一人、さっさと戻ってしまったのを仲間たちはなんと思うことだろう。ふと不安になってサイファは振り返る。兄弟は手を繋いだまま微笑み、ウルフは笑って走り寄ってきた。
「どうしたの?」
「なにがだ」
「振り返ったから」
 何事もなかったよう、彼は言う。胸の中、安堵が広がった。
「別に」
 言ってサイファはひっそりと笑った。まるでウルフのような言い草だ、と。
「ねぇ、サイファ」
「なんだ」
「廃墟、探検しようよ」
 まるで遊びにでも誘うような声音。ゆったりと歩くサイファの歩調に合わせて共に歩く。妙に、心地良かった。
「探検、か」
「そう。面白いもんがあるかもしれないじゃん」
 ね、そう首をかしげたウルフの手がサイファのそれの中、滑り込んでくる。いまは払う気になれなかった。
「ちょっと、坊やには危険って言葉がないの?」
 笑いながらアレクが言う。言っている本人にしてもどこまでわかっているものだか、サイファは思いシリルを見やれば彼もまた笑っている。
 あの闇を見た後でこうも楽天的になれる人間と言うものの逞しさを見た思いだった。
「だって楽しそうじゃんか」
「それはアタシも認めるけど。勝手に行くんじゃないわよ」
「大丈夫、大丈夫」
「まったく。信じらんないわ」
 憤慨して見せるアレクにウルフはへらへらと笑って答えない。柔らかいぬくもりがまだ手にあることはわかっていたが、サイファは気づかないふりをして歩を進めた。
「サイファ。神人の館って言ったわよね?」
 背後を歩いていたアレクが追い越しては振り返り、後ろ向きのまま器用に歩く。シリルが苦笑しながら背中を支えていた。
「言ったが」
「うーん、じゃあ……」
 小首をひねって何事かを考えている。サイファはわずかに微笑んだ。きっと、以前の神人の館のことを思い出しているのだろう。
「ここに危険はない。おそらくは罠の類も」
「どうして断言できるのよ?」
「考えてみるがいい。誰がここにこられる?」
 サイファの言葉にアレクが足を止めた。
「そうか……。無理なのか?」
「ほぼ確実に」
「どうしてですか、サイファ」
「あの湖を渡れるものがいたとは思いがたい」
「あなたを侮るつもりはありません。ただ、強大な力を持つ魔族もいることですし……」
 シリルの言葉を聞き、ようやくサイファは気づいた。そして知らず口許に笑みが浮かぶ。
 この武闘神官にして、知らないことがあるものだな、と。知識も魔法も武術も求められる地位に若くしてついたシリル。だから彼には多くを言わなくとも通じてしまうような錯覚をする。ほとんどの場合、錯覚ではないのだが、ついサイファは忘れてしまうのだ。彼もまた、若い人間であると言うことを。
「あれは一種の結界だ」
「……結界、ですか。あれが!」
 その規模の巨大さに驚いたのだろう。シリルが絶句し、立ち尽くす。止まってしまった兄弟を促して歩きながらサイファは話を続けた。
「そう。結界だ。ただ、ある意味では魔法ではない」
「すみません。わかりません」
 そうだろう、と言うようサイファはうなずき、傍らを見た。案の定、ウルフは黙って殊勝げに聞いてはいるもののまるで理解できないことに口を挟まない、と言うだけらしい。
「あの結界は神人が作ったものだ」
「神人……」
「神人の力と魔族の力は打ち消しあう。拠って、魔族にあの結界を破ることはできない。つまり、敵対する者がこの島にいることはない」
「質問」
 なにか聞きたいことでも出来たのだろう、ウルフが嬉々として片手を上げて見上げてきた。
「なんだ」
「どうしてサイファは入れたの?」
「……どういう意味だ」
 思わず問い返してしまう。それをアレクが声を上げて笑った。
「坊やったら! アンタの言い方じゃサイファが魔物みたいじゃないのよ」
 魔物よりよっぽど危険だと思うけど。そう言い添えてアレクが視線を流してくる。サイファは睨みつけたものの馬鹿馬鹿しくなっては笑った。
「そんな意味じゃないって! サイファ……」
「わかっている。いいからその手をどけろ!」
 懇願の目をしたまま抱きついてくるウルフを跳ね飛ばし、サイファは今度こそウルフを睨む。
「ん。ごめん、言い方悪くって」
「仕方ないな。お前だから」
 あからさまな溜息をついてみせる。が、ウルフに効果はなく、軽い笑い声が返ってきたばかり。
「馬鹿でごめんね」
 言って振り払ったはずの手をまた握ってきた。何度も払い落とすのが面倒になったサイファはウルフのしたいようにさせたままだ。諦めが早くなった、と内心で溜息をつくもののどこまで自分の本心なのか我ながら疑わしい。
「それで?」
「あぁ……。あの結界は私に反応したのだろう」
「どういうこと?」
「想像でしかないが」
 そうサイファはまず断りを入れた。広い世界、サイファとて完全に理解できないことはいくらでもあるのだ。この旅に出て以来、それをずいぶん思い知ったものだ。
「おそらく、あれは血に反応したのだろう」
「血?」
「神人の血だ」
「なるほど」
 うなずいたのはウルフではなくシリル。思うところがあるのだろう、心持うつむいて何かを考えている。
「そっか、サイファって神人の子供なんだよね」
 いまさらのことを言う、とサイファは呆れてウルフを見た。しかし、と思い直す。今のこの世において自分たちは半エルフ、とは呼ばれても神人の子と呼ばれることはない。ウルフでなくとも失念している事実なのかもしれない。
「では、安全ですね」
 納得したよう、シリルが振り返って微笑んだ。そのせいではないのだが、ついサイファは意地の悪いことを言ってみたくなった。
「どうかな?」
「え?」
「私が入れたんだ。半エルフならば誰でも入れると思うが」
「サイファ」
 たしなめたのはアレク。自らの同族を貶めるものではない、と目が非難していた。
「そうですよ、サイファ」
 無言の言葉にシリルも同調する。それが少しばかり忌々しかった。
「サイファ」
「なんだ」
「あんた、ここに同族がいるって感じる?」
 ウルフまでそんなことを言う。そしてはっとした。ウルフが、アレクの非難を感じ取っている。この、なにを考えているのだかまったくわからない若造が。
「どう?」
 じっと見つめられた。その目から逃れたくて視線をそらした。
「誰もいないんだね」
 ふっと声から険しさが消える。どこか、寂しそうな色に変わった。
「どうした」
「神人の血を引いてないと入れないんでしょ? だったらここは安全じゃん。半エルフにさ」
「……だから?」
「ここがあんたたちの旅の終わりの場所なのかなってちょっと思っただけ」
 まだ、覚えていたのか。そらしていた視線を戻してしまえば優しげに揺れる茶色の目。
「でもこんなとこじゃなくって良かったよ」
 そうウルフは言い足して、照れたよう笑った。いつの間にか繋いだ手に指が絡まっている。さして大きくもない若い戦士の荒れた手。それがどうしてこんなにも温かい。
「まったくだ」
 それ以上、答える言葉がなくてサイファは残されたただ一つのことを。見つめ合ってしまっていた目をそらすだけ。
「だいたいさ、こんなとこじゃ困るじゃんか」
「なにがだ」
「だってさ。俺、追いかけらんないもん」
「……は?」
 なにが言いたいのかわからない。我ながら間の抜けた声だと思いながらサイファはまたウルフを真正面から見てしまった。
「シャルマークから帰ったらさ、サイファ一緒にいるの嫌だって言ったじゃん」
「言った」
 前を歩く兄弟が笑った。なにを笑われているのか見当がつかない。困惑が深くなるばかりだった。
「だから俺は追いかけるの」
「帰れ」
「まだ追いかけてもいないでしょ! て言うか、まだ一緒にいるじゃんか。でね、追いかけるからさ、こんなとこにこもられたらすごく困るわけ。わかる?」
「……わかりたくない」
「わかってね」
 ウルフに言われたくない。この若造にだけは言われたくない。そんな思いが顔に出たのだろう、ウルフが少し笑った。
「あんたが、好きだよ」
「若造、いい加減にしろ」
「だって」
 言い募ろうとするのを睨みつけてやめさせた。サイファは動揺していた。なにがどうと言えるものではない。この微妙な違和感を言葉にできるはずもない。何かが違う。胸騒ぎが、止まらなかった。




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