気づけば上り坂になっていた。水の壁は高さを減らし、ついには消える。一行は島に上陸したのだった。 警戒を強めている仲間を横目にサイファは振り返る。その視線と共に水の壁は壊れ、激しい波となって元の湖に返った。 「廃墟、ね」 じっと立ち尽くしたアレクが前を見ていた。島の中にはあの建物がある。湖を隔てて見たときのように明滅はしていない。あるのはただ、壊れた建物だった。 それでも往時はどれほど美しい物だったのか充分すぎるほど想像ができる。落ちた屋根に、壁の飾りに華麗な形と色彩が残っていた。 「そうだね」 畏怖に打たれたよう、シリルが呟く。兄弟は一歩も動こうとしなかった。 サイファは仲間を尻目に進んだ。ウルフの手が伸びてくるのを寸前でかわし、建物の側まで行く。そして確認した。思ったとおりだった、と。 「ちょっと、危ないわよ」 背後から心配そうなアレクの声がするのに手を振って答える。まだ彼らは進む気になれないようだった。 「ねぇ、アレク」 「なによ」 「なんで女言葉なの?」 後ろでウルフが不思議そうに問うている。緊張に耐えられなくなったのだろうか、無意味な問いだった。サイファは密かに笑いを漏らした。 「えー。いまさら照れくさいじゃない?」 ふっと笑った声。思えばウルフらしくない疑問、かも知れない。兄弟が、兄弟だけでなくなったのは理解しているだろうが、アレクの言葉遣いの不自然さに気づいていたとはサイファも知らなかった。 「これだから、若造がわからない」 思わず呟く。そしてはっと口に出してしまったと気づいた。背後に残してきた仲間に聞かれることはなかっただろう。 「ふうん、そんなもんなんだ?」 納得の行くような行かないような、そんなウルフの声。サイファはそれを耳にしながら廃墟の入り口に手を触れた。 「サイファ! なにやってんだ、馬鹿ッ。触るな!」 途端に飛んでくる罵声。耳慣れない声ながら幾度となく聞いた声。アレクが男の声で怒鳴っていた。 振り返ってサイファは微笑む。安心させようとしただけなのだが、駆け寄ってきたアレクはそんなものにかまうことなくサイファの胸倉を掴んで引きずり戻した。 「危ないだろう、気をつけろ」 目の前で睨む紫の目。真剣すぎて反っておかしい。笑いかけたサイファに向かってアレクは滔々と説教を始めたのだった。 「……サイファには普通に話すじゃんか」 残された形になってしまったウルフが呟いては軽く唇を噛みしめた。 「ほんとだよねぇ」 シリルが微笑って答える。それをウルフが不思議そうに見ていた。 「ねぇ、シリル。嫌じゃないの?」 「なにが?」 「だって、その。アレクが……」 「全然」 「どうして?」 「だって、あの二人は友達なだけだから。仲のいいね」 「友達、か……」 期せずして二人の視線が前を向く。まだ、サイファはアレクに怒られていた。サイファが何かを説明しようとしているのだが、アレクの方はまったく聞く耳を持っていない、そう見える。 「ウルフ」 「なに」 「焼きもち、妬いてるの?」 「え? 誰に?」 「君が。アレクに」 言ってシリルがウルフを見た。じっと見られることに堪えられなくなったよう、ウルフが目をそらす。 「シリルは、妬かないの」 「言ってるでしょ。友達相手に嫉妬してどうするのさ」 軽く笑う声。ウルフは笑う気になどなれないでいる。視線はただ前を見ていた。サイファを。 「妬いてるのかな、俺」 ぽつり、ウルフが言ったのはだいぶ経ってからだった。ようやくアレクがサイファの話を聞き始めていた。ただ怒鳴り疲れただけかもしれない。 「僕には、そう見えるね」 シリルの答えにこそ、驚いたよう、ウルフが彼を見た。 「そんなに驚く?」 「だって」 「ねぇ。君はサイファをどう思ってるの?」 「どうって……。大好きだよ」 「それは、どういう意味?」 「意味?」 今度はウルフがじっとシリルを見つめた。よく似た色合いの茶色の目。けれどシリルの目には英知がある。それは神官だからだろうか、ぼんやりとウルフはそんなことを思っていた。 「好きにも色々あるでしょ」 「うん、わかる。わかると……思う」 「考えてみるといいよ」 ウルフは黙ってうなずいた。そして視線がまたサイファへと流れる。考えるまでもないのかもしれない、ウルフの視線の先に誰がいるのかを知っているシリルはそう思ってはそっと微笑んだ。 「サイファ、知ってるのかな」 「うん?」 「俺、馬鹿だから。俺が考えてることくらい、サイファが知らないわけないと思う」 シリルは緩みかけた頬を引き締めた。口で言ってるほど、愚かではない、と思って。 「さてね、自分で聞いてごらんよ」 だからシリルははぐらかす。これ以上は自分もアレクも介入するべき問題ではないから。自分たちの混乱を、サイファがじっと見守ってくれたように。 「他人事だと思って」 ウルフの恨めしげな声。見ればウルフは拗ねたよう、唇を尖らせていた。 「シリル!」 ちようどその時だった。アレクの弾んだ声がする。先程までの不機嫌とは打って変わった声にシリルは苦笑し、ウルフを促して二人の元へと走って行った。 「どうしたの?」 問いかけるシリルにアレクはにんまりと笑う。それでシリルには見当がついてしまった。この廃墟はきっとアレクの気に入るような場所なのだ、と。 「ここ、神人の館だったって、サイファが言うの」 「神人の、ですか」 よもやと思ったのだろう、シリルの驚く顔にサイファが笑みを向け、うなずいた。 「神人のって、あの前のとこみたいな?」 ウルフが言って袖を引く。それをサイファは煩わしげに払い落とし、けれど返事だけはきちんとする。 「そうだ。あれよりもずっと大きいが」 「うん、前のよりもずっとすごいよね。綺麗だし」 「シャルマークの王宮の横だからな」 さらりとサイファは言った。 「へぇ、王宮の横かぁ……王宮の横?!」 「そう、すぐ横だ」 ウルフが驚きに声を上げた。兄弟は絶句して声もない。サイファは仲間が一様に驚愕したのを喜ぶよう、薄く微笑ってついてくるよう手招いた。 サイファが足を進めたのは上陸したのとは反対の、湖の裏手にあたる場所だった。ゆっくりと歩いたせいでもなかろうが、巨大な廃墟はいつまでも果てることがないよう一行は感じている。 それでもついには廃墟の裏側へと辿り着いた。そこで彼らが目にしたのはこの世の終わりだった。比喩ではない。湖の向こう側、本来だったら陸地があるはずだった。それがない。否、あるのだろう。けれど目には見えない。ぽっかりと、まるで視界が奪われたように暗い。 「目が、おかしくなったみたい……」 アレクが呟く。それは声でも出さなければ自分の存在そのものが消えてしまいそうな不安があるからなのだろう。そっとシリルが手を伸ばしアレクの手を取る。握り締めたアレクの手は震えているよう、見えた。 「サイファ」 「怖いか」 「怖いよ」 「そうか」 隣でウルフが震えている。意地だろうか、見栄だろうか。ウルフは我と我が体を抱くばかりでサイファにすがろうとはしなかった。剣から伝わってくるのは戸惑いと不安。どちらもこの場に相応しい。サイファは一人うなずく。 「サイファ」 「なんだ」 「怖くないの」 問いかけてきた。怖いのはお前だろう、言いかけてやめた。なにを言うでもなく、黙って手を出した。手にぬくもり。たじろいだ。なぜ、自分がそんなことをしたのか。同情、とは思えなかった。 あの暗闇に恐怖したのか。自問する。すぐに答えた、違うと。あれが何かサイファは知っている。一目見て理解した。だから恐怖ではない。 ならばなぜウルフの手を求めた。再度問う。問うて気づいた。求めた、自分が。不可解だった。あるいはウルフを慰めようとしたのだろうか。どちらにしても理解できない。自ら求めたにしろ慰めたかったのにしろ、そこまで人間の若造を気にかける必要などどこにもないはずだ。 理解できないことが多すぎる。サイファはそのことにこそ震えた。わかるのはただ、この手が温かいことだけ。 「ありがと」 そっと耳に滑り込んだ声。礼を言われる覚えなどない。だから首を振った。ウルフが微笑んでいる。柔らかい目の色が何かを言っていた。ウルフに何がわかったと言うのか。サイファには、何もわからなかった。 「戻ろう」 かすかに自分の声が強張っているのを感じる。兄弟は、あの闇への恐れ、と取ってくれただろうか。ぬくもりを払い落とし、サイファは返事も聞かず歩き出す。仲間が追ってくるのを確かめもしなかった。 暗闇が遠ざかっていく。不安も恐れも去らなかった。それは自分自身の中にこそあると、サイファは認めざるを得なかった。 |