逃げるよう、その部屋を後にした。ウルフが追ってこないのに安堵して息をつく。兄弟はとっくに鍵を外して向かいの室内に入っていた。 「なにか、あったか」 自分の声が上ずっているのを感じた。アレクはかすかに不思議そうな顔をしたものの、何も言わない。シリルが横を向く。やはり、不自然な態度なのだろう。サイファは唇を噛みしめるのをなんとかこらえる。これ以上、無様をさらしたくない。 「あったわよ、ずいぶんね」 気を取り直したよう、アレクが笑う。そうか、うなずいた時に背後に気配。振り返らなかった。 「なにがあったの?」 何事もなかったよう、ウルフが問うている。ほっとした。兄弟の前で口論はしたくない。 「防具の類ね」 「ふうん」 どれ、そう言いながらウルフが近づいていく。隣をすり抜けた。ふっと、風が動いたような気がする。嫌な、感覚ではなかった。そのことにサイファは戸惑った。 「見ますか?」 シリルが言うのにサイファは黙ってうなずき、アレクの側に積み上げられたものを見た。 「鎖鎧が二つ。籠手が三つ。短剣も三つ。額冠が二つ、ですね」 「ほう……」 「ね?」 つい、声を上げてしまったサイファにシリルが微笑む。満足そうな顔だった。 「どうよ、サイファ」 「あぁ、いいものだな」 「そうじゃなくって」 アレクが笑う。戸惑いを察したように。それがわずかに癇に障った。 「サイファには、自明のことなんだと思うよ。そうでしょう?」 シリルが助けてくれた。そのことに気づいてサイファは内心で溜息をつく。過敏になっている。たかが人間の若造相手に。かき乱されるのは嫌だ、とあれほど願っていたにもかかわらず。 「そうだ。すまない」 たとえ一瞬でも我を忘れそうになった自分が嫌だった。どうせ忘れるならば怒り狂って殴り倒してしまえばよかったものを、逃げ出すとは。それができない自分が不思議で、だからこそ、苛立たしい。 けれど、兄弟にあたることはないのだ。仲間に、こんなことで迷惑をかけるのもまた、嫌だった。その程度には、あるいはそれくらい兄弟を信頼している。だから、サイファは素直に謝罪する。それをどう取ったか、アレクは少し唇を緩めただけだった。 「で、どうなのよ?」 問われるままに防具を手に取る。魔法を帯びていることは見ただけでわかった。それほど強い魔法を感じる。不意に、耳飾りが意識されてやりきれない。ウルフに贈られた耳飾り。あれから今に至るまで、一度として意識したことのない物なのに。ちりちりと、痛みに似た何かがそこにある。 「鎧は防護の魔法がかかっている。素晴らしい物だな……」 「それほどですか?」 「いや……」 薄く笑った。シリルが気づいていないとは。そのことに気を取られるのをよいことに、今はウルフの面倒を忘れることをサイファは決めた。 「真の銀でできている」 「……え!」 これが、呟くよう言ってシリルが鎧に手を触れた。 美しい、千年もここで眠っていたとはとても思いがたい磨きたての銀色をしている。細かく編まれた鎖の各部に板金が施され、あの騎士たちの鎧のよう補強が施されていた。そしてその板金には精緻な文様が刻み込まれている。美術品として売ったならば貴族たちがこぞって値を吊り上げることだろう。 「真の銀って、なに?」 ウルフの声。無視することは出来なかった。まるで自分がまだ何事かを気にしているようで。サイファは一度唇を噛み、そしてウルフに向き直る。 「お前に言ってわかるか?」 「いいじゃん、説明してくれたって」 「無駄だと思うが」 いつもどおりのウルフだった。どこか、拍子抜けした。そしてそれを腹立たしく思う自分がいるのがわからない。溜息ひとつで忘れることにサイファは努めた。 「まぁ、溜息ついてないでさ、ちょっと説明してよ」 首をかしげて笑っている。愚かな子供。人間の若造。演じているような気がしてならない。 「わかるとは思えないが……」 勿体をつけたわけではないが、気にかかることが多すぎる。ウルフはウルフのままでいいと言っておきながら、若造の真意がどこにあるのかだけは気になって仕方ない。 「ウルフ」 「うん?」 「ミスリルって聞いたこと、あるだろう?」 答えないサイファに代わってシリルが言う。まるで子供じみた仕種でウルフが納得した。ぽんと両手を打ち鳴らし、うなずいている。 「ある! へぇ……銀色なんだ」 「当たり前じゃないのよ。銀だもの」 「だってさ、普通の銀色じゃん」 「坊や、銀食器って見たことある?」 「ないわけじゃない、と言う程度かな」 はぐらかした答え。そのような高価なものを日常に使うことはない。貴族でないならば。ある程度以上の教養を持っていることを考え合わせれば、ウルフはそれなりに良い家の生まれなのかもしれない。それならば三王子を探しにきたというのもうなずける。騎士たちのよう、名誉になると思えばこそだとするならば。 「じゃあ、銀ってほっとくとすぐ黒ずんじゃうって知ってるわよね?」 サイファの物思いなど知る由もなく、アレクがウルフをいたぶっている。まるで獲物で遊ぶ猫だと思えば微笑ましくもある。 「それくらいは知ってるよ!」 「じゃ、これ。なんで黒くなってないの?」 「え……」 「神人が去ってからおよそ千年。普通の銀だったら黒くなって……ううん、腐食してぼろぼろになってるかもしれない」 「そうか……すごいことなんだ」 「わかった?」 「うん、わかった」 うなずいてもう一度鎧に触る。どこか恐る恐るといった体で触れているのがおかしかった。 「持ってみろ」 だから、気軽に声をかけられた。今度ばかりは子供に見えるのも演技ではない、とわかっていたから。 「うわ、なにこれ!」 言われたとおり鎧を持ち上げたウルフが驚きの声を上げる。 「軽いだろう?」 「すごい軽いよ、これだったらきてても全然重たくない」 「真の銀の特性だな」 「すごいね……」 片手に鎧をかけ、反対の手で撫でている。兄弟がそれを見ては笑い声を上げた。 「二つあるんだからシリルと坊やでわけなさいな。取ったりしないから」 「ありがとう!」 笑われるのにもかまわずウルフが喜んで鎧を抱きしめる。まるでおもちゃを与えられた子供だ。サイファはほっとした。先程のは、きっとなにかの弾みか気のせいだ、と。 「あとのはどうです?」 「そうだな。籠手もミスリル製だ。これも防護の魔法がかかっている。短剣は軽量化と素早さの魔法が、額冠にもミスリルが使ってあるな。これは兜の代わりになるよう、魔法がかかっている」 「それは豪勢ですね」 「お前たちにはちょうどいいものだったな」 「まったくです」 「じゃ、鎧はシリルと坊や。額冠と籠手もね。短剣はどうする?」 「サイファ、どうしますか?」 「私が持っていても役には立たん」 「では、僕らとウルフが持つことにしましょう」 それでいい、とサイファはうなずく。嬉々としてそれらを分け合っている仲間を見るのは楽しいことだった。 これから、間違いなくシャルマークの大穴に向かうというのに、彼らは恐れてなどいないように見える。否、死地だと言うことは理解しているのだろう。その上で還ってくる、と信じているに違いない。 人間の強さを見た思いだった。死すべき定めの人の子の、明日を信じる希望の強さ。巻き込まれてもいい、ここまで来てはじめてそう思った。 「さて、とりあえず上に戻りませんか?」 防具を抱えて大荷物になってしまったシリルの提案に一行はうなずいて階段を戻った。 サイファが先頭に立つ。あらかじめこの辺りだろう、と見当をつけていたところが幸いにして正解だった。 「あら、いい具合に残ってるわね」 室内を覗き込んだアレクが顔をほころばせる。大きさから見て広間ではない。もっと個人的な居間だったのだろう。中々に居心地の良さそうな室内だった。 もっとも、家具の類は残っていない。木製の物などは時の流れのままに朽ち果ててしまったのだろう。地下では感じなかった埃の匂いがかすかにしていた。 「僕らのほかには誰もいないことだし、ここに荷物を置いて少しまわってみようか」 「いいわね」 シリルの言葉にアレクが早速と乗る。ウルフが名残惜しそうに鎧に触っているのを見てサイファはかすかに唇を緩めた。 「そんなに笑わなくってもいいじゃん」 視線を感じたのだろう、ウルフが唇を尖らせる。 「嬉しそうだったからな」 「当然でしょ」 「戦士というものは、やはりそういう物が嬉しいのだな」 「違う、そうじゃないよ」 ウルフはふと真面目な顔になって首を振る。それからわからないかな、と小声で呟いた。 「危ないでしょ」 「なにがだ」 「なにがって……ここまで来て帰るわけじゃないんだからさ」 「それはそうだが」 「だから、こういう物があるのが嬉しい。死ぬ可能性が減るし、サイファを守ってられる時間が長くなる。……ずっと守るつもりだけどさ」 最後だけは笑って言った。目をそらしたくなってしまう。ウルフが言うことは何一つ間違っていないのだ。だが、可能性が少なくなるだけで、死なないとは言えない。長くなるだけで、それは短いかもしれない。 ウルフが死ぬかもしれない。いずれ、先に死ぬことくらい、わかっている。だが、目の前で死なれるのだけは、嫌だった。彼の最期の息が絶えた瞬間を、思い出してしまう。記憶ではなく、ウルフが。そう思えば想像しただけで、身の内が冷えそうな、そんな気がする。 「サイファ」 「なんだ」 「そんな顔しないでよ」 「どんな顔だ」 「……死なないよ、俺は」 ぽつり、言ったウルフの言葉に、答えるものをサイファは持たなかった。そのことがなぜか、無性に悲しかった。 |