まだ腹立ちとも苛立ちともつかないものがサイファの中にあった。横になっているのに寝付かれず、サイファは輾転反側とする。
 廃墟の二階には、具合のいいことに、三つ続いて部屋が残っていた。かつては客間として使用されていたのだろう、とサイファは思っている。
 それも人間用の、と。床が青くなかったのだ。ただそれだけのことだが、神人たちはそういうことをする。
 どこか不快でサイファは仲間たちにそれを言っていない。半エルフである自分は、確かに神人の子ではある。だがしかし、この身に流れる血の半分は地上の、人間のもの。人間を同族とみなすことはなかったが、かと言って神人の一族と思ったこともない。
 何度目かの溜息をつく。今頃、兄弟は眠っているのだろうか。隣の部屋の気配をうかがっても何も聞こえはしなかった。ましてその向こうなどは。
 そしてサイファは自らの行為に舌打ちをする。若造が眠ったかどうかなど、知ったことではない、と。
 つれづれに思う。あの質問の意図はなんであったのだろうか。なにを聞きたいかはわかったが、なぜ聞きたいかはわからない。
「馬鹿が……」
 思わず呟いていた。所詮、人間の若造。気にすることなどないのだ。放っておけばそのうち熱も冷める。
 そう思いはするものの、誰かが違うと叫んでいる。なにが違うのかは、わからなかった。
 思いつく限りの罵り言葉を列挙してみる。古い言葉で、今の言葉で、そして神人たちの言葉で。どれもウルフに相応しいと思い、どれも違うとも思う。そんなことをしているうちにサイファは眠った。
 物音に目覚めたのは、偶然だった。眠りが深い方ではないが、これほど安全な場所であれば、サイファとてゆったりと眠っている。
 き、と何かが擦れる音がし、そして聞き違いかと思うほどかすかな物音。そのうち静かになった。だからサイファはまた眠りに落ちかけたのだ。
 それまでは。
 頬の辺り、何かが触れた。はっと体を起こそうとすれば、手首が掴まれる。
「なにをする」
 そのときにはもう、相手が何者であるか、わかっていた。
「サイファ」
 名を呼ぶだけで答えもしない。ウルフが手首を掴んだまま、サイファの体の上、圧し掛かってくる。頬が引き攣った。
「降りろ」
 できるだけゆっくりと、静かに言った。この程度で怯える男でないことは承知だが、それでも多少の効果くらいは期待していた。
 効果は、ありえない形で現れた。
「……っ」
 声にならない、驚きが激しすぎて。ウルフの顔が近づいてきた、と思ったらあろうことか唇が塞がれた。
 ぬたり、としたものがそこにある。体の震えが止まらなかった。怒りで。半ば自由になっている足を蹴り上げ、サイファは暴れる。
 たやすく防がれた。ウルフが両足を絡ませ、サイファの自由を今度こそ完全に奪う。
「離せ!」
 口の中、血の味がした。物も言わずに体を起こしたウルフが、片手でサイファの手首をまとめて頭上に掲げ、反対の手で自分の唇を拭う。手の甲に血の跡がついた。
「今ならば、許してやる――」
「黙ってて」
「なにを」
 反撃は閉ざされた。また、くちづけられた。滲み出る血の味。噛みしめたはずの歯をこじ開けて、ウルフの舌が入ってくる。
 強く吸われた。絡み合わせられた。ぬるぬるとした、人間ではない、何か別の生き物が口の中に入っているようだった。
 サイファは体をすくませる。そんな自分が許せない、ちらり思いはしたもののどうすることもできなった。ウルフの掌が、肌に触れていた。
 くちづけから逃れようとしている間に脱がされたのだろう。記憶になかった。他者に触れられたことが一度としてない、とは言わないが、このような意図で触れられたことだけは断じてない肌に、人間が触れている。
 そのことだけで、なんとしても逃れたくなる。嫌だった。
「サイファ」
 何度、呼ばれただろう。やめてくれと懇願する気など、さらさらない。それくらいならば殺してでも逃れる。
 殺して。不意に思った単語がいかに不似合いな言葉か、そう気づいてはサイファは愕然とした。
 一瞬、抵抗のやんだ体を、ウルフは見逃さなかった。名を呼びながら、首筋に顔を埋める。サイファが体を震わせた。そっと舐める。
「離せ」
 言った言葉も震えていた。ウルフは離さない、そう態度で表すかのよう、軽く歯を立てる。
「やめ……」
 掠れる声が耐え難い、そうサイファは唇を噛んだ。恐怖と怒りと許し難い思いとが渾然として、うまく物が考えられない。
 その間もウルフは動きを止めなかった。握り締められた手首が痛い。脇腹を舌が這い、胸の辺りに指が触れる。何度サイファは息を呑んだか。悲鳴など、決して上げないと誓っていたからこそのこと。噛みしめた唇からはまだ、血の味がした。あるいは自分の血かもしれない。
「いい加減にしろ!」
 ウルフが足を割りかけた。その隙を突いてサイファは怒鳴った。怒鳴ったつもりの声は掠れていた。
「やめない」
 ウルフは、熱に浮かされた声でもなく、淡々と言う。それにはじめてサイファは明確に恐怖した。なにを考えているのかわからない。何をしたいのかがわからない。
「離せ」
「嫌だ」
 押し問答に飽きたのだろう、ウルフは器用に片手で服を脱ぐ。肌が触れ合った。まだ手首を握られたままではあったけれど、片手で抱きしめられた。
 ぞっとした。嫌悪感が湧かなかった、自分自身に。
「サイファ」
 耳許で囁く声。ウルフのそれも掠れていた。ゆっくりと手指が体を這いまわる。太股に触れた。ようやく、ウルフがなにを欲しているのかわかった。
 今度こそ、サイファは本気で逃げ出そうとする。体をよじり、あたう限りの方法で抵抗を試みた。
「痛いよ、サイファ」
 それは傷つけられた自分が痛いと言っているのか、それともこれから先のサイファのことを言っているのか。ウルフの口調は判然としなかった。
 ウルフが足を撫でている。蹴り上げかけた足を掴まれた。そちらに気を取られた隙にくちづけられる。また這入ってくる舌、熱かった。
 ウルフが触れた。サイファ自身に。飛びのきかけ、そして動きを封じられていたサイファは仰け反るばかり。
 逃げ出したい。なぜ。そんな思いしか湧かなかった。けれどもう、力など入らない。抵抗が収まった、と見たのだろうか、ウルフが唇を離し問いかける目をした。
「逃げないって、言って」
「誰が」
 サイファは吐き出す。それくらいしか、出来なかった。ウルフの哀しそうな目が、痛い。どこが痛いのか、わからなかった。
「ごめん」
 何に謝ったのか、わからなかった。自由な片手が動いた、と見る間にそれはサイファの腹に落ちた。
「……くっ」
 軽くではあったのだろう、だが戦士の一撃だった。サイファは呻くことしかできない。それを逃さず、ウルフが膝を割った。
「な……」
 抗議も抵抗も言葉にならない。ただ、痛くて苦しいだけ。
 軽く、握られた。苦しさの中、背筋を快楽が駆け上がる。屈するまい、そう思っても抗いがたい。いつのまに離されたのか意識することもなくサイファは両手で腹を押さえて呻く。
 それが呻き声ではないことをサイファ自身が一番よく理解していた。
「サイファ」
 返事など、期待していないのだろう。呼ぶだけ呼んで、ウルフはそっとくちづける。まるで詫びるように。
 それは声になどなりようもなく、だから悲鳴でも絶叫ですらもなかった。痛みに一瞬、頭が白くなる。
「ごめん、サイファ。ごめん……」
 貫かれた場所が、熱かった。ただ、何度も謝るウルフ。詫びながら、腰を叩きつけていた。そこがぬるつく。血の、匂いがした。
「サイファ……」
 掠れた声。快楽にではないものにウルフの声は掠れていた。
 苦痛の中、サイファは目を上げる。そこには目を奪うようなもの。呆然とした。
「サイファ」
 ウルフが泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしながら、圧し掛かっている。
 不意に染み透った感情。馬鹿馬鹿しくて笑い出したくなった。肌に、触れ合った肌に、ウルフの涙が落ちて流れた。
「ごめん……」
 痛みに眉を顰めるたび、ウルフは謝った。そして苦痛を少しでも軽くしようと言うのか、何度も肌に触れた。くちづけた。
「サイファ……」
 耳許で掠れ声。少し、歪んでいた。
「好きなんだ。馬鹿で、ガキで、どうしようもないけど、俺。あんたが好きなんだ」
 途切れ途切れの言葉。先に言え、喉まででかかったのに言葉にならない。代わりに唇が引き攣った。
「わかってるけど」
 泣きじゃくった顔を片手で拭う。みっともなくて、この上なく滑稽だ。けれど揺れた腰から感じるのは、痛みだけではなくなっていた。触れ合った肌からも。とっくにわかっていてしかるべきことだった。若造を、ウルフを笑えない、サイファは自嘲する。
「笑われるって、わかってるけど」
 ウルフに吐き出された言葉のほうが、痛かった。
「違う」
 ゆっくりとサイファの腕が上がる。長い間、掴まれていた手は、まだ感覚が戻らない。確かめるよう、ウルフの首に回した。肌が隙間なく重なった。嫌悪は、少しも湧かなかった。




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