目を開けた。部屋の中は闇だった。呼吸の音がふたつ。自分のものと、ウルフの。サイファはそっと横を見る。失神したよう、ウルフが眠っていた。
 良い気なものだ、と溜息をつきたくなる。気を失ってしまいたいのは自分のほうだ、と。
 ウルフを起こさないよう、静かに体を起こし、ローブをまとう。サイファは滑るよう、部屋を出て行った。
 向かった先は浴室。体中が痛かった。せめて血を流してしまいたいと思ったのだ。小さな、魔法の明かりを灯す。暁闇に包まれた外は、夜明けが近いだけにいっそう暗い。
 サイファはゆっくりと体を沈める。肌から、ウルフの匂いがした。誰も見てなどいないと言うのにサイファは口許を手で覆い、顔を伏せる。羞恥が耐え難かった。
 気を取り直して、息を吸う。湯が触るだけで痛むか、と思ったがそんなことはなかった。細かい傷など、なかったのだろう。ただ、歩くだけで激しい痛みがあるのは否定できない。
「馬鹿が」
 知らず呟く。もっとも馬鹿なのはどちらだが、わかったものではない。ウルフが馬鹿ならば自分もまた、愚かだった。
 こんなことは知らなかった。他者に興味を持つことなど知らなかったし、教えられもしなかった。なんでも教えてくれた師も、これだけは教えてくれなかった。
「教えようがないか……」
 サイファは一人、苦笑する。浴槽の中、サイファは深く呼吸をした。軽く目を閉じ、意識を集中する。多少、疲れはするが浅い傷ならばこれで治ってしまう。一箇所だけは、治らなかった。
 仕方ない、サイファは溜息をつき魔法の準備動作に入ろうとした。その時だった。
「サイファ?」
 思いがけない声がする。咄嗟に立ち上がり、浴槽に落ちた岩陰に体を隠す。急に動いた体に痛みが走り、サイファは顔を顰めた。
 振り返り、浴室の入り口を見る。人影はなかった。こちらを気遣って見えない位置にいてくれるのだろう。シリルらしい、そう思った。
「どうした」
 反響してくぐもった声。これならばこちらの動揺を察知されることはあるまい、と安堵する。
「手助けが、必要ですか?」
 だが、シリルはそんなことを言う。はっとして唇を噛んだ。
「……聞こえたか」
「少し。聞き耳を立てていたわけではありませんよ」
「わかっている」
「……大丈夫ですか」
「自分でなんとかできる」
「そうですか……」
「できなければ、手を借りる」
「えぇ、そうしてください」
「……一人か?」
「アレクがいると思いました?」
「いないのか」
 いささか意外だった。シリルに聞こえていたのならばアレクも同じだろう。飛んでこないとは予想外だ。
「眠っていますよ、魔法でね」
「え?」
「大変だったんですよ」
 そう言ってシリルが少し笑いを含んだ声で語ったのはこんなことだった。サイファの出て行く音を聞きつけてから、ウルフを怒鳴りに行こうとしたこと、怒り狂って止めるのに魔法を使わざるを得なかったこと、実はと前置きをしてシリルは、
「うっかり嫉妬してしまいそうになるほど、あなたを心配していましたよ」
 そう続けて笑った。
「そうか」
 それしか言えなかった。素直に嬉しい、と言える。それが新鮮すぎて、うまく言葉にならない。
「サイファ、お願いがあるんです」
「聞くだけは聞こう」
「ウルフを、殺さないでくれませんか?」
 意外な、言葉だった。シリルがそんな風に思っていたとは。もしやアレクまでそんなことを思ってるのか、と思えばどこか落ち着かない。
「アレクはそんなことはしないだろう、とは言うんですが。僕は……」
 やはり、そう思ってサイファは物影でひっそりと微笑んだ。
「まだ殺していないし、これからも殺すつもりはない」
 シリルを安心させるよう、サイファは言う。ほっとした気配が向こうから伝わってきた。
「シリル。ついでに私からも頼みがある」
「なんなりと」
「茶化すな。アレクに伝言だ。お前の言ったとおりだった、と」
「それだけでいいのですか?」
「通じるはずだ」
「内緒話ですね。ずるいですよ」
 場違いに明るくシリルは笑う。こちらの気を引き立てようとしてくれている。ありがたい、得がたい仲間だと思う。この兄弟にあえただけでも良かった、妙に素直な自分が気持ち悪いが真実サイファはそう思っていた。
「言うな」
 シリルに答えるよう、サイファは笑って外を見る。夜明け前の闇が薄れ始めていた。
「では」
 短く言ってシリルは立ち去る。その去り際、今日は一日アレクと二人ですごすことにする、そうさりげなく言って行った。
 シリルの気遣いに感謝をこめて片手を上げる。そして岩陰で見えないことに気づいて苦笑した。もう彼はいないだろう。
 浴槽の中から向こうをうかがい、気配がないことを確かめサイファは縁に腰掛けた。ずきり、痛みが走る。改めて呪文を唱え、ある程度治してしまうことにした。魔法で完治させるのはさすがに疲れる。
 痛みが耐え難くはない、と言うところまで治したあと、サイファはまた大きく息を吸った。もう東の空は明るいのだろうか、湖が空の色を映し始めた。
 サイファは忍び笑いを漏らす。アレクがなんと言うだろう、と思って。あれだけ強固にウルフに興味などないと言い続けた自分だったが、正にアレクの言うとおりになってしまった。
 馬鹿馬鹿しさに笑わずにはいられない。ただ、いま部屋に帰ったら平静でいられる自信はなかった。
 理由はどうあれ襲い掛かられたのは不愉快だ。
「馬鹿だからな、仕方ないか」
 溜息と共に呟いてサイファは微笑う。自分の口で説明できるくらいならばウルフもあのようなことはしなかったのだろう。
 そう思えば多少、許せる気分にはなる。気持ちが整った所でようやくサイファは浴槽から上がった。温まった肌からは、もうウルフの匂いはしなかった。
 眠っているだろうとも起きているだろうとも思っていなかった。まだこの部屋にいるだろうな、とその程度のことしか考えていなかったのだ。
 だからサイファは扉を空けた途端、驚愕に目をみはる羽目になった。
「なにをしている!」
 ウルフが喉元に短剣をあてていた。怒鳴り声に振り返った目に生気がない。走り寄って腕を蹴り上げた。飛んだ短剣にウルフの頬が少し切れては血を流す。
「死んだほうが、いいから」
 ぽつり、ウルフが言った。馬鹿か、喉まででかかった言葉をサイファは呑み込みその場に座った。切れた頬に触れる。
「なにしてるの」
 単調な声。なにを話しているのか、意識しているかどうかすら怪しい。
「黙っていろ」
 口の中で魔法を編み上げ、ウルフの傷をサイファは治す。放っておいてもいいような小さな傷だ。だが治さずにはいられなかった。
「それで?」
 薄い傷跡が残り、それもすぐに消えた。それからサイファはウルフを促す。
「なにが」
「なにをしていたのか、尋ねている」
「死のうと思った」
「馬鹿か」
 今度こそ言ってしまった。言ってから軽く後悔はしたものの、口に出してしまったものは仕方ない。
「そうだね。馬鹿だと思う。だから、死んだほうがいい」
「私の見ている前で死ぬな」
「うん……」
 サイファの言葉をどう取ったのか、ウルフはふらりと立ち上がり短剣を拾った。
「どこへ行く」
「わからない。どこか。サイファの見えないところに」
「……いいから座れ」
 諦めた。どうも話が通じない。子供にするよう、傍らを叩いて促せば、抵抗もせずウルフは座る。ただし、少し離れて。膝を抱え、ぼんやりとそこにいる。サイファはその手から短剣を奪った。
「なぜ死ににいく」
「やっぱり、死んだほうがよかったと思ったから」
「やっぱり、とはどういうことだ」
「死んだほうがいいんだ、俺は。そう期待されてたし、そのとき死んでればサイファにあんなことせずに済んだ。……自分が許せない」
「期待されてた? そのとき?」
「……サイファが興味ないことだよ」
「話せ。聞いてやる」
 意外な言葉を聞いたよう、ウルフがこちらを見た。はじめてそこにサイファがいる、と認識したのかもしれない。
「そっち、行っていい?」
 掠れた声。震えた言葉。サイファは黙ってうなずく。
 以前だったならば。ウルフは臆面もなく側に寄っただろう。嫌がるサイファにかまいもせず、体を寄せてもきただろう。
 だが今のウルフはそうしなかった。サイファの許しがあったにもかかわらずウルフはわずかに離れて座る。そしてその場で膝を抱えた。
「おい」
 ウルフの態度が妙に意識されてしまって、シリルに対したよう、素直になれなかった。かすかに唇を噛んでサイファはウルフを引き寄せる。
「サイファ?」
 まだ、どこか遠くにいるような声をしていた。サイファはウルフの腕をさらに引く。膝の上、倒れこんだ。いつもならばこんな簡単に倒れはしなかっただろう。それがつらかった。
「さぁ、話せ」
 膝に上で赤毛が揺れた。うなずいたのかもしれない。サイファはそっと赤毛に手を伸ばす。撫でているうち、嗚咽が聞こえだした。




モドル   ススム   トップへ