髪を乾かして、元の居間に戻ったときにはもう食事の準備ができていた。
「遅いわよ」
「すまない」
 どこか皮肉に唇を歪めるアレクにサイファは素直に謝った。
 居間の暖炉にかけた鍋の具合をシリルが見ている。風呂から上がったあと、湖のほとりで流木を集めてきたのだ、と言う。仕事まで押し付けてしまったサイファはさすがに申し訳なくなった。
「かわろう」
 そう申し出たのにシリルは笑い、かまわないと手を振って、結局は一人ですべてをやってしまった。
 久しぶりに安全な場所で取る食事はことのほか美味だった。他愛ない話題は、シャルマークの暗黒を避けているとも取れたけれど、単純にこの長閑なひと時を楽しみたいだけでもあった。
 それが破られたのは食後に香り草の茶を飲んでいる、そんな時だった。
「ねぇ、シリル」
「なに?」
「シリルって、ずっとアレクが好きだったの?」
 まさかウルフがするとは思ってもみない質問だった。兄弟は顔を見合わせ、次いでちらりとアレクだけがサイファに視線を飛ばす。
「まぁ、そうかな」
「あら、ずいぶん言いにくそうねぇ」
 話題を避けようとしているのだろう、アレクが茶々を入れた。けれどウルフは気づきもせずにシリルを見ている。
「僕がアレクと一緒に暮らすようになったのは、けっこう子供の頃だから」
 そんなウルフの視線に負けたよう、シリルはかすかに溜息をついて話し出した。
「だから?」
「そのときアレクはもう子供ではなかったからね。初めて会ったとき、なんて綺麗な兄さんだろうと思ったよ」
 そう言っては照れたよう、微笑う。アレクを見ないようにしているのはやはり、恥ずかしいのだろう。サイファは話を聞きながら久しぶりにシリルに同情していた。
「あれ、年離れてるの?」
「離れてるよ」
「見えないけどな……」
「アタシ、美人だもん」
「それが、なんか関係あるの?」
 実に不思議そうにウルフは言った。サイファはうつむいて笑みを隠す。きっとアレクは不機嫌な顔をしているに違いない。
「まぁ、いいや。ねぇアレク」
「なによ」
 やはり尖った声をしている。
「アレクは?」
「なにがよ」
「だから、いつからシリルのこと好きだったの?」
「ずーっとよ。悪い?」
「全然。じゃあさ、それより前に好きな人って、いた?」
「坊や、なにが言いたいのよ?」
「んー。俺も良くわかんないんだよね」
「なにそれ。大丈夫?」
「たぶん」
 言った途端、兄弟が笑い出す。サイファもまた、肩を震わせていた。ウルフだけはなにがおかしいのかわからない様子できょとんとしている。それがまた笑いを誘った。
「坊や」
「なに」
「アンタ、誰か好きになったことあるの?」
「え、あ……いや……」
「あるのね?」
 まるで慈母の微笑み。これが男だとは到底思えないほどの顔つきだった。もっとも、その顔で罠に嵌めようとしていることくらいい、サイファには見当がつく。
 ただ、ウルフの話を聞きたいという興味もあった。いったいこの若造はどんな相手になにを語ったのだろうか、そんな興味。
 ふと、何かが痛んで下を見る。知らず、右手を握り締めていた。
「ない、とは言わないけど……」
「ふぅん、それで?」
「でも好きだったかどうか、わかんないよ」
「うんうん。で?」
 アレクは微笑みのまま追及を緩めない。こんな曖昧な態度で接せられた相手こそサイファは哀れだと思ってしまった。痛んだ、右手ではない何かがふつふつと滾るなにかに変わる。
「でって言われても」
「することはしたんでしょ? 坊やの年でお手々つないで遊んだだけですなんてアタシ信じないからね」
「アレク!」
 言われてウルフははじめてサイファの方を気にした。視線を感じはしたものの、サイファはなにも知らないふりをし続けている。黙って茶を楽しんでいる、そんな顔をしていた。
 内心では、なぜこんな話題を持ち出したのか、また自分の前で兄弟に問うたのかを考えていた。この人間の若造の考えることは理解できない、と。
 本人は理解していないものの、サイファには若造が自分に恋をしていることはとっくにわかっている。それなのになぜ、そんな思いがよぎる。
 こんな話題を出せばアレクに問い詰められることくらい想定するべきだとか、そもそも聞くなとか怒りが滾って仕方ない。ウルフの答えを聞きたくもあり、聞きたくもない。そのことにサイファは怒りと共に戸惑っていた。
「あるのよねー?」
「……あるよ」
「坊やの年だったらその方が自然だって言ってるじゃないの」
 それでも言わされてしまった形のウルフは唇を尖らせている。何かを言いかけ、そしてやめてしまった。
 サイファはそ知らぬ顔で茶を飲んでいる。片手はローブの袖の中、握り締められていた。
「ねぇ、サイファ。そう思うでしょ?」
 アレクがそう言っては小首を傾げて見せる。どう答えさせたいのだろうか、わずかに逡巡し、サイファが答えたのはウルフに対する理由のない怒りが原因だったのかもしれない。
「思う」
「ほら、サイファも言ってるじゃないの」
「サイファじゃなぁ」
「若造。どういう意味だ」
「別に。じゃ、サイファは?」
 さりげない問い。だがサイファには突き刺さるような問いだった。そして悟る。兄弟への質問は、ただこの一言が聞きたいが為だったのだ、と。本人がそれを意識していないことが一番、腹立たしい。
「なにがだ」
 素直に答える気など毛頭ないサイファは質問の意図がわからなかったふりをしてはぐらかした。
「サイファ、好きになった人、いる?」
「いない」
「人間ではでしょ」
「あいにくだが同族でもいない」
「……お師匠様は」
 ほんの少し、ウルフは言いよどんだ。サイファはゆっくりと顔を上げ、ウルフの目を真正面から見つめる。
「若造。どういう意味だ」
 つい先ほどしたのと同じ問い。けれど、サイファの声はずっと低かった。
「お師匠様のことは好きだったんでしょって、聞いた」
 ウルフはサイファの強い視線にも怯むことなくはっきりとそう言う。
「サイファ、お師匠様のこと、好きだった?」
 さらに問われた。サイファは言葉に詰まる。そのようなことは断じてなかった。そう言ってしまえば済むことなのに、言えないでいる。
 あるいはそれは幸福だった、半エルフにとってはほんの瞬きほどの時間を汚されたことに対する怒りであったのかもしれない。
「仮にそうだと言ったならば、どう反応するのか興味がなくはないが……」
「悲しいに決まってるじゃん」
 サイファの言葉を奪うよう、ウルフが言う。きっぱり言ってのけるそれだけは立派だ、サイファは皮肉に思った。
 そう断言するくらいならば、さっさと自覚すればよいものを、と。
「サイファ」
「なんだ」
「興味があるって、どうして。俺に?」
「自惚れるな、若造」
「じゃあ、なんでさ」
「純粋に魔術師としての興味だ」
 視界の端でシリルがちらり、笑った気がした。サイファにもわかっている。人間の反応が知りたい、と言う興味があるのは否定しない。が、魔術師としての、と言うのはさすがに言いすぎだろう。言い訳めくにもほどがある。幸い、それが言い訳だと悟ったのがシリル一人であったのはありがたかった。
「俺には?」
「質問は的確にはっきりと。なにが言いたいのかさっぱりわからん」
「……そうやってガキ扱いする」
「若造を若造と言ってなにが悪い」
「もうちょっと、ちゃんと……」
「扱って欲しければ、質問の意図くらいは明確にしろ」
「俺には興味ないのって言いたかったの」
 半ば自棄になってウルフが言った。ぷい、とあらぬ方を向いてしまう。暖炉の炎から遠ざかる方向に向けた顔は見えなかった。
「理解できんな」
「はっきり言ったじゃんか!」
「質問がわからなかった、とは言っていない」
「じゃあ、なに?」
「どうしてこの若造は、私が自分に興味を持つと思うのかが、理解できない」
 少しばかり、いたぶりすぎたかもしれない。サイファは振り返ったウルフを見てわずかに後悔した。無言でウルフは唇を引き締めていた。
「サイファ、その辺にしとけよ」
 茶化すかと思いきや、胸に染み入るような優しい声で言ったのはアレクだった。はっとして彼を見れば炎の照り返しを浴びて微笑んでいる。けれど紫の目はサイファは明らかに咎めていた。
「あぁ……」
 謝ろうとした矢先だった。
「サイファ」
 ウルフが決然と声を上げる。
「なんだ」
「まだ聞いてない、答え」
「答え?」
 サイファは戸惑って首をかしげる。答えていない問いなど、あっただろうか。
「お師匠様のこと」
 ぽつり、ウルフが言う。絞り出したような、苦しい声だった。
 無論、サイファは答えない。師と過ごした幸福だった日々を侮辱されるのだけは許せなかったから。振り上げた拳がウルフに落とされる、その直前に兄弟が飛び掛ってはサイファを止めていた。




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