あれほど大騒ぎになるとは思っていなかった。サイファはひとり苦笑する。 アレクが探していたのは浴室だった。形ばかり残っていれば湖の水を汲んでくるつもりだった、と彼は驚愕に目を見開いて言ったものだ。 浴室は、使用に耐えうる状態で残っていた。正面の壁は完全に崩れ落ち、屋根も半分方なくなっていたが、大きな浴槽は当時のまま残っている。屋根から落ちのだろう、巨大な岩が浴槽に入っているのもまた一興だった。 風が、吹き抜けていく。それがたまらなく快い。浴槽の下から湯は、あふれんばかりに湧き出していた。滾々と湧き出る湯は浴槽を満たし、縁を超え、そして破れた壁から湖へと流れていく。 それを見た途端だった。アレクが騒ぎ出したのは。 「アタシ、入るから。アンタ嫌でしょ?」 指先を突きつけてアレクは言った。無論、サイファは嫌だと首を振る。その返事を最後まで聞かないうちにアレクはサイファの肩を押し、浴室から押し出そうとしたのだ。 「ちょっと待て」 「待たない」 「浴室は逃げん。とりあえず二階で武装を解くことを強く勧める」 背中を押されながらもサイファは忠告し、シリルも口を挟んでからは渋々アレクもうなずいたのだ。 結局、兄弟は揃って入浴したらしい。サイファは良く知らなかった。あまり興味もなかったから、わざわざ聞きもしなかった。 ただ、それが自然だろう、と思っているだけだ。せっかく二人で過ごせる時間になにもウルフをまじえたりはしないだろう。 そう思ってサイファはふっと、口許に笑みを浮かべた。ゆっくりと立ち上がる。湯の中から、サイファの全身が現れた。 兄弟の後、何事かを言いたそうにしているウルフを断固として一人で風呂に入れ、ようやくサイファは一人の時間を楽しんでいる。 旅に出て以来、当然といえば当然だが、一人になる時間などないに等しかった。こうしてゆっくりするのも久しぶりだと言う気がする。 両手で湯をすくった。一人なのを良いことに、子供がするよう、湯を跳ね飛ばす。飛沫が夕陽を浴びてきらきらと光った。 落日が、湖に落ちていく。大きな浴槽の向こうは壁がないせいで、まるで赤く染まった湖に体を浸しているような、そんな気にさえなれる。 それはひどく幸福な気分だった。半エルフ特有の白く透明な肌も夕焼けに染まった。このままずっと眺めていたら髪も肌も皆、落日色に染め上げられてしまいそうだった。 また、湯の中に体を沈めた。湯面に、髪が広がる。ふわり、となびいていく黒髪を目で追いながらサイファはただぼんやりとしていた。 浴槽に、縁に頭を乗せ、片手を上げれば肌に湯がとろけて落ちる。 「どうして」 呟いた声が思いのほか大きく反響してぎょっとする。わずかに手を握り締め、改めて開いた。 その手にあるのは金の指輪。師から授けられた物で唯一、魔法を帯びていない物。瑠璃色の石が、鈍く光っている。 だがしかし、サイファが気にかけているのは師の指輪ではなかった。この手そのもの。ゆっくりと握り、開く。目の前にかざす。なにもない。ただの手だ。 それなのに、そこにあるような気がする。浴槽に預けたまま、サイファは首を振る。髪が湯の中で踊った。 不思議といつもあるような気がしてしまうもの。迂闊にも探そうとしてしまいかけるもの。 そう考えてサイファは息を呑む。認めない。そのようなことは、断じて。探してしまうのは、間違いなく未熟者が目の前で死ぬのを見るのは後味が悪いから、それだけだ。他に理由などない。 「ない、はずだ」 自らに言い聞かせるよう、サイファは言う。そして決然と立ち上がり、夕陽を睨みつけた。その赤さまでもが癇に障る、と言いたげに。 濡れた髪をかきあげれば指先に引っかかるもの。サイファは顔を顰める。革紐があるのを忘れていた。あきらめて溜息をつけば、立っているのが馬鹿らしくなった。 浴槽の縁に腰掛け、消え行く落日を眺めた。温まった肌が外気にさらされてわずかに汗を滲ませる。 額に張り付いた髪を指で払えばつい、また手に目が行ってしまう。苦笑して頬杖をつく。これならば右手は見えない、とばかりに。 夕陽は、ゆっくりと沈んでいくところだった。無駄だと思いつつもサイファは小さな魔法の明りを飛ばす。この程度の無駄は、むしろ娯楽と言うべきだと。 残照が消え、浴室は青白い明りに仄かに照らされる。その中でサイファはまだ、黙って座っていた。時折、足で湯を跳ねかしてみたり手ですくってみたり。 いつしか湯も湖も、夜の青に染まった。 サイファは一度浴槽に身を沈め、それから再び縁に腰掛けて髪を束ねて胸に回す。たっぷりと湯を含んだ髪が重たかった。 あらわになった首筋に、湯が伝う。わずらわしげに手で払えば、耳飾りが揺れた。衝動的に外したくなった。魔法の工芸品を入浴だからといって外すことはない。だから、身につけたままなのだ。そう自分自身に言い聞かせ、サイファは唇を噛む。他の物は一切、意識さえしていないというのに。 絞った髪を手に巻きつけてサイファはなにとはなしに湖を見た。どこからか、月光が射していた。 「サイファ?」 不意に声。咄嗟に浴槽に落ちた岩陰に体を隠す。 「なにをしている」 低い罵り声を上げてしまった。せっかく、良い気分でいたものを。 「覗きに来た」 そう、やけにきっぱりと言った。サイファは呆れて物も言えない。よくぞはっきり言ったものだ、と思っては、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。 「あ、いや! ちょっと待って、サイファ!」 サイファの気配を察したのだろう、ウルフが顔を引っ込めて、慌てて怒鳴る。 「なにを、どう、待て、と?」 「だから、そうじゃなくて! 誤解!」 「ほう……覗きに来た、と聞こえたが」 「言ったけどッ」 「ならば、容赦は要らんな」 片手を掲げ、魔法を放つ前の仕種をする。もっとも、本気で飛ばす気はない。今の気分で魔法を放ったりしたら、本当にウルフは死んでしまう。 「待ってってば! 頼むから。言い訳聞いて」 「簡潔にならば、許可する」 我ながら冗談めかした言い方だった、そうサイファは苦笑する。薄い闇の中だからこそ、できると。そして魔法の明りがあったことを思い出しては手を振って消した。 「あんまり遅いから、大丈夫かな、と思って様子を見に来たの」 「ほう?」 「ほんとだってば」 「覗きに来た、と聞こえたが?」 からかいたくなった。おそらくウルフが言っているのは真実だろう。自分でもずいぶん長い間入浴していた、とわかっている。 だが、慌てぶりがおかしいのだ。確かに他者に肌を見られるのを嫌悪するが、だからと言って同性に――それが人間であっても――見られて大騒ぎをする必要はない。単純に嫌だから避ける、それだけだった。何も逃げ回るほどのことでもないのだ。半エルフはよほど深く信用した相手でもなければ無防備をさらしはしない。全身を預けてもいいと思うような相手でもない限りは。サイファにとってそれはただ一人。そしてすでにこの世にいない。 ウルフを避けているのはまた特別なのだが、彼は以前過ちを犯している。半エルフの隠れ里に通じる湖での出来事をサイファはまだ忘れてはいない。 見られるだけならばまだ我慢もできるが、抱きつかれるなど、冗談ではない。だからあえて遠ざけているのだ。別々に入浴するなど、時間の無駄であるとわかっているのだから、これはサイファの我が儘だった。 「だからさー。そんな恥ずかしいまねしないって」 「どうだか」 「信じてくれないの」 「さて、どうだかな」 「サイファ……」 「だいたい、信じろと言うわりにそこから動かないのは、なぜだ」 サイファの声の中、かすかに笑いが含まれていた。岩陰から、向こうを覗く。ウルフは物も言わずに飛びのいていた。 「ごめん!」 「信じられない、と取るべきか、馬鹿な若造だと思うべきか、私は迷っている」 「……馬鹿でいいです」 「よくわかった」 喉の奥でサイファは笑った。誰も見ていないからこそ、笑える。あるいは、ウルフが見ていないからこそ。 「サイファ」 「なんだ」 「信じて、くれるよね?」 不安げな声。入浴姿を覗きに来たなどと言う不名誉はさすがに耐えられないのだろう。ウルフの、本人も自覚しない思いを知っているだけに勘繰りたくなる。 ふ、と探った。どうやら剣を身に帯びてはいないらしい。なにを考えているか知りたいと切実に思ったわけでもないのでサイファは打ち切り、大げさな、ウルフにまで聞こえる溜息をついてみせた。 「サイファ」 手を握り締めでもしたのだろう。情けない声を出している。そのくらいのことで一々泣くな、と言いたいがサイファは放っておくことにしてしまう。取り立てて他意はない。 「サイファ」 返事がないのに業を煮やしたのだろう、ウルフが浴室に足を踏み入れた気配。それを狙っていたサイファは手の中にすくった湯を、思い切り浴びせかけた。 「サイファ! ひどいよ」 「なにがだ」 「だって」 不満そうに言い募り、さらに言い訳を聞かせようというのだろう、ウルフが近寄ってくる。サイファは浴槽の中、遠ざかる。 「若造」 反響した声は位置が掴みにくい。ウルフがきょろきょろとあらぬ方を探していた。 「信じて欲しいか」 「もちろん!」 馬鹿みたいに元気のいい声が返ってきた。案の定、と言うべきだろう。本人はなにをしているか自覚がないらしい。サイファは大きく息を吸い込んだ。 「ならば、さっさと出て行け!」 そうサイファは笑って、片手を湯面に思い切り叩きつけた。 |