのか、と思う。何を指してそれ、と言っているのかはよくわからなかったけれど。
「戻ろう」
 両手に薪を抱えてアレクが言う。サイファは慌てた。アレクほど、集めていなかったのだ。
「いいって。どうせ口実だろ」
 言うだけ言って、さっさと向けた背中に金の綱が揺れていた。そんなアレクが頼もしくてならなかった。同じほどに羨ましい。あの髪を編んだのがシリルだ、と思えばなおさらに。
 ウルフが黙りがちなのを除けば、食事はいつもどおり和やかだった。安全な場所で火を囲んでいられる、それだけでゆったりとした気持ちになれるのだ。
「明日、どうするの?」
 食後の茶を飲みながらアレクが言った。
「どうするって?」
 ウルフが問い返す。アレクは呆れ顔でウルフを指差す。
「坊や、ここから帰る気?」
「え……そんなことは、ないけど」
「だったら、明日はここに留まるのか、それとも出発するのかって聞いてることぐらいわかるでしょ」
「そっか……」
「で、シャルマークの大穴に、行くのよね?」
「行くよ」
「それでこそ坊やだわ」
 茶化したよう、アレクが笑う。少し、引き攣っていたのにウルフは気づいただろうか。サイファは気づいた。おそらくアレクもまたサイファの強張った顔に気づいただろう。
「俺は、行くべきだから」
 ぽつりとウルフが言った。
「どういう意味だ?」
「……まんま。それだけ」
 サイファの問いもはぐらかして答えない。不安でならなかった。淀んだ空気を払うようシリルが咳払いし、笑みを浮かべて問うた。
「じゃあ、それでいいですか」
「私はいい。お前は」
 こくり、ウルフがうなずく。
「なら、明日は出発しましょう」
 シリルの言葉に一行はうなずき、そして火を消して立ち上がる。旅立つならば眠りは何よりも大切だった。
 他愛ない話を緊張しながらかわしている兄弟に続いてサイファとウルフも階段を上がる。
「おやすみなさい」
 シリルの言葉にアレクも微笑んでひらひらと手を振り、同じ扉の向こうに消えた。
 サイファはまだ黙っていた。なにを言っていいのか、わからない。
「サイファ」
 ウルフの声に彼を見る。嫌な気分だった。ウルフが、寂しげだからだと気づくまでに時間がかかる。
「おやすみ」
 彼はそれだけ言ってかすかに微笑む。ためらいがちに伸びてきた手がサイファの頬にわずかに触れた。触れた、と感じる間もなく引き戻された。
 それ以上、なにも言わずウルフは背を向け立ち去った。サイファは溜息をつく。その吐息に知った。側にいていいと言えば、良かったのだと。そうすれば彼は立ち去りはしなかったのだと。もう、遅かった。




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