いつまで泣いているつもりか、詰問したくなってきた。黙ったまま撫でている赤毛は心地良かったけれど、これでは埒が明かない。サイファがそう思い出した時、ウルフがようやく重い口を開いた。 「死んでこいって、ずっと言われてた」 「誰にだ」 「みんな」 「家族、か?」 「そうだね、家族にも」 いま、どんな気持ちで話しているのだろう。胸が詰まった。 サイファは家族、と言うものを知らない。神人は子供が存在していることをどう考えていたのか知らないが、少なくともサイファは誰を父と呼ぶのか知らなかった。 母は早くに亡くなった。きっと、人間としてはさほど短命でもなかったのだろう。だが、サイファが自己の意識を明確にする前に亡くなったのだ。 神人の子は成長が遅い。身体的成長は人間とさほど変わらないが、精神の面では長い長い幼年期が続く。 だから、サイファが世界を知ったころ、もう母はいなかった。 「だから、俺は死ぬべきだった」 ぽつり、ウルフは言う。そんなことがあるものか、叫びたかった。代わりに知らず力が入った手指がウルフの髪を掴んでいた。 「痛いよ、サイファ」 淡々と言う。本当に痛がっているのだろうか。すまない、謝ってから手を離す。手の中、まだ髪の感触がある。サイファはもう一度ウルフの髪の上、手を置いた。 「死ねって言われたとき、死んでれば……サイファにあんなことしなかった。馬鹿だね、俺」 「そうだな」 「だから、やっぱり」 「馬鹿だ、と言ったのを誤解している」 「どこが」 「いまさら死んでどうする」 「そっか。そうだね、取り返しなんかつかないよね」 背筋が冷えた。膝に伏せているウルフの顔は見えなかったけれど、彼が薄く笑った、そんな気がしたせいだ。 「言えばよかった」 「なにを」 「……自分がなにを思っているかを」 好きだと言えとは口が裂けても言えない。そんなことを要求するくらいなら舌を噛み切ったほうがましだ。だから、そんな婉曲な表現になった。やはり、ウルフは少し笑った。震える手を悟られないよう、そっと髪を撫でる。 「好きだよ、サイファ。いまさらこんなこと言われたって、仕方ないだろうけど」 「だったら、なぜそれを先に言わなかった」 「言えないよ」 「どうして」 「だって……」 ウルフはそれきり、口を閉ざした。言いたくないのがなぜなのか、サイファにもわからない。しばらくウルフはされるまま、じっとしていた。あるいは眠ってしまったのかもしれない、そう思いはじめたときになってまた口を開く。 「……醜いから」 「なにが」 「嫉妬してる」 「誰に」 畳みかけるよう、問う。アレクなどと言ったならば殴ってやろう、そうサイファは決めた。 「お師匠様」 びくり、サイファの手が赤毛の上で痙攣する。サイファは殴ろう、と思ったはずなのに、自分の手がウルフの髪を柔らかく撫でているのに驚いた。 「サイファ、今でもお師匠様のこと、好きでしょ」 「誤解だ」 「そうかな」 「尊敬はしてる」 「でも、ずっと覚えてる」 「半エルフだからな」 「記憶が薄れない? それでも、大事な人だった」 サイファは答える言葉を失った。ウルフが言うことは間違ってはいない。誤解に基づくありえない解釈ではあるが、表面的には間違っていないのだ。 「サイファが、今でもお師匠様のこと好きなんだって思ったら、どうしていいかわかんなくなった。気がついたら……襲ってた」 馬鹿だね、呟いた声に滲む自嘲。 「馬鹿だな」 ウルフの言葉に被せるよう、サイファは断じる。本当に馬鹿だ。説明されて理解した、とは言い切れないが、先に言われていれば自分がどう反応したかくらいは見当がつく。そのつもりだ。 そしてサイファは思い直して首を振る。受け入れたはずがない。互いにとって不幸なことに、おそらくあれは最善だったのだ。 「我が師と私の間には、なにもない」 言って、信じるのだろうか。やはりウルフは信じなかった。ただ小さく笑いを漏らしただけ。 「……そもそも千年も前に死んだ人間に嫉妬してなんになる」 「どうかなる、と思ってたらあんなことしない」 「確かに」 溜息をつき、あらぬ方に視線を飛ばす。不意にウルフの手が触れた。髪を撫でていた手を掴まれた、と気づいたのはそれからだった。 「いつも、触ってるよね」 言われてはじめて気づいた。今もまた、師の指輪を触っていた。 「やっぱり、サイファにとって大事な人だったんだ」 溜息が漏れるような泣き声。どうして信じない。サイファは苛立つ。なにもなかったと言っているのに、いまここに自分はいるのに。 それをうまく伝えられない自分がもどかしくてならなかった。 「大事の意味が違う」 「そうかな。俺にはそうは思えないよ」 「なぜ」 「サイファを好きだから。好きだってわかって、あんたのちょっとした仕種とか、気になるようになったから」 「誤解だ、と言っている」 「じゃあ、なんでこれ持ってるの。魔法とか、かかってないんでしょ。それなのに、ずっと大事にしてる」 ウルフのこだわりはそれだったのか、と疑問が氷解した。ほっと息をつき、サイファはウルフの手に自ら指を絡ませた。驚いたのだろう、頭を持ち上げようとしたウルフを押さえつける。顔を、見られたくなった。 「お守りのような、ものだ」 「どういうこと」 「師は仰った。いつか運命の瑠璃石が現れる、それまでの仮の守り、と。だから、持っている。なんのことだかは、さっぱりわからんがな」 「瑠璃石……」 「そうだ。それだけのことだ」 ウルフが、握った手の指輪を触っている。大切なものを壊さないように、そんな触れ方だった。それにサイファは誤解が解けたことを知る。 「サイファ」 「なんだ」 「ごめん」 「謝るのなら自分がなにを考えてるかくらい、先に言え」 「言えなかったんだ……」 「我が師のことがあったからか」 「それも、ある」 「他に何がある。さっさと言え」 知らず口調が詰問に近くなってしまう。サイファは閉口した。どうして普通に、少なくとも兄弟に話すよう、話せないのだろうか。 ウルフは気にした風もなく、黙って手を握り返してきた。膝の上のぬくもりが、今になって強烈に意識されてたまらなくなった。 「サイファ、俺があんたのこと好きだって知ってたでしょ」 言われて喉が詰まった。ウルフに言ったのはどちらだ。嫌がらせの一つや二つ、しなくては気がすまない。 「シリルと話してて、そう思った」 意外だった。ウルフが自分で辿り着いた結果だったとは。だからサイファはうなずき、それが見えないことに慌てて言葉をつなぐ。 「知っていた」 「だから、逃げるって言った?」 「それもある」 「他には?」 立場が、逆転してしまった。いまや問われるのはサイファ。いい加減な答えをしようものならウルフは許すまい。 「お前は人間だ」 サイファは溜息をついてそれだけを言う。ウルフはわかった風にうなずいた。 「俺が、心変わりすると思ったんだ」 ウルフが理解したことにサイファは驚く。たったあれだけの言葉から、結論を引き出すとは思いもしなかった。 「それが、自然だ」 答えた声は、自分の声とは思えないほど、苦い。あの幻覚を思い出してしまったせいかもしれない。あれが、人間にとって当たり前なのだ。同族と恋をして、子供を産み育てる。そして老いて死ぬ。師のように独り身を貫き通す人間など、砂浜で一粒の砂金を見つけるよりなお珍しい。 半エルフには、ありえない生き方。求めても、叶わない生き方。 「ないよ、そんなこと」 「わかるものか」 「信じてって、言っても無駄だけどね」 「無駄か?」 「うん。あんなことしちゃったから。もうそんなこと言えない」 「気にしていない、と言ったら?」 「それはそれでけっこう傷つく」 軽い笑い声が聞こえ、ぞっとした。何をどう言ったらいいのだろうか。サイファは惑う。 「……言い方を変える」 「いいよ、無理しないで。絶対許してもらえるわけないんだから」 あまりにも断定した言い方に、サイファは溜息をつく。許すと言っている。嫌ではなかったと言っている。態度で、全身で。ウルフは聞こうとしない。 「俺が先に死ぬのも、少しは嫌だったから逃げるって言ったって、思ってたい」 そのとおりだ。なにも間違ってなどいない。喉が締め付けられて苦しくさえなければ、そう言ってやるのに。 「サイファ」 ゆっくりとウルフが体を起こす。抗えなかった。真正面でウルフが微笑んでいる。まるでアレクのようだと思った。シリルに叶わない恋をしていると思い込んでいたころのアレクのよう。 「ごめんね」 呟く声でウルフは言い、そっと触れるだけのくちづけをした。そして立ち上がる。 「どこに行く」 「どこか」 「……死んだりしたら、許さない」 「どうして?」 「そんなこともわからないのか!」 叫んだはずの声は、掠れた小声だった。まるで呟きほどの。サイファは座ったまま、ウルフを見上げる。いま自分はどんな顔をしているのだろう、ぼんやりと思った。 「側にいていいって、誤解するよ」 腰を落としたウルフが触れてくる。ためらいがちに抱かれた。鎧をつけていない体が温かい。肩口に額を寄せる。ウルフの匂いがした。 「誤解はしていない」 声が、聞こえただろうか。サイファが不安になった頃、ようやくウルフはサイファを抱く腕に力をこめた。 |